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プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-雨の東京

 わたしが初めて東京に行ったのは小学4年生の時だった。その頃はまだ新幹線も開通していなかったので伯父に連れられて東海道線の長い汽車の旅を経験した。
 行き先は東京の郊外にある府中刑務所。父が服役している場所であった。日時や曜日までは思い出せないが前日に藤枝を出発し、東京に着いてから地下鉄を幾つも乗り継いだ記憶がある。
 こんな暗い所を電車が走っているなんてと驚いていた。東京には三郎という祖父の兄弟が住んでいるらしく伯父はその人の家を探し回っていたようだったが結局見つからず、もう夜も10時を過ぎていたのでそこら辺で見つけたホテルに泊まった(今思うとラブホテルだったのかも知れない)。
 ふんわりしたベッドの感触やバスルームに綺麗な花びらが浮いていたのを思い出す。家で寝る石のように固い薄っぺらな布団とは大違いだった。
 都心から都下にある府中刑務所まではおそらく京王線で行ったのではないだろうか。その頃に京王線が存在していればの話ではあるが。府中と言えば競馬で有名なところである。
  府中に刑務所がある事を知っている人はどれだけいるだろう。父の出所を迎えに行くのはこれが2回目なのである。実は4歳の頃に祖母と一緒に静岡刑務所へ迎えに行った事がある。4歳という幼い記憶なのでおぼろげながらに記憶しているだけであるが、2度目の出迎えは鮮明に脳裡に焼き付いている。
 子どもの目からみればそれは城門の聳え立つ高い塀に見えた。刑務所の入り口までは広い公園になっていて、わたしはそこで一人待たされた。子どもは刑務所の中には入れないのである。
 一体何時間待っただろう。天気がよかったので公園に生い茂る樹木の下で飛び回る虫たちの姿を見つめながら、時間が過ぎるのを待った。
 公園内を掃除している清掃員のおじさんが声を掛けて来たが内容は忘れてしまった。こんな所に小さな子どもがいる事自体が不思議であり、よほどの事情があったのだろうと思ったのかもしれない。
 随分長い時間を待たされてようやく大きな刑務所の門が開いた。わたしはそれをかなり離れた距離から見詰めていた。
 最初に伯父の姿が現われ、その後に白い開襟シャツを着た父の姿が見えた。父は少し笑っていた。本当ならここでドラマのように父に向かって走り出し抱きつくシーンを思い起こすだろうが、そんなテレビドラマのように劇的な風景とは裏腹に父との会話は全くなかった。
 出所する時、刑務所から僅かだが現金が支払われる。服役中は誰でも労働するわけだからそれに対する報酬が出るのであるが、それは本当にわずかな金額で、刑務所から故郷に帰る交通費と飲食代程度のものだった。
 幼いわたしとしては折角東京まで来たのだからせめて東京タワーに登ってみたかったが、そんな時間は全く残ってはいなかった。
 帰りは午後から雨になり静岡行きの列車も満員で座る事が出来ず乗車口の所で立っていた。通り過ぎる雨に煙る薄暗い空に東京タワーが天を突刺しながら「ボク、また追いで」と言っているように思えた。
 同じ乗車口に居た綺麗なお姉さんがわたしにパンをくれた。お腹の空いていたわたしにとっては有り難い思いがけないご馳走だった。パンに喰らい付くわたしを見て、父が優しく「お礼を言えよ」と言った。


プールサイドの人魚姫-ひと恋



ちぎれるほどに右手を振って

ありったけの笑顔を

あなたに見せた

ありがとう さようなら

そう つぶやきながら

窓越しに揺れるあなたは陽炎

また逢えるよね

逢ってくれるよね

心の中に不安が募る

二人の距離が

列車とともに遠ざかる

一緒に連れてって

そう言えないわたしに

涙の線路が霞んで見えた

人影まばらのプラットホーム

佇むわたしは

ひと恋列車







プールサイドの人魚姫-ダイナモ

 その日(25日)、巷に号外が飛び交った。「石原慎太郎東京都知事 辞職」、それは政界再編成に向けて風雲急を告げる「石原流」特有のパフォーマンスだったのだろうか。

 政権末期状態にある民主党の陳腐な辞任劇、就任後一カ月も経たずして、田中法相の「外国人献金問題」発覚。更には暴力団との癒着なども含めれば「辞任止む無し」ともなるが、全く大臣としての仕事をしていなくとも「前法務大臣」と言う「肩書」が付いてしまうのだから呆れてしまう。

