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プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-口蹄疫

 原発事故発生以来、放射性物質に翻弄され続けて来たわたしたちであるが、最も恐れていた事が現実となってしまった。

 スーパーなどの店頭に並ぶ食料品や飲食店から出される料理は、安全という常識の下でわたしたちの胃袋を満たしている。

 その常識が覆された時、そこから生まれる不安はウイルスの如くに増殖を続け、消費者に精神的ダメージを植え付けて行く。

 ユッケ問題で大きく揺れた食肉業界に降り掛かった次なる使者は、放射性セシウムに汚染された黒毛和牛であった。

暫定規制値(1キロ当たり500ベクレル)を遥かに上回る1998ベクレルの放射性セシウムが肉を通り越し骨にまで及ぶという、あってはならない汚染牛誕生の背景には、安全基準に警笛を鳴らしながらも徹底管理を怠る人間の隙間に生じた怠慢ではないだろうか。

 汚染牛の流通が確認されているのは、北海道、東京、神奈川、千葉、静岡、愛知、大阪、徳島と広範囲に及んでおり、既に食肉用として店頭に並び焼き肉店などでは、料理として消費者の口に入ってしまったものもある。

 そして聞こえて来るのが原発事故発生直後から連呼された「直ちに影響はない…」。専門家も口を揃えて同じように「大量に食べねば問題ない」などとのたまうが今ひとつ説得力に欠け不安を払拭するまでには至っていない。

 確かに数字を並べて説明すれば体内に取り込まれる放射性物質の量は微々たるものである。しかし、自然界に存在しない物質が自分の体内にあると分れば気分のよい筈はなく、ストレスの一因として健康を間接的に害する事になる。

 人間の身体は個々によって異なり、免疫力の強弱やストレス耐性も様々であるし、不安ほど人の心を蝕むものはない。

 牛に与えた餌の稲わらは、原発事故後も屋外に放置された状態で1キロ当たり7万5000ベクレルという途方もない放射性セシウムに汚染されていたという。

 野晒しで汚染された餌を何のためらいもなく与えてしまったという、ずさんな飼料の管理も大きな問題であり、震災緊急時で配合飼料が入手困難だったとはいえ、牛を育てて売る酪農家のプロがやることではない。

 結果が出てしまってから慌てて全頭検査に踏み切るというのも、過去の事例が教訓として全く活かされていない相変わらずの未熟な対応であり、日本人の懲りない性分が露わになっている。

 かつて日本はBSE問題で痛い目に会い、米国に対しては毅然とした態度で臨み、妥協を許さず徹底した管理の下で輸入を再開した経緯もあるのだから、『牛に対して琴を弾ず』とならぬよう心掛けて頂きたいものである。

プールサイドの人魚姫-メール


 福島第一原発事故発生から4ヵ月余りが経ち、事故の収束に向けて日夜懸命な作業が続いている。事故の影響で、日本各地に点在する電力会社の保有する原子力発電所は再稼働のメドが立たずその殆どが停止状態にある中で、降って沸いた様な九州電力の玄海原発『やらせメール問題』が列島各地に波紋を広げている。

 電力会社は文字通り電気を売って利益を上げており、その一端を担っている原発停止は企業にとって致命的要因になり兼ねない。

 原発の稼働・停止に関わらずそれに掛る費用は莫大な金額であり、そしてまた原発周辺に暮らす地域に与えるメリットは地域の雇用と活性化を生みだすものとして、その恩恵を授かって来た地域住民から見れば、『原発様さま』であった訳だが、事故の発生により安全神話が脆くも崩れ去った現在、原発を巡る様相は一変した。

 そのような中で発覚した九州電力のメール問題は次々と明るみに出る内容で組織ぐるみに行われた公算が強まり、悪質な企業体質の恥部を曝け出す結果となってしまった。

 原発再開を有利に進める為、九電の各子会社に『国民の立場から、佐賀県民の共感を得るような意見や質問を発信して欲しい』といった県民向け説明番組を九電のでっち上げたシナリオで事が進むよう九電幹部自らが指示、更に悪質極まりないのは、九電関係者と分らないよう自宅などのパソコンを使用するよう指示していた事である。

