空に一番近いこの場所で
少年は想っていた
ボクの見詰める視線の先は
この汚れた地上でなく
何処までも自由が広がる
この青い空だった
この澄み切った空には
ボクが抱える
苦しみや悲しみは
存在しないだろうと
だからこの空の
一部になりたかった
翼の生えた少年は
自由を求めて
空高く舞い上がった
事の重大さに漸く気付いたか、或いは世論の反応に促されたかは知らないが、滋賀県警による強制捜査のメスが自殺した少年の通っていた中学と教育委員会に入った。
これまで少年の親が再三に渡り警察に被害届けを提出していたにも関わらず受理されることもなく、警察の対応は冷たく門前払いの繰り返しだった。
警察の職務は一般市民の安全や命を守る事であるが、その一般市民には当然ながら子どもも含まれる。仮に親が地元の政治家や警察官だったとしたら、真っ先に学校、教育委員会、警察は真相究明に向けて動き出しただろう。
何処にでもいるありふれた一市民は上記のような特別な存在ではなく、その他大勢の類いとして差別化されるのである。
この世の中が如何に不公平に満ち溢れているか、このいじめ問題が歴然と物語っているだろう。教育の現場に警察の捜査が及ぶのは過去に例がなく前代未聞のことではあるが、この異例とも呼べる捜査はある意味に於いて『いじめは犯罪』である事を実証しているものとも受け取れる。
13歳の少年がマンションから飛び降り自殺をしたのは昨年の10月、学校側は10月と11月に渡り全校生徒を対象にしたアンケートを実施したが、その内容について全面公開に至らずアンケートの一部分しか公表していなかった。
2回目のアンケートに至っては、そのアンケートそのものが隠蔽されており、教育委員会の事無かれ主義と隠蔽体質が根深い事を浮き彫りにした結果となり、世論から批判の声が殺到し、マスコミもこの問題を大きく取り上げ、9カ月も経ってから漸くわたしたちの元にも届くに至った。
男子生徒がクラスメートから殴られたり、ズボンをずらされるなどの暴行を受けていた事実はアンケート結果によって判明した事ではあるが、2度目のアンケート結果では『自殺の練習と称して首を絞められた』、『葬式ごっこ』などの重大ないじめの回答があったにも関わらず、市教委はそれを『見落としていた』などとうそぶく始末。
子どもたちの事より自分たちの立場を優先し、責任を取ろうとしない未熟な大人たちを見ていると、怒りを通り越して吐き気さえ催してしまうのである。
少年をいじめた生徒はもちろん悪いが、それ以上に性質が悪いのはいじめを見て見ぬ振りをする傍観者たちである。その意味から言えば生徒も大人たちも同罪ではないだろうか。
自殺した少年に『告白』する勇気があったなら、死なずに済んだかも知れないと思うと無念でならないのである。
然しながら、中学生ともなれば思春期の入り口であり、多感な年頃でもある。最も信頼出来る親にさえ話せないのは親に心配を掛けたくないと言う優しさでもあるが、命を絶つ事によってしか解決の糸口を見出せなかったのであれば、それは余りにも悲し過ぎる事ではないだろうか。
わたし自身も小中校時代、辛いいじめに苦しんでいた時期があったが、わたしはそのいじめから逃げる事なく敢然と立ち向かい、いじめ地獄から脱却した経験がある。
昭和30~40年代の頃は、クラスに必ずいじめを止めに入る子どもが存在していた。忘れもしない、その子は『中村正子』と言うクラスメートだった。いじめグループ数人に取り囲まれ、わたしは彼らに突き飛ばされ、足を踏まれるなどしていた。
その場にやって来た彼女は「あんたたち、そんな事して何が面白いの、止めなさいよ」と教室中に響き渡るほどの大声でいじめグループを一喝した。
その言葉にしらけてしまったのか、いじめっ子たちはわたしから離れ散り散りになった。教師による暴力が日常茶飯事で許されている時代でもあったが、そこには生徒と教師による信頼関係の証もあったし、生徒から見れば教師は絶対的存在でもあったが、いじめについては教師の力を借りて解決する事は一度もなかった。
わたしもこの自殺した少年のようにズボンを脱がされた事がある。昼休み、いじめっ子の一人から声を掛けられた。
「神戸君、ちょっと見せたい物があるから体育館の裏に来なよ」そう言って彼はわたしを無理矢理連れて行った。
そこにはいつものいじめっ子たちが数人待っており、数人でわたしを体育館の壁に押し付け、手足が動けないようにきつく締め付けて来た。
そしていじめっ子のボスがわたしの半ズボンに手を掛けると、一気に足の先まで摺り下げたのである。わたしは涙を堪え、声も出さず眼を閉じ必死でその屈辱に耐えていた。