 適材適所を熟知した大企業の人事異動も短いスパンで発令されるが、民間ではなく税金を頂く公務員、それも一国の中枢を司っている与党という絶対的立場にある政権内部から、自ら綻びを拡げてしまうような野田総理の人員選出ミスを見る限り、緊張感の欠片もない政治家たちのサラリーマン体質が永田町に蔓延しているのではないかとさえ思ってしまうのである。

 このような無責任国政の在り方に業を煮やしたのか定かではないが、安倍新総裁の誕生、橋下大阪市長率いる「日本維新の会」などの動向を元に「新党結成」のタイミングなどを計り国政復帰に向けて準備(第三極の結集)を進めていたものと思われる。

 石原さんは1968年に自民党から(参議院)全国区に出馬し、本業の作家活動を続けつつ、政治家の道を歩み始めた。

 1972年には参議院を辞職。同年12月に衆院選に無所属で出馬し当選、その後自民党へ復帰。然しながら石原氏の自民党時代はそう長くは続かなかった。

 その3年後、1975年に議員を辞職し、東京都知事選に挑戦するも惜敗。その悔しさを振り払うかのように1976年に国政へと復帰を果たし、当時の福田(改造)内閣では「環境庁長官」に就任しており、ここからが石原氏の本格的な政治家活動と言えるだろう。

 議員生活約25年と言う節目で唐突な議員辞職表明は、当時の国会を混乱の渦に巻き込み周囲からは「身勝手な男」と冷ややかな視線を浴びたものの、石原氏本人は「我が道を行く」を貫き通した。

 そして1999年に都知事選に再挑戦し当選したが、この時の都知事選は有力候補者がひしめいており大苦戦を強いられた(鳩山邦夫、舛添要一)等がいた。

 そして約14年間に渡り、日本の心臓部と呼ばれる大都会「東京」の監督責任者として、その辣腕を発揮して来た訳であるが、元々自民党の「タカ派」集団に属していた事もあり、その言動や行動に首を傾げる人も決して少なくはなかった。

 例えば国際都市東京の宿命とも言うべき、外国人による凶悪犯罪の増加に伴っての「三国人」発言は、当時の記者団に「差別用語」との指摘を受けていたが、本人曰く「古い人間だから…」で片づけられてしまうほど、作家人生の長い石原氏の表現方法とは思えぬデリカシーの欠如に落胆してしまう訳である。

 人間は誰しも一長一短があり完璧な人間など居る筈もないが、国を動かすほどの権力者ともなれば、辞任が相次ぐ民主党のような醜態は出来るだけ晒して頂きたくないものである。

 定年制のない政治家たちに取ってみれば、国会の場と言うのは美味しい職場だったりするのかも知れないが、80歳にして国政へ復帰と言う政治への執念深さを、良い意味で捉えれば石原氏のような信念の持ち主に政治を任せてみたいという気持ちにもなり得るが、果たしてこれから何年間政治を続けられるのかその辺が心配の種でもある。


プールサイドの人魚姫-花束

 2005年10月、綿菓子を溶かしたような白い秋の雨が降りそぼる頃だった。東京都済生会中央病院に、中央聖書教会の牧師「石原先生」が入院しておられたので、早速お見舞いに行った。小雨の中、傘も指さずオーバーヒート気味のわたしの身体には丁度よい冷たさだった。
 わたしの場合、多少の雨であれば傘を指さない。雨に濡れるのが好きな少し変わった所がある。雨も天の恵みに変わりなく、わたしにとっては心地良かった。
 術後まだ間もない先生は意外と元気であった。先生には一度しかお会いしておらず、しかも非常に短い時間だったので、わたしの事は覚えていなと思っていた。
 病室に入りベッドを見ると空だった。「あれ?何処へ行ったのかな」と思いながら病室を出ると、若い看護師がやって来て「石原さんは今お風呂に入ってます」と教えてくれた。
 廊下で5分ほど待つと、ふくよかな顔に銀縁眼鏡の良く似合う先生が、わたしの方に片手を挙げて挨拶をしてくれた。
 少し肩で息をしている先生はやはり病人であったが順調に回復しており、随分と会話が弾んだ。時計を見るともう17時近く。
 病人の先生に長話しをしてしまい申し訳なく思ったが、病気を抱えているわたしがこうして花束を持って見舞いに行くのは初めての事だった。
 いま思えば最初にわたしを見舞ってくれたのは小学6年のクラス全員と千羽鶴だった。そして次々と訪れる見舞い客たち。
 今まで多くの方々に見舞って頂いたお礼も込めて、先生に花束を送った。わたしに花束は似合わないかもしれないが、病気になって初めて気付く日常がある。健康な人も、そうでない人もみな心に花束を持とうではないか。


