わたしが初めて入院を経験したのは、小学6年の時だった。心臓病の発見は小学4年の時であったから、約2年間は医者の目に触れることはなかった。
そこには、劣悪な家庭環境が背景にあり、学校から専門医の診察を受けるよう注意を促されていたにも関わらず、父親はみて見ぬ振りを決め込んでいたのである。
労働意欲の全くない父親は、明るい内から酒を飲み顔が夕日に染まる頃には、赤い顔を更に赤くして酔いどれていた。
金も健康保険証もない状況下では、どんなに病状が進行しても医者に掛かる余裕などなかったのである。
そんな環境では、まともな食生活が送れる筈もなく、一日三食の日は年に数えるほどしかなかった。栄養不足の子どもの体は、病気も手伝って見る見るうちにやせ細って行った。
「ウー、ウーッ…」
けたたましいサイレンを響かせながら、夜の闇を走る救急車の中に、顔を血だらけにしたわたしと酒臭い父の姿があった。
藤枝では一番大きく、設備の整った「藤枝市立志太総合病院」に向かって白い車は走った。到着した救急車を待ち受けていたのは、数人の医療スタッフとストレッチャーだった。
「何処へ連れて行くのだろう…」
不安な表情を浮かべるわたしに父が上から語りかけた。
「とし坊、もう大丈夫だ…」
酔いが少し覚めた父の口調は優しく温かだった。子どもにとって親の一言がどれだけ大切で救われることか。
わたしは涙を溜めながら「うん」と頷いた。小児科病棟の個室に運び込まれると、その後から慌ただしく看護婦たちが出入りした。
扉には面会謝絶の札が掛かり、病状の重さを物語っていた。点滴がその夜から始まり、三週間近く続いた。
個室にいる間は父が時々様子を見に来たが、泊まって行ったのは入院初日の夜だけだった。完全看護とは言え、まだ11歳の子どもである。1人で個室にいるのは淋し過ぎた。ただ、その淋しさを紛らわしてくれたのが朝昼晩の病院食であった。
一日三回、しかも毎回メニューが替わる食事は、子どもの世界を一変させるほど効果があったし、家にいたらこんな風に、毎日ご馳走は食べられない。育ち盛りの子どもにとっては、空腹ほど残酷で耐え難いものはなかった。
その日の夕食は、刺身と肉じゃがにワカメの味噌汁だった。食事中に父が紅い顔をしてやって来た。病棟に酒の臭いが広がるのはとても恥ずかしかった。ガツガツと餌にありついた犬のように食べるわたしを見て、父が言った。
「みっともないから全部食べずに、少しは残せ…」
何の苦労もなく子ども時代を過ごした父は人一倍プライドだけは高かった。父の馬鹿げた言葉だったが、そんな言葉に耳を貸すこともなく、わたしは綺麗に夕食を平らげた。
そして味噌汁を一気に飲み干した。その後で父が言った。
「どうだ、父ちゃんが作った味噌汁とどっちが美味い?」
「そりゃあ父ちゃんの方が美味いよ」
「父ちゃんの味噌汁は世界一だもん」
「そうかー、退院したら毎日作ってやるからな」
嘘でも嬉しい父の言葉が、病院食の器の中で優しくいつまでも木霊していた。
人生を一つの舞台として捉えれば、わたしたちもまた自分の人生を演じている訳であるが、何れそのステージから降りなくてはならない時期が来る。
それが「死」をもって人生の完結とするかは人によって捉え方は様々であるが、自分がどのような舞台を踏んで来たかによって故人が人々に与える影響は大きく、死後も尚その舞台があたかも魂を得たかのように存在しているのは間違いないだろう。
先日10日に肺炎による心不全でこの世を去った女優の森光子さん(92)は、激動の昭和と平成の時代を70年に渡り生き抜いた偉大なる女優の一人である。
彼女の芸歴やこれまでの活躍などをこのページだけで語り尽くせるものではないが、わたし個人としてみた女優「森光子」を語ってみたいと思う。