いじめっ子数人が口を揃えて「くっせぇー、きったねぇー」と連呼…。そしてそのパンツさえもずらしたのである。
下着を買って貰えないほどわたしの家は貧しかったので、一枚のパンツを裏返しにしたりして何日も履き続けていたのである。
当時、いじめに会う対象の子どもは現代とは違い、明らかに見た目などの差別化があった。毎日同じ服を着、風呂にもまともに入っていなかったからわたしの身体から異臭がしていたのは事実であった。
隣の席の女子生徒がいきなり先の尖った赤鉛筆でわたしの手を思い切り刺して来たり、フォークダンスでは手を繋いでくれなかったり、床屋に行く金がなく髪を伸ばし放題にしていれば、「女だ、女だ」と男子生徒から罵声を浴びるなど言葉のいじめも多かった。
いじめについて、わたしは父に一度も相談した事はなかったが、ある日、顔に青あざを作って家に帰ると、それに気付いた父が「喧嘩でもしたのか?」と訊いて来た。
「うん…」「勝ったのか?」「負けた…」いじめによる痣ではなく喧嘩によるものだと嘘を付いた。「喧嘩は先手必勝だぞ」「やられる前にやっちまえ」次の日、わたしは父の言葉を実行したのである。
複数を相手にすれば敵わないのは分かっていたので、いじめっ子たちを一人ずつ呼び出した。最も効果的だったのは生徒全員が揃っている教室でいじめっ子の一人を床に叩きつけた事である。
それ以来彼らはわたしに対しいじめをぴたりと止めた。わたし以外にいじめられている者がいれば、そこへ割って入りいじめを止めさせた。
この逸話は小学校4,5年だった頃の思い出であるが、中学に入り心臓病の悪化により藤枝中学から天竜養護学校に転校してからもやはりいじめはあった。
病気の子どもたちが大勢親元を離れ集団生活を送るという特別な環境下の中にあっても、そこには上下関係が発生するのである。
中学1年の時だった。同じ12病棟で同部屋だったわたしより一つ年下の小学6年生だった彼は、身体がわたしより数段大きく力も強かった。
ある日、わたしと彼と二人きりになった部屋で、彼はわたしをベッドに突き倒し上から圧し掛かって来たのである。
力の強い彼に圧倒されわたしは身動き一つ出来ずにいた。彼は言った。「俺の子分になれ…」年上のわたしが年下のこいつの子分になどなりたくもなかった。力に負けてわたしは小さく頷くしかなかったが、このまま引き下がる訳にはどうしても行かなかった。
子どもたちが一堂に集まる場所は食事時間、病棟の大部屋にある大食堂である。夕食の時だった。わたしは意を決して少年の座っている席に歩いて行き、「人の事をなめるんじゃねぇぞ…」と言うなり彼の頭に張り手を一発見舞ってやった。
賑やかだった食堂が一瞬静まり返り、多くの子どもたちの視線がわたしと彼の元に注がれた。彼は何も言わず黙っていたが、その顔に驚嘆の表情がありありと浮かんでいた。そして彼は素直な小学6年生に戻ったのである。
わたしは暴力という手段によっていじめを克服したが、痛い目に会わなければ分からない人間が多すぎる。暴力を肯定する気持ちは爪の垢ほど持ち合わせていないが、それは時と場合による。
学校や大人が子どもを守れないのであれば、子どもはどうすればよいのだ…。全国のいじめられっ子たちよ、今こそ勇気を奮い起し立ち上がるのだ。
自分の身は自分で守れ、行政はいじめ問題に対しあれこれ対策を立ててはいるが、一向に減らないのが現状である。
何の罪もない子どもたちが、これ以上無責任な大人たちの犠牲になってはならない。学校はいじめ問題を必須科目として授業の中に取り入れ一週間に一度でよいから、教師も交えて徹底的に論議する必要があるだろう。
上野が活気付いている。2011年2月、中国からレンタルされた2頭のジャイアント・パンダ『リーリー』と『シンシン』の間に待望の赤ちゃんが誕生したからである。
東京スカイツリーの人気に押され、客足が遠のいていた上野動物園であるが、この赤ちゃんパンダの誕生で、テレビでは速報テロップが流れ、街には号外が踊った。
待ち焦がれていた瞬間だっただけに、パンダファンのみならず、動物園関係者やそうでない人たちも一様に笑顔を浮かべた。
ところがその一方では、パンダに全く関心を示さない石原都知事が、皮肉をたっぷり込めた毒舌を早速つぶやいた。
「2年経ったら返さなくちゃいけない…」「センセンとカクカクと名付けたらいい…」尖閣諸島を巡る中国との問題をこの赤ちゃんパンダ誕生に被せる発言。
石原さんらしいコメントと言えばそれまでだが、実はこの方パンダの隠れファンだと言う事を皆さんはご存知だろうか?