 このやらせ問題の背景にあるものは、手段を選ばず是が非でも原発再開を推し進めたい電力会社が置かれている立場である。

彼らから言わせれば原発停止は宝の持ち腐れであり、利益を生まないものは無用の長物でしかなく、単なる重い足枷にさせておく訳にはいかないという切羽詰まった台所事情も見え隠れするのである。

 更に追い打ちを掛けたのが空気を全く読めない『あっけら菅総理』の唐突なストレステスト(耐性検査)である。

その場当たり的な思い付きで政府自身が混乱を増幅しているようでは、原発の安全性を云々いう前に総理自身の身辺整理を優先した方がよっぽど国の安全性は保たれるのではと思ってしまう。

『悪妻は百年の不作』という諺があるが、それをそのまま『悪政は百年の不作』に置き換えて本日の記事を締め括ろうと思う。


プールサイドの人魚姫-松本

「国は知恵を出したところは助け、知恵を出さないところは助けない」

「今の最後の言葉はオフレコです、いいですか?」

「皆さん、絶対書いたらその社は終わりだから」

「お客さんが来るときは、自分が入ってから呼べ」

「政府に甘えるところは甘えていい」

「こっちも突き放すところは突き放す」

 先日電撃辞任した松本元復興担当相が岩手、宮城両知事を訪ね会談した際の一部始終を見ていて、その高飛車で高慢な態度と暴言に呆れてしまった。

「人に寄り添う政治を心掛けたい」と穏やかな口調で話していた頃の松本氏と同一人物とは到底思えない変貌ぶりに、この人は政治家としての資質や器を持ち合わせていないのではないかという、疑問と共に被災地復興までの無駄な9日間という空白を生んでしまった事が残念でならない。

 今回のお粗末な辞任劇の元凶は言わずと知れた『豚珍菅総理』であるが立場を明確にせず、いつまでも総理の座に居座る菅さんに対し、松本氏が既に引導を渡しているにも関わらず、彼自身が復興相という大役を中途半端な気持ちのまま引き受けてしまった事がストレスとなり、そのはけ口が被災地へと向かってしまったのであろう。

 求心力を完全に失った状態のまま菅政権が続いても、それは復興の妨げになるだけという野党も含め民主党内からも批判の声が上がっている中では、おそらく松本氏が辞任しなかったとしても鈍菅総理の下ではまともな復興は期待出来ない。

 辞任理由については明確なコメントはなく、意味不明な「謎かけ」などとその場を茶化すような投げやりな態度を見ても分るように、彼だけでなく民主党議員全体に蔓延する脱力感が日本の政治そのものの上に覆い被さり政治をより一層不透明にしている。

 松本氏に代わって急遽その役目を担った平野達男副内閣相であるが、他に引き受けてがいないという菅内閣の脆弱性を露呈しているようなものである。

 九州人とか血液型がBだからとか自分の吐いた暴言に対し、言いわけめいたコメントしか出来ない政治家にキックオフやノーサイドを唱える資格はない。

 

プールサイドの人魚姫-乾いた街

 

 
 

アスファルトを叩く雨が

囁きを呑み込んだ

雨に潤む路面に

気を取られたまま

曖昧な返事を繰り返す

 

 

 

どんなに優しい言葉も

どんなに温かな微笑みも

わたしの心は拒んでしまう

乾いた街は雨に濡れ

輝きを見せるけれど

乾きすぎた女は

他人の愛では

もう輝かない

 