先に亡くなった大滝秀治さんが、「名脇役」と知られているように、彼女もまた脇役からのスタートだったようである。
70年という長さを省みれば、日本に於ける戦争の歴史をある程度紐解く必要があるだろう。1937年に勃発した日中戦争の影響もある中、当時の映画製作が激減した事などにより、歌手を志望し1941年に上京。
戦火の拡大が本土を超えて中国大陸など各地に飛び火して行く中、藤山一郎、田端義夫、淡谷のり子らと同じステージに立ち、戦地慰問なども経験している。
わたしはもちろん年代的に言っても彼女の歌を一度も聴いてはいないが、戦後は進駐軍などの施設でジャズやアメリカン歌謡などを歌っていたようである。
この様に若い頃からの様々な経験や体験によって現在の「森光子」が誕生した訳であるが、彼女の女優デビューは決して楽観的なものではなかった。
彼女の名を最もポピュラーにしたのが言わずと知れた「時間ですよ」である。わたしと同期の年代の方たちであれば皆そう思う筈。
わたしの見た「時間ですよ」は、1970~1973年に渡りTBS系列で放映されたものであり、この人気ドラマの中で女将さん役が大当たりし一躍彼女の名がお茶の間を賑わすようになり、一般視聴者にまで知れ渡る事となった。
「おかみさん時間ですよ」で始まるこの愉快なドラマからは多くの人気タレントや歌手が誕生しており、わたしの青春時代の一ページを飾ってくれている。
堺正章を始め、悠木千帆(樹木希林)、天地真理、そしてわたしが最も好きだったタレントの浅田美代子が「赤い風船」でデビューしたのもこの番組だったと記憶している。
国民的人気番組の主人公として森光子はお茶の間に欠かせない存在となったが、やはり本業はブラウン管の中ではなく、舞台女優と言うことだったのだろう。
それは「放浪記」との出会いによって確立されたものに成長して行く事となるが、彼女がエンターティナーと呼ばれる所以は舞台だけでなく映画、テレビドラマ、バラエティショーなど数多くの場面で培われて行ったその芸風にあるのだとわたしは思う。
病床にあっても尚、舞台に立つ事を諦めず、生涯現役を貫いた役者魂は多くのファンや後輩たちの心を熱く揺さぶるものであった。
時を同じくして亡くなった政治評論家の三宅久之さんや、そしてまた治療の甲斐も虚しく亡くなった桑名正博さんのお二方の分も含めて心よりご冥福をお祈り致します。
米大統領選の真っ最中に、ハリケーン「サンディ」が米東部に上陸。ニューヨークでは広範囲に渡り浸水被害に見舞われた。
このハリケーンに伴いオバマ大統領は重点地域での遊説を急遽中止し、対策に全力を注ぎつつ被害に合った地域を訪れ民衆に向かって励ましの言葉を送った。
結果的にオバマVSロムニーの大統領選は、オバマ大統領の圧勝と言う形で幕を下ろし、オバマ氏が引き続き第45代アメリカ合衆国大統領に就任する事となる。
オバマ氏が自然の猛威を味方に付けたかどうかは知らないが、ブッシュ前大統領の時の初動対応の緩慢さに民衆の怒りを買い、政権の危機管理の甘さを露呈しているだけに、過去の例が少なくとも影響していると言う背景が見てとれる。
アメリカはその歴史が物語るように選挙の国であり、国民が政権の中心に存在し国を動かしているのは事実である。
ジョン・レノンの歌う「パワー・トゥ・ザ・ピープル」が人々の根底に流れているからでもあるが、アメリカの選挙戦を見る度に思うのは、日本との大きな違いである。
我が国の場合、選挙は国民のものではなく、政治家たちの為に存在しているようなもの。薄れ行く政治への関心度を見るにつけ、国民の意識が低ければ低い程に優れた政治家が存在しないのは確かなのである。
