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プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-闘病

 脳梗塞で倒れたあの夜の事、孤独と絶望感に打ちひしがれ、完全に麻痺した身体からは涙の一滴すら流れ落ちなかったが、心は無念の涙で溢れ返っていた。
 ベッドから落ちた時に自分の右半身がどのような状態だったか全く想像すら出来ずにいた。紫色に腫れ上がった右腕が骨折しなかったのは奇跡とも言えるかも知れない。

 辛うじて自由に動いた左手だけを頼りにベッド上に戻ろうと、必死にもがいていた。声を上げる事も出来ず、半開きの口からたらーりとだらしなく唾液だけが床に糸を引いて流れ落ちた。まるでそれは助けを呼べない苦悶と悲痛の涙だったのかも知れない。

 次の朝を迎える事が出来るのか、そんな事すら考えも及ばなかったが、身動きが取れない身体の奥底で「このまま死ぬ訳にはいかない」とくちびるを噛み締めていた。

 そして奇跡的な復活を遂げたあの日から丁度一ヶ月が経った2月5日の事だった。心不全の症状は数日前から現れていた。

 短期間で急激に体重が4キロ増え、僅か数十段の駅の階段を昇る事が苦痛でならなかった。階段を昇りきったその場所で、もう一歩も動けずに呼吸が今にも止まってしまうのではと思えるほど苦しかった。

 手足はおろか身体全体がダルマのように浮腫み、それは肺にまで及んでいたから起座呼吸をしても一向に楽にはならず食事も受付なくなっていた。

 もっと早く病院へ行くべきであったが、父親ゆずりの下らないプライドが邪魔をし、限界ギリギリになって友人に諭されながら三井記念病院に電話を入れたのが夜の8時頃だった。タクシーで行くと救急外来の看護師に伝え、車の手配をしている矢先に病院から折り返し電話が入った。

 看護師からきっぱりと「救急車を呼んで下さい」と告げられる。わたしは過去に心不全で何度も緊急入院しているが、救急車を呼んだ事はなかった。おそらく脳梗塞の事もあり病院がその辺りも配慮に入れての判断だったのだろう。

 退院後一ヶ月もしない内に病院へ逆戻りとなってしまった訳で、何ともやりきれない思いで胸が一杯であった。

 救急外来では3人の若い男性医師たちが電子カルテを見つつ何やら呟いていた。「ラニラピッドを止めてメインテートに切り替えた…ふむふむ」「ラシックス40ミリを20に減らしたんだね…」「この辺が心不全の要因かな…」。

 確かに薬が変わった事も心不全を招いた要因の一つではあるが、それだけではない。脳梗塞以前と後では身体に大きな変化があったのは事実であり、そしてまた自分の自己管理の拙さも手伝って複合的に心不全を発症したのである。

 不安定なバイタルサインが出ている事から、いつも通りに左腕からラインを取りラシックスとワソランの点滴が始まった。安静時でも120を軽く超える頻脈と、そしてサチュレーションが95を下回っていた事もあり直ぐさま3リットルの酸素吸入が始まる。

 高濃度の新鮮な酸素を貰って身体が喜んだのかその酸素がとても美味しく感じ、生きる事の意味が殊更身に染みた瞬間でもあった。

 更にこれは自分でも予想外であったが、バルーンを尿道に挿入。そして紙オムツまで履く事になってしまったが、今回の心不全がかなりの重症である事を物語っていた。

 絶対安静、ベッドから一歩たりとも降りる事が出来ないのである。外来で応急処置を済ませると運ばれた所は6階にあるCICU(冠疾患集中治療センター)であった。その場所は重症患者を受け入れる施設である。

 物々しい医療機器と慌ただしく動き回る看護師たち。そして耳に響いて来る独特の機械音が生きている証の様に聞こえて来た。

 「○○さーん、聞こえますかー?」「此処が何処だかわかりますかー」若い看護師たちの張りのある声がとても健康的に思えたが、呼び掛けられた患者からの反応は全く聞こえて来なかった。そしてまた入院慣れしたこの身体が病室のベッドに直ぐ馴染んでしまう事も哀しかった。

 次の朝の午前中にある程度症状が安定した事から、そこを出て同じ階にある「循環器専門病棟」に移されたが依然として酸素も点滴もそのままで移動時は車椅子であった。

 一週間ほどその専門病棟で加療し、2月14日に12階の一般病棟に移ったのだが、なんと脳梗塞で入院していた時と同じ病室であり、つい最近までお世話になった医療スタッフたちがそのまま居たこともあり気恥ずかしさを隠す為「戻って来ちゃいまいしたー」と照れ笑いを浮かべて挨拶をした。