 今から45年前1966年6月29日、4人の男が羽田空港に降り立った。天候不良の為、飛行機の到着が大幅に遅れ彼らが日本に到着したのは、明け方の午前4時に近い時間だった。
 そして前代未聞のロック・コンサートが日本武道館で行われる事となる訳だが、『武道館とは、日本武道振興の為に作られた伝統と尊厳を重んずる武術の殿堂であり、その場でロック・コンサートを行うなどとは武道の精神を冒涜し、日本の若者を伝統的な価値観から堕落させる…』という、批判が当時のお堅い大人たちから出ていた。
 おそらく1万人を超える観客を収容出来る規模の会場が武道館以外にはなかったのだと思われるが、この武道館公演に関しては様々な憶測が飛び交ったのも事実である。
 このビートルズ来日から2年ほど遡った1964年、藤枝の片田舎に住む8歳の少年が一枚の赤い45回転のシングル盤に耳をそばだてていた。
 神戸家の広い裏庭の奥まった一軒家に『順ちゃん』は住んでいた。わたしより9つ年上で、わたしにとってみれば「お兄ちゃん」のような存在だった。
「とし坊、いいもの聞かせてやるぞ」そう言って、小さなポータブルプレーヤーにレコード盤を乗せ、針をそっと落とした。
 それは全くと言ってよいほどの未知なる音だった。
「♪♪シェゲナベイビィ~ナウ~シェゲナベイビィ~ツィスタウンシャウ~♪♪」
「なに、この歌!?すごい!!」
 それまで日本の歌謡曲や童謡しか知らなかった幼い8歳の少年を、そのリズミカルでアップテンポのまさに『シャウト』で斬新な曲が洋楽の虜へと変えてしまったのである。
 確か、A面が「ツイストアンドシャウト」B面が「ロールオーバーベートーベン」だったと記憶している。ビートルズだけでは飽き足らず、当時人気の高かったベンチャーズやアニマルズ、ホリーズなどの曲も毎日のように『順ちゃん』の処に行って聴かせてもらった。
 1967年頃から始まったラジオの音楽番組『オールジャパンポップ20』を聴くのが日課となり、今でも強く印象に残っている曲がジャン&ディーンの『パサディナのおばあちゃん』この歌が流行っていた頃はビーチボーイズ全盛時代で、サーフィンサウンド真っ盛りだったと思う。
 箒をギターに見立てて、ベンチャーズや寺内タケシ、加山雄三の『エレキの若大将』などの真似ごとをして大きな声で歌いまくっていた。その歌声は3軒隣りの「小川国夫宅」まで届いていたようだ。
「俊樹ちゃん、歌上手だねぇ…」と隣のパン屋のおばさんが飴玉を三つ四つくれたりした。
 こうしてわたしは吉田拓郎に出会う15歳まで洋楽一途の純真な少年時代を送った。アップしてあるビートルズの映像は、彼らのファンであれば一度は観た事があるであろうと思われるほど有名なビルの屋上で唐突に行われたライブ。
 1969年、ビートルズの破局があらゆる場面で垣間見られる貴重なドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』から抜粋した『ゲット・バック』と『ドント・レット・ミー・ダウン』のメドレーである。場所は彼らが作ったアップル・レコード社の屋上。
 このゲリラライブが放映された1969年1月30日、わたしは国立療養所天竜荘の12病棟大部屋の食堂に設置してあった14インチ程度の小さな白黒テレビで確認し、その彼らの演奏姿に釘付けとなった事を覚えている。
 つい先日、小笠原諸島と岩手県の平泉が世界遺産に登録されたばかりであるが、音楽にも世界遺産が適用されるならならば、まさしくビートルズはそれに相応しいと思っているのは、わたしだけではないだろう。

プールサイドの人魚姫-テニス

 日本人テニスプレーヤーがこのウィンブルドン選手権を制覇するのは至難の業であるが、グランドスラム4大会中最も古い歴史を持ち、唯一芝生のコートで行われる伝統と格式に培われた名誉あるこの大会にその名を刻み込む事は出来る。

 NHKの深夜に放映されているウィンブルドン2011だが、初出場の土居美咲は健闘及ばずベスト16を惜しくも逃し日本勢は全て姿を消した。

 以前『テニスの女王シャラポワのため息』と言う記事タイトルでテニスについて綴った記憶があるが、そのシャラポワは順調に勝ち進み、2004年の再来を思わせる試合ぶりである。

 2011を制する覇者が誰になるかは別にして、40歳にして現役、強靭な肉体と精神力を兼ね備えているクルム伊達公子は世界のテニスプレーヤーの模範と言ってもよいだろう。