優秀な政治家を創り育て上げるのは、わたしたち国民の責務ではないのだろうか?日本と言う国をこよなく愛し、更に発展しより良い国作りを望んでいるのはわたしたち一人ひとりの筈である。
もちろん、アメリカや他の国がその手本となる訳ではないし、それぞれの国で抱えている問題も様々であるが、根底に根付いている想いは同じ平和と調和である。
今回のハリケーン対策で、オバマ氏がパフォーマンスとしてそれを利用したとの噂も聞こえて来るが、それは天が彼に与えた「抜き打ちテスト」のようなもの。
その行動に有権者たちが合格点を与えた結果が再選へと導いたとも言える。「災い転じて福となす」ではないが、瞬時の状況判断がそれ以後の結果に大きな影響を及ぼす事は間違いないであろう。
わたしが初めて東京に行ったのは小学4年生の時だった。その頃はまだ新幹線も開通していなかったので伯父に連れられて東海道線の長い汽車の旅を経験した。
行き先は東京の郊外にある府中刑務所。父が服役している場所であった。日時や曜日までは思い出せないが前日に藤枝を出発し、東京に着いてから地下鉄を幾つも乗り継いだ記憶がある。
こんな暗い所を電車が走っているなんてと驚いていた。東京には三郎という祖父の兄弟が住んでいるらしく伯父はその人の家を探し回っていたようだったが結局見つからず、もう夜も10時を過ぎていたのでそこら辺で見つけたホテルに泊まった(今思うとラブホテルだったのかも知れない)。
ふんわりしたベッドの感触やバスルームに綺麗な花びらが浮いていたのを思い出す。家で寝る石のように固い薄っぺらな布団とは大違いだった。
都心から都下にある府中刑務所まではおそらく京王線で行ったのではないだろうか。その頃に京王線が存在していればの話ではあるが。府中と言えば競馬で有名なところである。
府中に刑務所がある事を知っている人はどれだけいるだろう。父の出所を迎えに行くのはこれが2回目なのである。実は4歳の頃に祖母と一緒に静岡刑務所へ迎えに行った事がある。4歳という幼い記憶なのでおぼろげながらに記憶しているだけであるが、2度目の出迎えは鮮明に脳裡に焼き付いている。
子どもの目からみればそれは城門の聳え立つ高い塀に見えた。刑務所の入り口までは広い公園になっていて、わたしはそこで一人待たされた。子どもは刑務所の中には入れないのである。
一体何時間待っただろう。天気がよかったので公園に生い茂る樹木の下で飛び回る虫たちの姿を見つめながら、時間が過ぎるのを待った。
公園内を掃除している清掃員のおじさんが声を掛けて来たが内容は忘れてしまった。こんな所に小さな子どもがいる事自体が不思議であり、よほどの事情があったのだろうと思ったのかもしれない。
随分長い時間を待たされてようやく大きな刑務所の門が開いた。わたしはそれをかなり離れた距離から見詰めていた。
最初に伯父の姿が現われ、その後に白い開襟シャツを着た父の姿が見えた。父は少し笑っていた。本当ならここでドラマのように父に向かって走り出し抱きつくシーンを思い起こすだろうが、そんなテレビドラマのように劇的な風景とは裏腹に父との会話は全くなかった。
出所する時、刑務所から僅かだが現金が支払われる。服役中は誰でも労働するわけだからそれに対する報酬が出るのであるが、それは本当にわずかな金額で、刑務所から故郷に帰る交通費と飲食代程度のものだった。
幼いわたしとしては折角東京まで来たのだからせめて東京タワーに登ってみたかったが、そんな時間は全く残ってはいなかった。