プールサイドの人魚姫-iPS

 それは医学界のみならず、世界のあらゆるメディアが注目する画期的な出来事であった。ノーベル医学・生理学賞を受賞した京都大学の「山中伸弥」教授のニュースは地球上の全ての生物に対し「神の恩恵」とも言えるほどのインパクトを齎した。

 もちろん其処には山中教授とそのチームによる並々ならぬ努力と探究心があったからこそであるが、途方もなく長い医学の歴史に、月に残したあの足跡の様に今まさに輝かしい医療に於ける未来への扉を切り開き新しい一ページを刻み込んだのである。

 このようなニュースは、わたしの様に重い疾患を抱えて生きる者たちにとっては歓喜すべき事柄ではあるが、果たして自分がこの世に生きている間にiPS細胞の実用化の恩恵を授かる事が出来るかどうか疑問は尽きないものの、自分が後30年生きられると計算すれば、その可能性は充分にあるだろう。

 ほぼ半分壊れ掛けているこのポンコツ心臓であるが、よくぞ此処まで長らく耐え抜いてくれたと自分の心臓(病気)に敬意を表したいと思っているが、それが可能であるとするならば、薬に頼る生命から脱却したいと思っている。

 日本人の死因トップは言わずと知れた「癌」であるが、iPS細胞が齎す未知の可能性として、新薬の開発、治療方法も劇的な変革の時代を迎えつつあると思われる。

 然しながら、あらゆる世界には陰と陽が存在する訳で、つい先日、東京大学を懲戒解雇された「森口尚史」研究員のように、その人気に便乗するがの如く悪用する輩もおそらく出現する可能性は高い。

 万事が善意によって成されるのであれば良いが、「薬害エイズ」などのように、己の利潤のみを追求せんが為に、数多くの一般人が犠牲となってしまう「禁断の果実」とも捉える事が出来る。

 人間は欲を捨てて生きる事は出来ないが、その「欲望」をコントロールする理性を兼ね備えているからこそ人間らしい生き方が出来ているのである。

 欲に溺れた者たちの醜態をこれまで幾度となくわたしたちは見て来たが、自分の中の「陰と陽」を理解してさえいれば大きく道を踏み外す事などないだろう。


プールサイドの人魚姫-本

 わたしは、2005年3月に詩集「天国の地図」を文芸社から出版したが、その数カ月後の8月に初めての印税が入金された。

 印税率は出版社によって若干の違いがある。わたしは、「文芸社」「碧天舎(倒産)」「新風舎(倒産)」「新生出版(倒産)」など5社と出版について話しをしたが、出版部数から印税についてまで様々な形態がある事が分かった。

 印税率だけで出版社を決める訳にはいかないし、最も優先すべきは書籍が確実に書店に陳列されるかであった。

 新風舎の場合、初版については印税が支払われない仕組みになっており、増刷時にのみ発生する。これにつては聊か問題点ありだと思っていたが、その代わりに非常に門戸が広く特に厳しい審査基準もないため、当時は多くの出版希望者たちに人気があったが、まず書店に並ぶ事はなかった。

 特に「詩集」というジャンルになると非常に厳しいと言えるが、その壁を乗り越え「天国の地図」は平積みという快挙を成し遂げた。

 画像を見て頂ければ一目瞭然であるが、その当時は韓流ブームの火付け役となった「冬のソナタ」などが大ヒットした年でもあり、「天国の階段」などのベストセラー本に混じっての平積み。