パンダの話をする時、彼の眼は活き活きと輝きその表情に浮かんだ重畳たる笑みをわたしは見逃さない。石原さんはかなりの照れ屋であり、そしてまた天の邪鬼でもある。
人が右と言っても彼は左を貫き通す、頑固一徹なところがあるから都知事が務まっている部分もあるが、彼も人の子で可愛いものは可愛いのであり、それを素直に認めないだけの事。
パンダが中国の外交に使われる事に対し今更とやかく言う積もりもないが、パンダ外交そのものが千年の歴史によって培われて来たことは事実であり、パンダが中国の国宝であるという背景を見れば頷ける内容ではある。
然しながら、希少動物を政治の道具にする中国のあからさまなやり方に、違和感を覚えるのはわたしだけではないだろう。
パンダ自身の事だけを考えれば、生まれた土地で暮らす事が一番望ましいとおそらく誰もがそう思っているに違いない。
ただ、絶滅危惧種であるジャイアント・パンダは約1000頭しかおらず、厳しい自然環境の中で彼らを絶滅させない為には人間の手で保護する必要があるのも事実であるが、パンダも含め全ての動物たちは、人間の行うビジネスの道具として扱われ、それによってわたしたちは恩恵を授かっている事を忘れてはならないだろう。
可愛いだけでは子どもは育たない、子育ての難しさと大切さを動物の子育てを通して学ぶ事が出来る、それが動物園の良さでもある。
赤ちゃんがオスだと言う事も判明したが、最新情報によれば母親の胸元から落ちてしまい、現在は保育器の中にいるようだ。今はとにかくこの小さな命が無事にすくすく育ってくれる事を願うばかりである。
命の大切さを全く理解していない大津市の教育委員会には怒り心頭であるが、このいじめによる自殺の件はまたいずれ日を追って追求してみたいと思っている。
先ず初めに、名司会者でありマルチタレントだった『小野ヤスシ』さん、そして「ちい散歩」でお馴染の個性派俳優『地井武男』さん(「北の国から」で中畑役の彼が大好きだった)このお二人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
本来であれば、個々の記事を綴りたいところではあるが、自分としては最も思い入れのある伊藤エミさん(ザ・ピーナツ)の訃報について触れてみたいと思う。
1960年代の歌謡界に於いて、その時代の寵児となった『ザ・ピーナツ』。「恋のバカンス」「恋のフーガ」など数多くのヒット曲を世に送り出した双子デュオである。
その姉である『伊藤エミ』さん(71歳)が他界した。死因などは明らかにされていないが、末期がんだったと思われる。
わたしは、ザ・ピーナツの歌う『モスラの歌』『インファントの娘』が大好きで、子どもの頃はよく口ずさんでいたし、今でもフルコーラスを歌う事が出来る。
怪獣ブームの先駆けとなった東宝映画の代表作『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『モスラ』『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』などは、当時の子どもたちに無限の夢と空想を与え、娯楽としての怪獣映画が定着した時代でもあった。
小学生時代のわたしはいじめられっ子で、当時の様子を思い出したくもないほどであるが、そんなわたしに付いたあだ名が『怪獣博士』だった。
普段は教室の隅で出来るだけ目立たず小さくなっていたが、怪獣の話題になると「怪獣の事なら神戸君に聞け」と言われ、その時だけわたしはクラスの人気者になり、ヒーロー気分を味わう事が出来た。
怪獣の名前や特徴を全て暗記しており、架空のものだけでなく恐竜などについても詳しく、学術名やその特徴までも記憶していたからである。
漫画を描く事も好きで得意なゴジラやモスラなど机の上や教科書、ノートに至るまで描けるスペースのある所は全て怪獣の絵で埋め尽くされていた。
父が府中刑務所に服役中だった時、「ザ・ピーナツが慰問に来た」と教えてくれたりしたので、「刑務所って大スターに会えるんだ、いいなぁ」などと思ったものである。
伊藤エミさんは、1975年に沢田研二さんと結婚しそれを機に芸能界を引退。それ以後ザ・ピーナツの姿をTVなどで見掛ける事はなくなった。