帰りは午後から雨になり静岡行きの列車も満員で座る事が出来ず乗車口の所で立っていた。通り過ぎる雨に煙る薄暗い空に東京タワーが天を突刺しながら「ボク、また追いで」と言っているように思えた。
同じ乗車口に居た綺麗なお姉さんがわたしにパンをくれた。お腹の空いていたわたしにとっては有り難い思いがけないご馳走だった。パンに喰らい付くわたしを見て、父が優しく「お礼を言えよ」と言った。
その日(25日)、巷に号外が飛び交った。「石原慎太郎東京都知事 辞職」、それは政界再編成に向けて風雲急を告げる「石原流」特有のパフォーマンスだったのだろうか。
政権末期状態にある民主党の陳腐な辞任劇、就任後一カ月も経たずして、田中法相の「外国人献金問題」発覚。更には暴力団との癒着なども含めれば「辞任止む無し」ともなるが、全く大臣としての仕事をしていなくとも「前法務大臣」と言う「肩書」が付いてしまうのだから呆れてしまう。
適材適所を熟知した大企業の人事異動も短いスパンで発令されるが、民間ではなく税金を頂く公務員、それも一国の中枢を司っている与党という絶対的立場にある政権内部から、自ら綻びを拡げてしまうような野田総理の人員選出ミスを見る限り、緊張感の欠片もない政治家たちのサラリーマン体質が永田町に蔓延しているのではないかとさえ思ってしまうのである。
このような無責任国政の在り方に業を煮やしたのか定かではないが、安倍新総裁の誕生、橋下大阪市長率いる「日本維新の会」などの動向を元に「新党結成」のタイミングなどを計り国政復帰に向けて準備(第三極の結集)を進めていたものと思われる。
石原さんは1968年に自民党から(参議院)全国区に出馬し、本業の作家活動を続けつつ、政治家の道を歩み始めた。
1972年には参議院を辞職。同年12月に衆院選に無所属で出馬し当選、その後自民党へ復帰。然しながら石原氏の自民党時代はそう長くは続かなかった。
その3年後、1975年に議員を辞職し、東京都知事選に挑戦するも惜敗。その悔しさを振り払うかのように1976年に国政へと復帰を果たし、当時の福田(改造)内閣では「環境庁長官」に就任しており、ここからが石原氏の本格的な政治家活動と言えるだろう。
議員生活約25年と言う節目で唐突な議員辞職表明は、当時の国会を混乱の渦に巻き込み周囲からは「身勝手な男」と冷ややかな視線を浴びたものの、石原氏本人は「我が道を行く」を貫き通した。
そして1999年に都知事選に再挑戦し当選したが、この時の都知事選は有力候補者がひしめいており大苦戦を強いられた(鳩山邦夫、舛添要一)等がいた。
そして約14年間に渡り、日本の心臓部と呼ばれる大都会「東京」の監督責任者として、その辣腕を発揮して来た訳であるが、元々自民党の「タカ派」集団に属していた事もあり、その言動や行動に首を傾げる人も決して少なくはなかった。
例えば国際都市東京の宿命とも言うべき、外国人による凶悪犯罪の増加に伴っての「三国人」発言は、当時の記者団に「差別用語」との指摘を受けていたが、本人曰く「古い人間だから…」で片づけられてしまうほど、作家人生の長い石原氏の表現方法とは思えぬデリカシーの欠如に落胆してしまう訳である。
人間は誰しも一長一短があり完璧な人間など居る筈もないが、国を動かすほどの権力者ともなれば、辞任が相次ぐ民主党のような醜態は出来るだけ晒して頂きたくないものである。
定年制のない政治家たちに取ってみれば、国会の場と言うのは美味しい職場だったりするのかも知れないが、80歳にして国政へ復帰と言う政治への執念深さを、良い意味で捉えれば石原氏のような信念の持ち主に政治を任せてみたいという気持ちにもなり得るが、果たしてこれから何年間政治を続けられるのかその辺が心配の種でもある。