 テニスに限らず、肉体を駆使するスポーツは寿命が短い。相撲やボクシング等の格闘技に至っては、30歳を超えれば体力の衰えを隠し切れず、引退の文字が脳裏を掠める事が多くなる。

 クルム伊達も1996年に現役を引退したが、その12年後に現役復帰を宣言。『若い選手に刺激を与えるため』というプロ復帰時の彼女の言葉を覚えている人も多いのではないだろうか。

 この大会では女子シングルスの初戦で15年ぶりの勝利を挙げ、超人クルム伊達の健在ぶりを世界に示した。

 2回戦では元世界ランキング1位のビーナス・ウィリアムズと約3時間に亘る激闘を繰り広げ惜しくも敗れはしたものの、彼女のパワーに元王者も舌を巻くほどであった。

 外国人選手から見れば日本の選手は小柄であり、さほど脅威にはならないかも知れないが内に秘める日本人特有の粘りと精神力は、これからのウインブルドンを見据えた時に世界のプレーヤーを悩ませる存在になることは間違いなさそうである。

 その意味で40歳という年齢を物ともせず果敢に挑戦し続ける彼女の姿は、全てのスポーツに於ける原点とも言うべき存在ではないだろうか。

 もちろん、彼女自身を維持し続けるその裏にはわたしたちの想像を遥かに超える過酷なトレーニングがある。

 驚愕的なプレーに裏打ちされた激しい筋トレや、スピード維持のためのインターバルトレーニングなど、持久力アップに欠かせないマラソンも取り入れていたようだ。

練習を惜しむことなく、今もなお進化し続ける『クルム伊達』のテニス論を人生の礎として取り入れてみれば、ウインブルドンの風が心地よく心の中を吹き抜けて行く事だろう。


プールサイドの人魚姫-しずちゃん

 お笑いコンビ南海キャンディーズの相方『しずちゃん(山崎静代)』。その巨体は芸能界のご意見番で知られている『和田アキコ』をも遥かに凌ぐ。

 女性でありながら身長182㎝と、巨体が自慢のプロレスラーでさえも彼女の前に立てば小さく見えてしまう、それほどの体格に恵まれている事がボクシングを始める一つの切っ掛けにもなっていると思われる。

2012年ロンドンで開催されるオリンピックで女子ボクシングが正式決定した事により、最近になって『しずちゃん』のファイティング姿をTVで見かける機会が多くなった。

 趣味の一環として2008年頃からボクシングジムに通い出したが、『継続は力なり』と言われる通りで、負けず嫌いの性格が功を奏した事もあり、2009年2月にはアマチュア女子ボクシングC級ライセンスを獲得。

 その後、2011年5月にJOCから発表された女子ボクシングの強化選考選手に選ばれ、本格的にロンドンオリンピックを目指す事となった。

 ただ、懸念されるのは日本国内にヘビー級選手が存在せず、彼女の練習相手を国外に求めなければならないという不安材料がある。

 ボクシングのような格闘技ともなれば数多くの練習試合は不可欠で、そしてまたコンディションの調整やミドル級を維持する為の体重管理など険しい孤独な闘いが待ち構えている。

 彼女の公開スパーリングや練習風景を見るにつけ、その絞り込まれた褐色の肉体はまさにボクサーそのものと言ってもよいだろう。

そこにはステージでお笑いを繰り広げる、とぼけた彼女の姿は存在しない。標的を捉えたハンターの如き鋭い眼光でリングを見上げミット打ちに励む凛々しき彼女は、よい意味での『なりふり構わず』がそのまま当てはまる。

 人は誰しも胸の内に荒々しい闘争心を秘めている。その闘争心に火がつく切っ掛けは人それぞれで異なるが、その対象となる者或いは物と対峙した時に、己の中にある獣が牙を剥くかどうかは自分次第で決まる。