結婚の数年後には長男を授かるなど円満な結婚生活を送っていると思われたが、沢田と女優の田中裕子の間で不倫愛が発覚、1987年に協議離婚しているが、最後まで沢田姓を貫いたのは子どもの事が背景にあったからであろう。
ザ・ピーナツでもう一つ忘れてならないのが1961年~1972年にかけて放映されたバラエティ番組の『シャボン玉ホリデー』である。
ハナ肇とクレイジーキャッツをメインに、コント、歌、トークなどでお茶の間の人気を独占、この番組から誕生した歌手の代表が『布施明』や『伊東ゆかり』ではないだろうか。
番組のエンディングでザ・ピーナツが歌う『スターダスト』の音色に酔いしれながら、ハナ肇の毒舌じみたコントに肘鉄を食らわす2人の姿を見るのも楽しみだった。
きっと今頃は天国でハナ肇に肘鉄を一発お見舞いしているのではないだろうか…。心よりご冥福をお祈り致します(合掌)。
自公民による密室の談合と批判の矢面に立っていた消費税増税法案は、賛成363と言う圧倒的な数字を持って可決され、参議院に送られた。
今回の採決で最も注目を集めたのが、民主党内からの反対票、いわゆる『造反者』がどれだけ出るかだったが反対票96の内、民主党からは57人が反対に回った。
これに棄権、欠席者19を含めれば造反者は76となり、離党を示唆している小沢一郎元代表が「よし」と力強く頷いたのもこの数字に満足した結果であるだろう。
これにより民主党は事実上の分裂状態となり、法案そのものは可決されたが野田首相の心中は穏やかではなく、造反者に対し「厳正に対処する」と言う具体性の見えない曖昧な答弁が民主の将来が『風前の灯火』である事を如実に物語っている。
小沢グループを擁護する積もりは毛頭ないが、果たしてこの反対票が『造反』と簡単に片づけられるものだろうか。
社会保障分野の主要政策をマニフェストに掲げ、圧倒的な勝利を自民党から力づくで政権をもぎ取った2009年の衆議院選挙は国民の期待を一身に受けての勝利だった筈である。
政権奪取から3年余りが過ぎ、蓋を開ければ次々とマニフェストは塗り替えられ、『国民との契約』は果たされず政策放棄と言う国民への裏切り行為ばかりが目立って行った。
このような状況を踏まえれば、造反者は賛成票を投じた民主党の大多数の議員たちの方ではないだろうか。つまり国民への造反なのである。
いつの世も常に煮え湯を飲まされるのは国民であり、将来に於いて消費税が20、30%になったとしても、政治家たちの財布が国民の税金によって潤っている以上、彼らにとっては痛くも痒くもない他人事なのである。
迫りくる後期高齢化社会をスムーズに受けれるに当たり、将来的増税は止むを得ない事ではあるが、増税のみが一人歩きしいている現状では国民を納得させるだけの材料も見当たらず、社会保障の全体像すら描けない状況で増税分の使い道に対しても明確な答えは出ていない。
法案に対し賛成票しか認めない、反対票は事実上禁止と言う政党の傲慢なやり方は、民主主義に反する行為であり、投票の自由と言う権利を奪い取る歴史に逆行した暴挙としか思えないのである。
政権交代の大義を大きく捻じ曲げて増税に突き進む野田首相の責任は極めて大きく重い。民意を軽視する野田政権が今後どこまで政局に留まっていられるかは時間の問題であるだろうが、増税反対ばかりをお経のように唱えている議員たちに国民がなびくかどうかは大いに疑問ではある。
ボクシングファン待望の試合が先日、6月20日に大阪・ボディメーカーコロシアムで行われ、超満員の会場は2人の王者の激しい打ち合いに釘付けとなった。
WBC世界ミニマム級王者の井岡一翔と、WBA同級王者の八重樫東との世界王者統一戦である。日本ボクシング史上初の日本人世界王者同士による団体王者統一戦という事もあり、試合開始前から好カードとして大きな注目を集めて来た。
試合開始直後から、井岡の放ったストレート、フックが八重樫の顔面を捉え、試合終盤まで井岡のペースで進みはしたものの、八重樫もチャンプのプライドを守る為、必死に打ち返し最後まで2人の激闘が続いた。
井岡の強烈なパンチを浴びた八重樫の顔面は見る見る内に腫れ上がり、膨れ上がった両瞼の奥で、井岡のパンチが見えていないようにも思われたが、その奥に光るボクサーの眼光は最後まで死んではいなかった。