2005年10月、綿菓子を溶かしたような白い秋の雨が降りそぼる頃だった。東京都済生会中央病院に、中央聖書教会の牧師「石原先生」が入院しておられたので、早速お見舞いに行った。小雨の中、傘も指さずオーバーヒート気味のわたしの身体には丁度よい冷たさだった。
わたしの場合、多少の雨であれば傘を指さない。雨に濡れるのが好きな少し変わった所がある。雨も天の恵みに変わりなく、わたしにとっては心地良かった。
術後まだ間もない先生は意外と元気であった。先生には一度しかお会いしておらず、しかも非常に短い時間だったので、わたしの事は覚えていなと思っていた。
病室に入りベッドを見ると空だった。「あれ?何処へ行ったのかな」と思いながら病室を出ると、若い看護師がやって来て「石原さんは今お風呂に入ってます」と教えてくれた。
廊下で5分ほど待つと、ふくよかな顔に銀縁眼鏡の良く似合う先生が、わたしの方に片手を挙げて挨拶をしてくれた。
少し肩で息をしている先生はやはり病人であったが順調に回復しており、随分と会話が弾んだ。時計を見るともう17時近く。
病人の先生に長話しをしてしまい申し訳なく思ったが、病気を抱えているわたしがこうして花束を持って見舞いに行くのは初めての事だった。
いま思えば最初にわたしを見舞ってくれたのは小学6年のクラス全員と千羽鶴だった。そして次々と訪れる見舞い客たち。
今まで多くの方々に見舞って頂いたお礼も込めて、先生に花束を送った。わたしに花束は似合わないかもしれないが、病気になって初めて気付く日常がある。健康な人も、そうでない人もみな心に花束を持とうではないか。
それは医学界のみならず、世界のあらゆるメディアが注目する画期的な出来事であった。ノーベル医学・生理学賞を受賞した京都大学の「山中伸弥」教授のニュースは地球上の全ての生物に対し「神の恩恵」とも言えるほどのインパクトを齎した。
もちろん其処には山中教授とそのチームによる並々ならぬ努力と探究心があったからこそであるが、途方もなく長い医学の歴史に、月に残したあの足跡の様に今まさに輝かしい医療に於ける未来への扉を切り開き新しい一ページを刻み込んだのである。
このようなニュースは、わたしの様に重い疾患を抱えて生きる者たちにとっては歓喜すべき事柄ではあるが、果たして自分がこの世に生きている間にiPS細胞の実用化の恩恵を授かる事が出来るかどうか疑問は尽きないものの、自分が後30年生きられると計算すれば、その可能性は充分にあるだろう。
ほぼ半分壊れ掛けているこのポンコツ心臓であるが、よくぞ此処まで長らく耐え抜いてくれたと自分の心臓(病気)に敬意を表したいと思っているが、それが可能であるとするならば、薬に頼る生命から脱却したいと思っている。
日本人の死因トップは言わずと知れた「癌」であるが、iPS細胞が齎す未知の可能性として、新薬の開発、治療方法も劇的な変革の時代を迎えつつあると思われる。
然しながら、あらゆる世界には陰と陽が存在する訳で、つい先日、東京大学を懲戒解雇された「森口尚史」研究員のように、その人気に便乗するがの如く悪用する輩もおそらく出現する可能性は高い。
万事が善意によって成されるのであれば良いが、「薬害エイズ」などのように、己の利潤のみを追求せんが為に、数多くの一般人が犠牲となってしまう「禁断の果実」とも捉える事が出来る。
人間は欲を捨てて生きる事は出来ないが、その「欲望」をコントロールする理性を兼ね備えているからこそ人間らしい生き方が出来ているのである。
欲に溺れた者たちの醜態をこれまで幾度となくわたしたちは見て来たが、自分の中の「陰と陽」を理解してさえいれば大きく道を踏み外す事などないだろう。