 道の前に立ちはだかる困難や他者からの挑戦を敢えて避けて通るのもよいが、魂の欲するままに自ら烈火の波に身を委ねてみれば、それは必ずや人生の奮起点となるであろう。

 わたしのように病気に苦しみ抜いている者であれば、病に闘争心を掻き立てられるかも知れないし、文学を志す者であれば、ペンを武器に変えて闘ってみるのも一考だろう。

 SMAPの元メンバーだった『森且行(もりかつゆき)』が、自分の夢を果たすため、1996年にオートレースの世界に身を投じた。SMAPの人気が急上昇している中での彼のSMAP脱退は、多くのファンに衝撃を与えた事を覚えている。

 大スターという約束された輝かしい将来を捨ててまで、全く別の世界に身を置く事の勇気はこれも一つの闘争心の表れと捉えて差し支えないだろう。

 しずちゃんが『うどの大木』で終わらず、『大は小を兼ねる』と言われるようにオリンピックの大舞台で一勝出来るよう心から見守って行きたいものである。

 

プールサイドの人魚姫-マンホール

 

 

 これまで私の父にまつわるエピソード(武勇伝?)を何度か紹介して来たが、前回は確か『パトカーをタクシー代わりに使った』という内容だったと思う。

 

 とにかく破天荒な人生を送って来た父だけに、そのエピソードは豊富で現在でも語り草になっている。父が酒乱だった事はこれまで何度か話題にして来たので、既にご存じの方も多いと思うが、酒が一滴でも入ると、それは留まる事を全く知らず前後左右の見境がなくなる程に飲んでしまう。

 父が酔って帰って来た夜は、子どもながらに覚悟を決めてはいたものの、その恐怖に慄きながら父が寝入ってしまうまで石のように頑なに耐え忍んだものであるが、出刃包丁や大きな石を持った父に追いかけ回された時の恐怖は言葉だけで表現出来るものではない。

 然し、最近になって漸く解った事が一つある。父は確かに酒乱ではあったが、それは子どもである私の前でだけに限られていたのである。

 どんなに酔っても、よそ様に手を上げたり暴言を吐いたりはしなかった(ヤクザ同士の喧嘩は別)と聞いている。

 何故、父は私にのみ暴力を振るったのであろうか…酒の力を借りなければ、おそらく表現出来ない程の切ない孤独と寂しさを抱え込んでいたからだろう。それを血の通った息子である私だからこそ、自分の本音を言えたのではないだろうか。

 つまり、これは父の精一杯の愛情表現だったのかも知れない。子どもが親に甘えるのと同じで、父自身が甘える事の出来る場所は、唯一この私の存在だけだったのである。

 前置きが長くなってしまったが、タイトルにある通り『マンホール』に落ちた現場を私が目撃した訳ではなく、父自身の口と父を助け出した友人から聞いた話しなので、信憑性についてはご容赦願いたい。

 昭和30年代の事なので、まだ下水道など完備されている分けもなく、そのマンホールと呼ばれる処(現在もそのまま残っている)は、おそらく火災時の為に作られた貯水槽ではないかと思う。

 私が10歳の時の事。父と二人で夕餉の支度をしている時だった。七輪で秋刀魚を二匹焼きながら、大根を摩り下ろしている所へ父の舎弟分である『寺下勇次(藤枝で喧嘩が最も強いと言われた男)』がやって来た。

 友人や知り合いが訪ねて来た時は必ずと言ってよいほど家で酒を飲むか、外へと出かけてしまうので、勇次の顔を見た時、嫌な予感が頭をよぎった。その予感はぴたりと当たってしまい、私の儚い想いはいとも簡単に消え去った。

 「とし坊、ちょっと出かけるから、飯は一人で食べておけ」そう言い残すと父は勇次と夕暮れが沈みかかった町中へと消えて行った。

 年に数えるほどしかない父親と二人だけの夕餉を『勇次』に取られてしまったという嫉妬心のような気持ちを抱きながら、残された秋刀魚と味噌汁を友として、いつもの寂しい食事に箸をつけた。

 一旦外出すると何時帰って来るのか全く見当もつかなかったし、そのまま一年経っても帰って来ないこともあったので、父の声や足音が聞こえた時はホッと胸を撫で下ろしたものである。