2回のドクターチェックをものともせず試合に臨む八重樫の闘争心は、井岡を委縮させるほどの脅威になっていたが、天才ボクサーの名を欲しいままにして来た井岡にも意地があった。
左ジャブを容赦なく八重樫に浴びせポイントを重ねる井岡であったが、これぞWBAのパンチとも言える右ショートにたじろぎ腰が落ち掛けた。
然し、『日本ボクシング界を背負う』使命感に燃えている若干23歳の若武者は負ける訳には行かなかった。
井岡は試合5日前に38度の高熱を出したばかりで本調子とは言えなかったが、僅かなチャンスをものにする野生感と勝負運が八重樫より一歩リードしていたのかも知れない。
12回をフルに戦い抜き、その統一王者の称号を手にしたのは、井岡一翔であった。3-0の判定勝ちではあったが、その試合内容は近年のボクシング史上類を見ないほどの好試合であった。
2人のボクサーの実力が拮抗している場合、手数の多い方が試合を有利に進めるものであるが、有効打の数から言えば、彼らの差は五分五分だっただろうと思う。
世界を背負っている2人の意地のぶつかり合いであったが、どちらが勝っても負けても2人とも日本を代表する世界チャンピオンである事は間違いない。
低迷を続ける日本ボクシングの現状を省みれば、彼らの試合が今後の日本ボクシングに与えた影響は計り知れない。
八重樫がこのまま引き下がるとも思えないし、おそらくリベンジマッチが近い将来実現するだろう。エリートボクサー井岡VS苦労人ボクサー八重樫の再戦が今から待ち遠しくて仕方がないと思っているのは、わたしだけではないかも知れない。
梅雨入り後まだ間もない6月だと言うのに、この夏の異変を象徴するかのような台風の上陸。台風4号(アジア名グチョル、Guchol )が本州を縦断し、6月としては記録的な風雨が列島各地で観測された。
19日の夕方、強い勢力を保ったまま和歌山県南部に上陸後、東海、関東甲信、東北南部を時速70キロの猛スピードで駆け抜け20日午前、本州の東の海上で温帯低気圧に変わった。
6月の台風としては平成16年に上陸した台風6号以来で8年振り、気象庁が昭和26年に統計を始めて以降、7番目に早い記録であった。
台風の接近、上陸で停滞している梅雨前線が刺激され、神奈川県山北町の丹沢湖では、1時間に81ミリの猛烈な雨を観測し、時間雨量としては最も多い記録となった。
台風の直撃を受けた静岡県浜松市などでは、1時間に120ミリという記録的な雨に見舞われ、雨と風の影響で停電などが発生し、一部の地域では避難勧告が出された。
わたしの故郷である藤枝市の高根山でも、60ミリを超えるほどの激しい雨が降ったため、瀬戸川の近くにある母の実家が暴風雨のため飛ばされてしまったのではと心配になったほどである。
これまでに届いている台風4号の被害状況は、静岡県沼津市で男性が1人死亡、全国で40人近い怪我人が出ている模様。
首都圏でも19日夜から風雨が一段と強くなり、交通網に大きな影響が出た。わたしの住むアパートは前が公園になっており、風を避ける建物や樹木が何もない為、2階建ての木造アパートが強い風をまともに受け、音を立てるほど軋み微妙に揺れていた。
朝、ベランダを見ると隣の部屋とを区別する敷居が完全に破壊されており、その残骸がわたしのベランダの方へがれきの如くに飛散していた。
アパートの管理会社に連絡したところ、壊れ方の写真を撮影したいので残骸はそのままにして置いて欲しいとの事だったが、去年の台風の時も今回ほどではないが半壊している。
部屋の窓ガラスが割れるといった直接的な被害がなかっただけラッキーだったというところか。さて、台風について少し勉強してみようと思うが、既に知っている方は軽く聞き流して下さい。
先ず、番号の意味について…。毎年1月1日以降、最も早く発生した台風を第1号としている。因みに、台風が衰えて『熱帯低気圧』になった後、再び発達して台風になっても同じ番号が使われる。
台風とは何か…?。熱帯低気圧の一種であるがその条件は、特定のエリア(東経180度、以西100度以東)で発生するもの。最大風速が秒速17.2メートル以上のもの。