 出版された本が書店に届いてもその書籍をどのように扱うかは、書店のオーナーが決める事であり出版社自体がこれに関与する事は殆どない。

 入金された印税の一部は、わたしが当時お世話になり、所属していた「全国心臓病の子どもを守る会」に寄付した。


プールサイドの人魚姫-大滝

 映画やドラマの中心にいる訳ではないが、その俳優が居なければストーリーそのものが成り立たなかった。

 俳優として数多くの作品に惜しげもなくその資質を発揮した「大滝秀治」さんが、2日の午後に肺扁平上皮がんの為、都内の自宅で亡くなった。

 つい先日にも女優の「馬渕晴子」さんが、やはり肺がんのため亡くなったばかりである。馬渕さんは、女優として日本で初めて自分のヌードを公開するなどして、女性解放の一役を担っている面もあったが、やはり大滝さんと同様に、名脇役の一人として高い評価を受けていた。

 大滝さんは、悪役から政治家、刑事役など幅広く様々なドラマ、舞台、映画などでその滋味深い演技をさり気なく醸し出し、存在感たっぷりの名脇役だった。

 彼は、若い頃から老け顔でそれに伴って俳優の人生を左右すると言われる「声質」についても、決して褒められたものではなく当時から「悪声」と呼ばれており、その二つの個性により、ドラマの中心的存在に位置する事がなく、常に「脇役」と言う、俳優生活に取ってみれば「付けたし」のような部分に甘んじてはいたが、その個性を持ち前にし独特のキャラクターを創り出し、結果的に成功を収めている。

 わたしの中で、最も印象深かったのはやはり名作「北の国から」で演じた「北村清吉」。普段は朴訥で殆ど口を聞かない清吉であったが、時には周りの者たちをねじ伏せてしまうほどの説得力と存在感をその個性に重ねて表現していた。

 今年6月に他界した「地井武男」さんもまた名脇役の一人だったのかも知れない。大滝さんの訃報で、「北の国から」に出演していた役者が二人亡くなってしまい、このドラマの筋書きに二人の運命を重ね合わせてしまう人も多いのではないだろうか。

 全ての人の人生に於いて、主人公(主役)は常に「あなた」、「自分」であるが、その影には多くの「脇役」が存在している事を忘れてはならない。

 そしてまた、あなた自身も「脇役」である事が心の中に存在していて欲しいと思う。自分を支えてくれる人たちと、自分もまた誰かを支えているのだと言う事、それこそが人生そのもだと思っている。

 あなたの周りには何人の脇役がいますか?あなたは誰かの脇役になっていますか?「名」が付く必要はない、さり気なく気付かれなくともあなたの大切な人の支えになっていて欲しい。


プールサイドの人魚姫-胸騒ぎ


傷つくことには

慣れている

そう 思い続けて

来たけれど

くちびるを

重ね合わせる度に

何故か胸騒ぎ

いっそのこと

心憎い

あなたを振り切って

この 恋地獄から

抜け出したい



プールサイドの人魚姫-心霊

 2004年10月、父の30回目の墓参りに行った時に写した写真。この日は朝から土砂降りの雨で、東名高速も速度制限をしていた為、郷里の藤枝市に着くまでかなり時間がかかった。

 この雨ではまともに墓参りなど出来ないだろうと思っていた。藤枝に着いた時は既に時計の針は午後1時を回っていたが、雨は相変わらず激しく道の至る所に水溜まりを作っていた。

 コンビニで弁当を買い、車の中で家内と息子の3人で遅い昼食を済ませる。いい加減に止んで欲しいと心で呟きながら長楽寺へと向かった。

 すると突然雨が小降りになり始め、寺に到着した頃はすっかり止んでしまったのである。車から降りた時は一滴も落ちて来ない。

 空には秋雨前線がどんよりと立ち込めている。さあ今のうちに済ませてしまおうと、墓参りといつもの恒例の記念撮影。

 そして車に乗った途端に雨が激しく降り始めた。妙な気分ではあったが、その日はひねもす不思議な現象が続いていた。

 さて、おそらく既に気付かれた方がいると思うが、わたしの右肩に注目して欲しい。それは、ハッキリと鮮明に写し出された手。

 わたしの肩をしっかりと掴んでいるではないか。専門家の鑑定によれば、どうも若い女性らしい。それもかなり昔に亡くなられている先祖の霊だと言う。

 心当たりがあった。23歳で亡くなった叔母がおり、子どもの頃とてもよく可愛がってくれた綺麗な女性。鑑定士曰く、「これは非常に貴方を心配して守ってくれている守護霊なので大切にしなさい」との事だった。