 身体の浮腫は眼に見えるほどの早さで消えて行ったが、肺に溜まった水がいつまでも抜けずに残り、そして原因不明の微熱も続いていた事から入院は更に長引いたが、2月24日に退院の許可が降りた。「退院おめでとう」この言葉をわたしは過去に何度も聞いて来たが、本音を正直に言ってしまえばわたしは退院を心底嬉しいと思った事がない。

 病気が治って退院するのなら手放しで喜ぶ事が出来るのだが、このわたしが抱えている病気は治る事がなく悪化の一途を辿るばかりなのである。

 完全看護のバリアで守られた特別室から厳しい現実が待ち受ける世界に放り出される訳で、自己管理を僅かでも怠ればまた病室に逆戻りという悪循環の繰り返しなのである。

 然しながらこの自分が置かれた現実に希望を失っている訳ではない。空気を吸い、口が聞け、両手両足が動き自分の意思で歩く事が出来る何でもない当たり前な事が如何に幸せかをこの瞬間にも感じ取っている。

 もちろん脳梗塞の再発或いは脳内出血など様々なリスクを抱えてはいるが、右半身麻痺と言う過酷な運命を乗り越えて奇跡的に生き延びて来たのだからここれを新しく与えられた命として受け入れ「死」ではなく「生」をスタンスとして残された時間を全うして見せると自分に言い聞かせた訳である。


プールサイドの人魚姫-ガラスの靴
 


風が運んだ一つの言葉に

いつしかわたしは

夢中になった

魔法に掛かったシンデレラ

ガラスの靴は危うくて

わたしはそこに立ち尽くす





プールサイドの人魚姫-静養中

 脳梗塞のリハビリ中、心不全を起こし2月5日に救急搬送されそのまま三井記念病院に緊急入院しましたが、順調に回復し24日(日)に退院し現在自宅にて静養中です。

 通常の生活に戻るにはまだまだ時間が必要なためブログの再開までいま暫くお時間を頂きたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。


 



管理人:神戸俊樹


プールサイドの人魚姫-打撲

当ブログへご訪問の皆さまへ。

 10日間の入院治療を経て、16日無事に退院する事が出来ました。これも一重に皆様の温かいご声援あっての賜物と心より感謝致しております。

 現在は自宅にて静養とリハビリを続けておりますが、脳梗塞による後遺症も殆どなく、リハビリと言っても入院生活で体力、筋力、そして気力も奪われてしまった為、枯渇したエネルギーの充電期間としてのリハビリ生活であります。

 倒れた際に打撲した右腕はいまだ腫れが引かず、痛みも伴い入院以前の右腕に戻るまでまだ時間が必要かと思われます。

 脳梗塞による入院までの経緯は、Poem Spice-人魚姫の恋-管理人のMamuさんが詳しく説明してくれましたので、何れ時を見てわたし自身の言葉として改めて記事にさせて頂こうと思っております。

 通常の記事までにはもう少し時間が必要かと思いますので「かんべワールド」再開までいま暫くお待ち下さいませ。


管理人:神戸 俊樹


プールサイドの人魚姫-赤信号

 新年のご挨拶が一歩出遅れてしまいましたが、皆様、改めて新年明けましておめでとうございます。皆様にとっての2012年はどんな一年だったでしょうか?

 昨年末に行われた衆議院選挙では、民意を裏切り続けた民主党が大きく後退し、それに取って代わった自民党の大躍進、そして安倍政権の誕生となりその支持率は61%だとか。然し肝心の投票率は依然として低く国民の半分は政治に諦念すら抱いている状況。

 被災地、福島の復興は亀の歩みの如くに鈍足であり、将来への不安を抱えたまま年を越した人々も多くいたのではないだろうか。

 さて、わたし自身にとっては出来すぎと言っても過言ではないほどの良い一年であり、その中でもやはり一年を通して入院する事もなく、無事に乗り切れた事が新たな年に向けて大きな励みと自信にも繋がって行くと思っています。

 然しながら何事も終わって見なければ分からないと言うように、思わぬ所に大きな落とし穴が待ち受けているもの。

 年の瀬が押し迫った29日、新潟から冬休みを利用して上京して来る息子を池袋まで迎えに行く準備を整えている矢先に届いたメールは「中止」の二文字…。なんとドタキャンであった。