 その夜もおそらくまともな状態で帰って来る事はないだろうと、いつもの暴力を覚悟しながらそれでも早く帰って来てくれるように祈りながら、眠りに就こうとしていた。

 夜中に帰って来てもよいように部屋の電気を点けたまま、夢の入り口で微睡み始めていた時だった。「と、とし坊、とし坊…」と父の呼ぶ声に眼が醒めた。

 いつもの通り酒の匂いが鼻を突いたが、それ以上に泥酔振りを指し示す雄叫びにも似た、暴言が全く聞こえて来ない。

 普段の酔いとは様子が違う事に疑問を抱きながら部屋の入口へ行って見ると、そこには真赤な血で覆われた父の鬼にも似たような形相が待ち構えており、私は一瞬その凄まじさにたじろぎ、この世の者ではないような近寄り難さを感じていた。

 その血だらけの中から眼光だけが妙に鋭く、その場に立ち尽くす私を凝視していたが、その姿とは裏腹にそれは明らかに私に助けを求めている狼の如き姿に見えた。

 座敷に自力で這い上がる力は既に残っていなかったのだろう。父は上半身だけを(画像の男)のように預けながら「とし坊、手拭い持ってこい、濡らしてな…」そう言い残すと、その場で眼を閉じてしまった。

 血に染まった父の顔を濡れたタオルで丁寧に拭いながら、父の身に起こった事を勝手に想像していた。あの勇次と二人である事から、考えられるのは喧嘩に巻き込まれて相手を叩きのめした時の返り血を浴びたか、父自身が珍しく痛めつけられたかのどちらかだろうと思っていた。

 体重60キロをゆうに超える大人の身体を、まだ10歳の私が支えられる訳もなかったが、それでも渾身の力を込めて父の身体を座敷の下から引き起こし、足を引っ張り上げてなんとか部屋の中に引き入れた。

 翌朝、酔いから醒めた父に昨夜の事を聞いてみると、いつもなら酔っていた時の事をすっかり忘れ、私に暴力を振るった事さえ思い出す事もなかったが、昨夜の出来事はしっかり覚えていたようで、照れ笑いを浮かべながらこう切り出した。

「魚宗の角を曲がった処に鉄板の大きな蓋があるの知ってるだろ」

「ああ、あれね知ってるよ」

「父ちゃん、あそこに落ちちまってな…」

「ええ!落ちちゃったの、あそこに??」

「どうやら蓋が半分開いてたみたいだ…」

 そのマンホールと思われる所がどの程度の深さなのか、中がどうなっているのか覗いたこともなかったので、この父の話しに夢中で聞き入った。

「それでどうしたの?中は?下まで落ちたの?」

 子どもによく有り勝ちな疑問符攻勢に、少し煩雑そうな表情を見せながらも父は続きを話してくれた。

「勇次を追いかけて行ったんだ、言い忘れたことがあったからな」

「下までは落ちなかったんだね」

「ああ、ぎりぎりの処でな、両手だけで身体を支えたよ」

「それで、勇次―、勇次―って叫んだ」

 父に呼び止められた勇次は数十メートル先にいた。声に気づき後ろを振り返ったが、声はすれども父の姿は何処にもないことに首を傾げながら、声の方へと向かって行った。

 辺りは街灯もなく人影はおろか、車の走る音さえ暗闇の中に吸い込まれたかのように静まり返っており、その静寂を打ち消すかのような父の助けを呼ぶ声だけが、夜の微風に揺れながら喘いでいた。

 勇次がそのマンホールから父を引き摺り出した事はいうまでもないが、暗闇の中で血だらけになっている父の姿を想像はしていなかっただろう。もし、勇次がそのことを知っていたならば、勇次が父を家まで送り届けた筈である。

 私と父の家から数件先にある『魚宗(寿司屋)』は東海道の侠客である長楽寺清兵衛の家としても知られており、もしこの時代に清兵衛親分が生きていたなら、父の穴に落ちた話しを聞いて「神戸の信夫ならやりそうな事だ」と大笑いしただろうと思う。