4号を追い掛けるように台風5号も日本列島を窺っているが、こちらは既に温帯低気圧に変わり、4号ほどの脅威にはならないと思うが、梅雨前線と相まって各地に大雨を齎す可能性が大きい。
台風一過の各地では気温が急上昇し30度を超え真夏日に…。『熱中症』を訴え病院に運ばれた人も多くいるようだ。
一難去ってまた一難…。水分補給はこまめに、まだ始まったばかりの夏に向けて気を引き締め、雨の季節を乗り切って行きたいものである。
今回もまた菊地直子容疑者の時と同様に、一般人からの情報提供による逮捕だった。6月15日、午前9時を少し過ぎた頃だった。
場所は大田区西蒲田、運河沿いに立ち並ぶ雑居ビルの一角にある『漫画喫茶』がその舞台。店から出た高橋容疑者を警官が追い掛け、職務質問をした。「高橋克也の捜査をしているので、協力してくれますか」、「はい、わたしが高橋克也です」。
その逮捕劇は映画に出て来るような劇的なエンディングではなく、ある種の静けささえ漂わせた幕切れであった。
何の抵抗を示す事もなく、その落ち着き払った表情からは一種の安堵感すらにじませていた。彼は逮捕される事を前もって覚悟していたのであろうか。
潜伏先の川崎から東京方面へと場所を転々としながら、個室ビデオ店などで寝泊まりし、都会の雑踏に紛れ込み、自分を擬態化させる機会を窺っていたのかも知れない。
17年間に及ぶ逃亡生活の中で、『高橋克也』を自分の中で黙殺し、他人になりすます。彼のリアルなかくれんぼは、時の流れの中で風化し続ける筈であった。
彼自らが語っているように、「本当の自分が分からなくなってしまった」は、長い逃亡生活が彼に与えた自己否定の心理を垣間見せているとも受け取れる。
慣れ親しんだ『櫻井信哉』の偽名の方が彼にとってはリアルそのものであったであろう。最近では『吉田新一』の偽名で変装用の眼鏡を購入したり、鶴見駅のコインロッカーから押収されたバッグの中からは『吉田利美』名義の預金通帳が発見されている。
更に、松本智津夫死刑囚の写真数枚や、教団関連の書物、松本死刑囚の著書『イニシエーション』などが発見されおり、逃走から17年経った今でも教団を信仰していることがうかがえる。
それを裏付けるように見つかった『説法を録音したテープ』の存在や、赤坂警察署の留置施設内で、『蓮華座(れんげざ)』を組んでいる事などからしても、高橋容疑者は依然としてオウム真理教の強い影響下にある事を物語っている。
逃亡犯が全て逮捕され一旦は終了しているオウム裁判は、これを機会にまた新たな展開を見せる事になると思われるが、17年間も逃亡を許してしまった警視庁の在り方も今後問われる事になるであろう。
更に言えば、地下鉄サリン事件は防げた可能性すらある。数多くの証拠を掴みながらも、極めて危険な団体にテロ行為を許してしまった時点で警察の負けであったと言えるだろう。
それゆえに今回の逮捕劇ではこれまでの秘密主義を捨て、警察はなりふり構わず情報を表面化し、懸賞金を吊り上げてまで彼らの逮捕に全力を上げ、国民の興味と眼を味方につけて公開捜査に踏み切ったのである。
それは過去の失敗を帳消しにする意図さえ見受けられた。「報道に追い込まれた」と高橋容疑者自身が語っているように、マスメディアも全力で彼の行方を追ったのである。
逃げる背中に突き刺さる痛い程の視線を浴びながら、それを振り切るように土地勘のある場所から離れる事がなかった高橋容疑者、離れたくても離れられないほどに、彼の包囲網は狭まって行ったのである。
時を同じくしてこの事件とは対照的だったのが、『東電OL殺人事件』で、無期懲役刑が確定し服役中であったネパール人の『ゴビンダ・ブラサド・マイナリ』元受刑者に対する再審が決定し、刑の執行が停止されその後、母国に帰国した件であるが、約15年に渡り拘置所に幽閉されながらも、無実を訴え続けた彼とその家族、そしてネパールで彼を出迎えた人々の嬉しそうな表情を見ていると、『冤罪』と言う犯罪にはつきものの『魔』を抱かずにはいられない。
証拠を巡って裁判が二転三転するその背景に見え隠れする権力と言う暴力が存在するのも事実である。
地下鉄サリン事件を風化させてしまった警察やマスコミも含め、わたしたちがいま出来る事はなんであろうか?