 明確な中止の理由も解らぬまま、自分の立てていた年末年始の予定が白紙になってしまい、急遽、故郷の静岡へ帰省する為の準備へと予定を大きく変更し友人や静岡の息子に連絡を入れ、会う算段を整え新幹線の時刻を確認していたところ、午後9時を回った辺りから妙に息切れを感じた為、体重を測って見るとなんと2~3キロ増え更に足が浮腫んでおり、指で押すとかなり凹みが出来てそれが戻って来てくれない。

 心不全である。重い心臓疾患を患っているわたしにとって、この心不全は避けて通れない最大の障壁であるが、年に幾度となく入退院を繰り返して来たこともありさほど狼狽える事でもないのだが、帰省目前でのこの症状には流石に落胆の色を隠せなかった。

 心不全である事を友人と息子に伝え、30日の朝になっても症状が消えていなかったら帰省は取りやめる事とした。

 一縷の望みを託しつつ、30日の朝を迎える。東京は夜半から降り始めた雨で、凍りつく程の外気が狭い部屋にまで流れ込んでいた。

 昨夜は酷い息切れと動悸で殆ど眠れず、仰向けもしくは横になって寝る姿勢は心臓に圧迫感を与え呼吸困難になる為、心不全の時に限り「起座呼吸」の状態でベッドに入ったので、尚更眠る事が出来なかった。

 足の浮腫を確認するまでもなく状態が良くなっていない事は浅い呼吸で直ぐに解った。皆が口を揃えて病院へ直ぐ行くようにと促してくれる。それは自分が一番よく解っているのだが、入院だけはどうしても避けたかった。

 結局、年末年始を一人で(愛猫タラと)過ごす事になったが、それ自体25年振り位だろうか。30代の頃、蒲田に住んでいた時に年越し蕎麦ならぬ年越しカレーを作って一人で食べた時の事を思い出していた。

 入院すれば絶食となる為、それに習って30日と大晦日は食事を絶った。緊急用にと主治医から言われていた通り、頓服用のラシックス(利尿剤)の効果もあり、足の浮腫は殆ど消えていた。

 元日の朝、電話のコール音で目が覚めた。おめでたい元旦に電話を寄越すのは誰だ?と思いきや、なんと一年振りに聞く千葉に住んでいる友人Tさんの声だった。

 わたしからの年賀状が届いたから早速電話を掛けて来たのだろうと察しは付いたが、受話器の向こうの声は何処か沈んでいた。「ひさしぶりだねぇ、年賀状届いたんでしょ?」「うん、届いたよ、だけど喪中なんだ…」「えっ?…喪中の葉書届かなっかったけど、誰が亡くなったの?」「誰だと思う?…」

 余りにも唐突な思いもよらぬ会話のやり取りで、わたしは言葉を失い掛けていた。「弟が死んだんだよ…」「ええ?あのS君が?…」「そうなんだよ、脳溢血でね…」。信じられなかった。Tさん兄弟は、わたしが上京した25歳の頃に知り合い東京で初めて出来た友人であった。

 金も殆ど無く夕食にさえ事欠いていたわたしにTさんは一食100円で食事を提供してくれたが、タダでもよかったのではとあの頃の事を懐かしく笑いながら振り返った。

 S君は20年ほど前に結婚し娘を一人もうけている。だから幸せな家庭を築いているものとばかり思っていたが、数年前に離婚し自宅マンションで独り暮らしを続けていたようだ。

 血圧が高いにも関わらず健康に対し自信過剰になっていた事もあり、それが祟って結果的に病魔の発見を遅らせる事となり孤独死に至ってしまった。

 このS君の話を聞いた時、ひとごとではないと自分の置かれている状況を痛切に感じてしまった。健康と愛情は失ってみてその有り難さに初めて気付かされるものである。

 正月早々暗い話題になってしまい申し訳なく思うが、2日は親友Aの命日でもあり、わたし的にはAが突然死してからというもの、笑顔で正月を迎えた試しがない。

 親友だったAやNの墓参りはおろか、母親の骨が何処の寺にあるかさえいまだに知らないわたしが、こうやって生ながらえているのにもきっと理由があるに違いない。

 命はみな何らかの使命を持ってこの世に誕生する訳であるから、その使命を全うするまでは目が潰れようと足が腐ってしまおうと生き続けてみせると誓った元日の朝であった。

 今年で8年目を迎える当ブログではありますが、これまで多くの方々の善意によって支えられここまでやってこれた事をこの場を借りてお礼申し上げます。

 皆さまにとって2013年が素晴らしい年でありますよう、心からお祈り申し上げるとともに、今後もプールサイドの人魚姫をどうぞよろしくお願い致します。

 