 この写真(心霊写真)は非常に強いエネルギーを放っているので、見た人にも良い事が訪れるかも知れないと、その霊能者(鑑定士)は語っていた。


プールサイドの人魚姫-反日デモ

 たわわに実った果物や野菜、そして米など。実りの秋、収穫の秋がやって来ている。連日続いたあの猛暑が嘘のように、ここ数日は実に涼しく爽やかな秋の風が高い空を吹き抜けて行く。

 そんな自然の営みを余所に、この夏を振り返って見ると、「デモ一色」だったような気がする。「原発再稼働」「脱・原発」そして「オスプレイ配置」などであるが、デモに参加した民衆の呻きにも似た叫び声は、虚構の空に虚しく消えて行った。

 耳栓よろしくそれらの声に全く動ずる事も耳を傾ける事すらしない役人や政治家たちには、幼子の鳴き声ほどにも聞こえなかったのであろう。

 そして今、海外に眼を向ければ言わずと知れた中国の「反日デモ」である。尖閣諸島を取り巻く領土問題でヒートアップする中国の人々。

 9月中旬から8日連続で行われた反日デモは、その一部の民衆が暴徒化し日系企業を襲撃し、店舗などがその荒くれどもに取り囲まれ略奪行為にまで及ぶと言う、これは謂わば一種の戦争状態と言ってもよいほどであった。

 中国による反日デモは過去に何度も繰り返されて来てはいるが、やはりその根底に渦巻いている憎しみは戦争が産み落として行った日本による中国の植民地支配にあるだろう。

 切っ掛けは日本政府による尖閣諸島(中国名:釣魚島)の国有化に反発するデモであるが、それが中国の各地に飛び火し、大規模デモに発展した訳である。

 然しながらこのデモを当局が操っていたと言う噂も実しやかに流れており、デモの背景に当然の如く中国上層部が関与している事は明らかである。

 金銭を払ってまでデモに参加させると言う辺りは、実に狡猾な中国の手法であり、そこには何のイデオロギーも存在してはいない。

 反日デモは現在鎮静化してはいるものの、これもまた当局の操作によるものと言う推測の域を出ないのである。

 それに取って変わるように、中国国家海洋局と民政省による発表は尖閣諸島の山・岬などの計26ヶ所に中国独自の地名を付与し公表した。

 この領有権を巡る問題は双方が歩み寄らなければこれからも半永久的に続いて行くと思われるが、アメリカに依存する日本にとっては、自力での外交努力だけで解決する事は皆無であるだろう。

 日本国内で行われた「デモ」は20世紀初頭の頃であるが、江戸時代に勃発した「百姓一揆」もまたデモの部類に入るのではないだろうか。

 原発デモについて言えば、永田町の首相官邸を取り囲んだ民衆の大波は、1960年(昭和35年)に起こった「60年安保闘争」以来であるが、その中身は50年前のものと比べ大きく異なっている。

 つまり政党や労働組合などとは関係なく個人の意思によって人々が一堂に集まる事が多い。インターネットが全国的に普及している現代では、それらのネットを駆使し呼びかけを行うという、まさに現代の情報化時代を象徴した動きであり現象とも言えるだろう。

 然し、そこに本来のデモクラシーは存在しているのだろうか?民主主義を紐解けば、国そのもは国民一人ひとりの集合体であり、国を動かしているのは我々国民と言う事になる。つまり民主主義体制下に於いての権力者は政治家ではなく国民なのだ。

 50年前とは時代も大きく変化し、ある一定の水準を手に入れた日本経済の下で、わたしたちはなりふり構わぬ時代を疾走し、平和と安定した暮らしを手にしたかに見えたが、その対極に犠牲と痛みを伴う忘れ物を残して行った気がしてならない。

 核家族化が訪れ否応なしに人間本来が持つ労いやスキンシップが失われ、傍観者のみが巷に溢れだし、その行く末に待っていたのは孤独死や自殺者が増加する無縁社会である。

 大震災や原発事故によって、それらは曲りなりにも本来の人間性を取り戻してはいるものの、充分だとはとても言い切れないのが現状である。

 日本人と違い、韓国や中国の人々は感情の表現があからさまで時にはそれらに嫌悪感を抱いてしまう事さえあるが今回のデモを見ても分かるように、国内と国外では非常に対照的である。

 日本人の持つ奥ゆかしさは美徳ではあるが、無関心とは全く別である。オリンピックは参加する事に意義があると説いているが、さて、これらの「デモ」についてはどう判断すべきだろうか。