 それにしてもあの時の血まみれの父の顔は余りにも強烈過ぎて、私の瞼に焼き付いたまま今でもつい最近の事のように思い出される、父を巡る思い出話しの一つであった。


プールサイドの人魚姫-月食

 宇宙の存在が現在ほど明らかにされていなかった遥か昔、古代人の眼に月はどのように映っていただろうか。

 月に纏わる話しは世界各地に散らばっており、その住人によって語り継がれている月の姿は様々だが、日本では「かぐや姫」の伝説が最も有名であり、そしてまた「うさぎの餅つき」はインドが発祥地となっている。

 古代から人類と密接な関係にある月、子どもが産まれる確立が最も高いのが満月の時であり、潮の満ち引きも月の引力によって引き起こされる自然現象である。

 どれほど科学や文化が進んでも、人は月の持つ神秘に魅せられ果てなき浪漫と情景を月に求めるものである。

 6月16日の夜明けに近い時間、皆既月食が発生する。日本はあいにく、梅雨前線の厚い雲に遮られてこの天体ショーを観測する事は晴れ間の覗く限られた地域でしか見ることは出来ないが、東半球の大部分では、月が地球の本影(太陽の光を完全に遮る領域)に入り、オレンジや赤の色合いに染まる様子を2時間に亘って観測出来るという。

 この皆既月食に纏わる伝説も世界の神話の中に散りばめられており、北欧では太陽と月が2頭の狼に追い回され、「月が狼に飲み込まれた」と捉えられている。そしてまたインド神話によると、ヒンドゥー教の神・ビシュヌの怒りを買い、首だけにされた4本腕の魔族「ラーフ」が、月を飲み込んでしまう等、「悪が月を飲み込む」と言った説が多く見受けられる。

 いかにも古代人らしい、日蝕や今回の月蝕にしても不吉な予兆として捉えられていたようだが、その人類の叡智を超えた宇宙の神秘の前にあっては、まさに「神と悪魔」を象徴していると言ってよいのではないだろうか。

 運よく、この神と悪魔が織り成す天体ドラマを見たという方がおられたなら、ぜひご一報頂ければと思います。

 

プールサイドの人魚姫-天竜荘神戸

 

 

その木造で出来た長い廊下を、息を切らせながらゆっくりと登って行った。正門から十二病棟を目指して、その日の入荘者は私ともう一人小学一年生の斉藤君。そして私たちを気遣う看護婦さんと福祉課の人たち。

 

 松林に囲まれた自然が溢れるのどかな風景の中を長い廊下がキシキシと音を立てて、一歩ずつゆっくり歩く度に軋んでいた。

 どれ程の数の病人がいるのだろう? 私には全く知らされていなかったし、天竜荘(現在の天竜病院)へ行くと言われたのは入院先だった藤枝市立志太総合病院を出る時だった。

中学一年の十二月の初めだった。このまま元の藤枝中に戻っても授業については行けないだろうと、医者や学校の先生達やみんなが決めた事だったのだろう。

 天竜荘は病気の子供達が親元を離れ、病気を治しながら勉強も出来るというシステムの整った病院である。元々はサナトリウムであり、その殆どが結核患者で占められており、それ以外の病人は12病棟のみであった。

天竜荘には元々学校は無かったが入院患者の大人が子供たちに勉強を教えたのが始まりであったと記憶している。(現在は天竜特別支援学校と改名)

患者の中には病名さえ解らぬ子供もおり難病で苦しむ子供もいて、それはとにかく病気の坩堝とでもいえる光景であった。

私と一緒に入荘した斉藤君(腎不全)は早くも帰らぬ人となってしまったが、多くの子供たちの命がこの場所から消えて行ったのは確かである。

 私は此処で三年間暮らしたが、私にとっては居心地のよい所であったのも事実である。中には此処を嫌う者もいるであろうが、記憶の片隅にほんの少しでよいからスペースを残しておいて欲しいと思う。それが此処から永遠に旅立って行った子どもたちへの供養だと思うから。