管理人:神戸俊樹


プールサイドの人魚姫-松井

 師走の冷たい風が肌を突き刺し吹き抜けて行く。今年も余すところ数日となり、来年に向けて希望のカウントダウンが始まろうとしている。

 そんな時、海の遥彼方から届いた一報は、冬将軍の到来を思わせるような「松井秀樹引退」、それは一つの時代が終を告げる鐘でもあった。

 米国時間12月27日(日本時間28日)、国内では街の至る所で仕事納のサラリーマンやOLたちの忘年会などで賑わっていた。

 クリスマスの余韻を漂わせつつ、街は人々をネオンの妖美に誘い込んで行く。38歳と言う年齢はわたしたち一般人からすれば全く若い部類に入るかも知れないが、スポーツの世界においてはやはり歳を取り過ぎたと言う事なのだろうか。

 20年と言う野球人生に自らピリオドを打った松井秀樹の表情には、僅かながらの未練を残しつつも次のステップへ踏み出す希望の光も見え隠れしていたように思う。

 ニューヨークのミッドタウンで行われた記者会見で、松井は言葉を一言一句噛み締めるように紡いで行った。

 彼が公式の場に姿を見せるのは久しぶりの事でもあり、戸惑いと緊張感も連れ立ってその発する声は、か細く弱々しいものに思えたが、時間の経過とともにいつもの松井らしさが戻り穏やかな表情に変わって行った。

 彼自身が言う通り、ゴジラ復活のチャンスはあったかも知れないが、結果的にシーズンが終わって見れば納得の行く内容ではなかった。

 ファンの立場から見ればまだまだ松井の活躍を見たいのは当然かも知れないし、野球はメジャーだけでなく日本のプロ野球もあるのだから帰国して日本のチームでプレイを続けて欲しいと思ったりもするが、おそらく彼にとってメジャーが野球の最終地点だったのかも知れない。

 そしてまたスポーツの世界は結果が全てを物語るし、そう何度もリプレイが通用するほど甘い場所ではない事を松井自身がその身体で十分理解していたのだろう。

 今ここで松井秀樹の歴史を振り返れば、それは「怪物ゴジラ誕生」であり、そしてまさしく豪快なホームラン王として長きに渡りプロ野球界に君臨するのである。

 わたし自身が最も記憶として残っているシーンは彼がまだ高校生だった頃のこと。1992年、夏の甲子園大会「星陵高校VS明徳義塾」の試合であるが星陵は敗退したものの「5打席連続敬遠」では、当時の高野連が急遽記者会見などを開き社会問題にまで発展している。

 対戦相手の監督の口から「高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」と言わしめるその実力はプロ野球選手も驚愕するほどであり、常に彼の周りには多くのマスコミ陣が群がっていた。

 デビューが華々しいほどそれとは対照的に引退宣言は引き波の如く時代を加速させるものであるが、輝かしい栄光と希望をその背中に刻み込み、バットに別れを告げる松井秀樹に「ホームランに花束を」と感謝の気持ちを込めて見送りたいと思う。

 

サンタ

 

 

 クリスマスソングは非常に多く教会などでは「もろびとこぞりて」「きよしこの夜」などが 代表的。場所を変えて街やTVで聞こえてくる曲はクリスマスイブ(山下達郎)クリスマスキャロルの頃には(稲垣潤一)恋人はサンタクロース(松任谷由実)いつかのメリークリスマス(B'z)ハッピークリスマス(Jレノン)安奈(甲斐バンド)等。

 人それぞれ思い出の曲があり、イブの晩に失恋してしまったりと ほろ苦い経験を持っている人もいるだろう。

わたしのお気に入りは佐野元春の「クリスマス・タイム・イン・ブルー聖なる夜に口笛吹いて」。特に思い出がある訳ではないが、クリスマスをメッセージソングとして扱っている所が気に入っている。

 サンタクロースに願い事をし、プレゼントを心待ちにしていた幼い記憶を皆が持っていた。無垢な心からやがて月日が経ちその正体を知り、そして今度は自分が親になりサンタを演じている。