オウム真理教は名を変え、今でも活動中である。『アレフ』、そしてそこから枝分かれした『ひかりの輪』…。
新たな信者が毎年増え続けているという現実、景気低迷と雇用不安、将来に希望を見出せない若者たちが心の拠り所を求めて彷徨い歩く病んだ社会に巣食う暗闇、事件・事故はその社会を映す鏡でもある。
今回の逮捕では防犯カメラの映像が大いに役立っているが然し、防犯と言えば聞こえはよいが、要は監視カメラである。
個人情報保護を強く訴えるその一方で、わたしたちのプライベートが監視カメラの存在によって筒抜けになっている事も忘れてはならないだろう。
大阪・心斎橋の繁華街が空を切り裂くような悲鳴と共に修羅場と化した。6月10日に起きた通り魔殺人事件は、余りにも身勝手な男の短絡的な犯行だった。
白昼の惨劇を目の当たりにした市民によると、男が刃物を振りかざし、まるで獲物を探し歩く姿は異様なほど狂気に満ちていたと言う。
犠牲者となり死亡したのは、音楽プロデューサーの南野信吾さん、もう一人は飲食店経営の女性・佐々木トシさんの2人であった。
犯行に及んだ礒飛(いそひ)京三容疑者の供述によれば、『自殺しようと思ったが死にきれず、死刑を望んでやった』等と話していたが、捜査が進むにつれて自殺願望はなかったようである。
礒飛容疑者は覚せい剤取り締まり法違反により新潟刑務所に服役、5月24日に刑期満了により出所したばかりであった。
6月上旬に知人に電話で仕事の相談を持ち掛けているが、栃木県内の薬物依存者の自立支援施設に身を寄せ、そこで数日間、今後の身の振り方を模索していたものと思われる。
礒飛容疑者が犯行に及んだ背景には、彼の幼少期から現在に至るまでの過去が少なからず影響しているのではないだろうか。
2人の兄との間で何らかのトラブルがあり絶縁状態になっていた事や、36歳の若さでありながら、両親とも他界、出所後に身を寄せる場所が何処にも見当たらず、知人の言われるままに大阪に向かったものの、思うような結果が得られず自暴自棄に陥り、社会の流れに乗り遅れた滑車が噛み合わず、常軌を逸脱した行為へと突き進む…。
この未熟とも言うべき自己形成は、彼の少年期まで遡る必要があるだろう。裕福な幼少期が父親の経営する材木店の倒産が切っ掛けになり、中学に進学した辺りから彼の生活は次第に荒れ始め、非行に走るようになり、不良グループの仲間入りもこの頃からだったと言われている。
中学卒業後は地元の暴走族グループ、わたし自身もよく知っている(スペクター)に入り、『総長』にまで登り詰めている。
暴走族のメンバーが全てそうであるとは言わないが、暴力団との繋がり深いのは今も昔も変わらない。彼もまた20歳を契機に暴力団に所属し、覚醒剤に手を染める事となっていった。
裕福な子ども時代に『良い子』として育った人格ほど、耐性に乏しく急激な環境変化について行けず、哀れな末路を辿るケースが目立つ。
刑務所で刑期を終えた元犯罪者の罪がそれで全て消える訳ではなく、前科者として社会から孤立し、行き場所を失った受刑者を受け入れる現代社会の在り方も問われる所ではあるが、このように無差別殺人が繰り返される中で、同じ惨劇が繰り返されない為にも、社会全体が支え合い前科者の社会復帰をフォローする体制作りが必要であると思えるのだが。