母の日や父の日を迎えると、大抵は詩をアップする事が多いので、今回は父に纏わるエピソードを一つ紹介しようと思う。
わたしに負けず劣らず波瀾万丈の人生を送った父なので、母と違って話題は尽きない。
太く短く生きたと人は言うが、父に死ぬつもりは全くなかった。
「父が死んだその日」で表現している通りで、わたしと二人で新しい人生を迎えようとしていた。
ただし、父の病気は重篤な「肝硬変」で、それは既に末期であったと思われる。
医者に診せたところで手遅れと言われただろうし、助かる手段は「肝臓移植」しかなかっただろう。
死ぬ三日前にわたしは父に呼び出され会っている。
その時「次に来る時は入院しているように」と言っておいたのだが、父はそれを断った。
寝間着もなければ、ぺちゃんこの薄く冷たい布団で毛布さえない。
外は秋が深まり冬支度を急かす北風が、冷たく青々とした空を吹き抜けて行く。
下着は何日も着替えた様子はなく髪も髭も伸び放題、人一倍綺麗好きだった父から見れば、こんな自分の姿を、他人の目に晒したくないという気持ちが強かったのだろう。
陽当たりのよい縁側に出て「とし坊、頭を洗ってくれるか」と言われ、生まれて初めて父の頭を洗うことになった。
小学生の時は、父がよくわたしの頭を洗ってくれた。
その思い出が蘇り、父の頭を洗う手により一層力が入った。
その父がまさか三日後に死ぬなんてことは想像すら出来なかったし、「働けるようになったら、車を買ってやるから免許を取れ」と約束までしていたのだが。
通夜の時に集まった親類縁者たちは、父について「自業自得」だと語っていた。
父の悪口ばかりが聞こえて来て、わたしは俯きながら唇を噛み締めていた。
酒に溺れまともな仕事にも就かず、刑務所に何度も厄介になっている父を見れば、悪口しか聞こえてこないのも当然だろう。
しかし、息子がいる前でそんな話しをすることもないだろうに。
親戚や兄弟たちからは悪い評判しか届かない。特に伯父さんは父の作った借金を一人で背負い返してくれたのである。
金額にして500万円、昭和30年代の金額にしてみれば途方もない借金である。
この件については、わたしは全く知らなかった。
何故こんな借金があったのか不思議でならなかったのだが、父は非常に気前がよく、友人たちと毎晩のように飲み歩いており、その時の飲み代は常に父が払っていたようである。
わたしの弁当や食事は作らないのに、他人に対しては非常に面倒見がよかった。
親ならばこの逆でなければいけないのだが、わたし自身については無頓着であった。
ただ、父が現金を持ち歩いていた姿を殆んど見ていなので、顔が利く店では飲み代を付けにしていたのではないだろうか。
とにかく伯父さんからみればとんでもない弟だったようだ。
そんな父ではあったが、近所に住む人たちは父の悪口を殆んど言わなかった。
父の亡骸を見て、髪を振り乱し身体全部で悲しみを表現していたのは、隣に住む「あっこちゃん」だった。まるで自分の親が亡くなったかのような、悲鳴にも似た泣き方だった。
このように、父を愛する人たちも多く存在したのも事実で、やはり人は死んだ時にその存在意義が分かるのかも知れない。
どんな悪人であっても、必要とする人間はいるものである。
前置きが随分長くなってしまったようなので、本題に入ろう。
わたしが15歳、父39歳の時の話しである。
養護学校を卒業した後のわたしは、清水にある病人専門の職業訓練所にいた。
養護学校に転校する時も卒業する時も、そして訓練所に入る時も全て伯父さんが父の代わりをしてくれていた。
父は藤枝に伯父さんと住んでいたにも関わらず、一切わたしにはノータッチ。
何故そんなことになったのかいまだに疑問である。
そんな父からある日電話がかかってきた。
「もしもし、とし坊…久しぶりだな」
「急に電話なんかかけてきてどうしたの?」
何故父がわたしの居場所を知っており、電話番号まで分かっているのが不思議でならなかった。
「今、久能海岸の停留所にいるんだけどな」
「はぁ…?」
「ちょっと頼みたいことがあるんだ」
「なに?」
「金を貸してくれないか…」
「いくら…?」
「千円でいいからさ…」
わたしはまだ15歳であり、仕事をしていないので収入はなかったが、訓練所から一ヶ月の小遣いとして5千円が支給されていた。
「分かった、じゃあいま直ぐ行くから」
と言って電話を切り、くしゃくしゃの千円札を一枚ポケットに押し込み、停留所に向かった。
久能海岸を走る150号線に駿河湾の荒波が押し寄せ、テトラポットに砕け散っていた。
父から話しを聞くまでわたしの頭の中は??だらけであった。
潮で錆び付いたトタン屋根が風に煽られて「バタンバタン」と大きな音を立てている。
その下で肩を小さくすぼめながら、冷たい潮風に背中を向けて立っている父を確認した。
手を振りながらわたしは父に近づいて行った。
父に会うのは約一年ぶりだった。
わたしはすぐさま父に疑問をぶつけてみた。
「なんでここにいるの?」
すると、とんでもない答えが返って来たのである。
「実はな、仲間数人と沼津に行ったんだ」
「うん…それで?」
「それでな、朝まで飲んでしまってさ、気がついたら帰る金がないんだよ」
「仲間はどうしたの?」
「いや、それが起きたら父ちゃん一人でさ…」
「それで、沼津からここまで歩いて来たんだ」
「歩いて…?」
「ああ、随分時間がかかったよ」
沼津と清水の距離は約55キロである。徒歩だと一体どれだけ時間がかかるだろうか?
わたしは驚いたと言うよりも呆れて却ってしまった。
「電話をかけるお金はあったんだね…」
と少し笑いながら父の手に千円札を渡し、清水駅行きのバスが来るのを待った。
バスに乗り込む父の背中を押しながら「ちゃんと藤枝に帰るんだよ」と見送った。
まるでわたしの方が親である。
後に聞いた話しによると、父は駅に着いたものの、電車には乗らずその足で酒場に行ってしまったのである。
折角上げた千円を父はなんと酒代に変えてしまったのだ。
酒が止められないのは分かっているが、後先考えず大切な金を酒に変えてしまったりするものだろうか?
そしてこともあろうに、酔った父はパトカーをタクシー代わりにしてしまったのでる。
警察の厄介になるのはいつものことであるが、パトカーで藤枝まで送ってもらったのは父くらいのものだろう。
この話しも父の武勇伝の一つなのだろうか?
皆さんはどう思います?