 サンタクロースの真実を知るのは平均で7歳だとアメーバのコメントにあったが、わたしは今でもその存在を信じている。

人類がこの地上に生まれ進化し栄光と繁栄を繰り返して来たが、その影には醜い権力の争いが常に付きまとって来た。

 それでもサンタクロースは年に一度訪れるのである。サンタは神の化身、諍いの絶えない人間に心を痛めた神はサンタクロースに姿を変えて子どもや大人に一つのプレゼントを置いて行く。

 それは愛である。愛情の篭ったプレゼントほど嬉しいものはない。愛とは受け取るものではなく、与えるものだと教えてくれている。

 頂いた愛は人から人へと受け継がれていくもの。貴方は生まれながらにしてこの世に生を受けた時、既に母胎の中で愛を感じとっているのだ。

 

 

 


プールサイドの人魚姫-選択

 年間およそ7万冊もの書籍刊行ラッシュの現代、それに対して日本の書店数は今年に入り2万5千軒程度にまで落ち込んでいる。

 デジタル書籍の到来、携帯やインターネットの普及も手伝って、本が売れない時代になり、小さな書店は生き残れず店を畳んで行く、これが現状である。

 書店の立場から見れば当然限られたスペースに売れる本をどう設置しようか毎日迷っているのである。著名な作家の本でも出足が悪ければ一週間で返本となり、小説も今や5万部でベストセラーだと言われている。

 然し、実際はそこまで売上を伸ばすのもかなりの時間が必要となる場合も多い。初版の場合の刷数は5千部程度であり、増刷を重ねて漸く2万部まで伸ばしたとしても(1500×10%×2万部=300万)。その印税だけでは中々楽な暮らしは無理であるから、次の作品を執筆しながらアルバイトの日々を送ったりしている作家も多い。

 作品を書くのに時間はかかるし、大きな賞をとったからと言って必ず売れるとは限らない。書店で平積みされている本の大半は、テレビドラマ化や映画化の帯が目立つ。芥川、直木賞などの大きな賞は内容だけでは決まらない場合もあり、そこにはブランドと言う俗っぽいものが付き纏う。

 つまり大手出版社から刊行されいる事が条件の一つにもなるからであり、 講談社、新潮社、集英社、文藝春秋などこの辺から出版されていないと賞を取るのは難しいかもしれない。

 賞は兎も角としても、やはり出版したからには書店に陳列されてこその本である。そこでわたしたちのような新人がどうやって書店に到達するか、それは出版社に委ねられてしまうので最も慎重に選択しなくてはならない。

 わたしが出版社を文芸社に決めた理由の一つが、作家「故・小川国夫」(郷里がわたしと同じ藤枝市で家が隣同士だった)を知っているかだった。

 文芸社以外(碧天舎・新風舎・新生出版など)は知らないと言う。これには些か落胆した。あの賞嫌いで有名だった作家が「川端康成賞」「伊藤整賞」などを取っており、図書館に行けば百科事典のように分厚い「小川国夫全集」がずらりと並んでいる。

 出版社の人間は本に詳しい集団である筈だし、本が好きでなければ務まらないと思う。儲かる以前の問題である。


プールサイドの人魚姫-ミサイル

 核とミサイル依存症の国「北朝鮮」から、不意打ちの長距離弾道ミサイルが一発フィリピンの方角に向けて発射された。

 今回のミサイルも前回4月の時と同様に、人工衛星と言う肩書きを付けての打ち上げだった。前回の失敗を是が非でも取り返すべく、当局は持てる技術の全てをミサイル一発(約700億円)に賭けていた事は周知の通りである。

 金正日総書記の「先軍政治」を継承すべく金正恩政権は、父親の「遺訓」である「核・ミサイルの開発」を国の最も重要課題として継続の意思を明示し、金総書記没後1年を節目として国内外に武力と権力を誇示する為の"祝砲"と相成った訳である。

 打ち上げまでの過程を省みると、其処には北朝鮮ならではの狡猾なシナリオが設定されていた訳だが、発射予告通りに進めたのでは自前の挑発行為そのもののインパクト性に欠けると思ったのか、打ち上げ延期と言う形で諸外国の警戒感を緩慢へと導く目論見があったようである。

 日本国内では衆議院選挙戦の真っ最中でもあり、その延期によって当面は選挙一筋に打ち込めるとたかをくくっており、街中に騒音を撒き散らす街宣車もどきの選挙カーが縦横無尽に「○○に一票を」と選挙の時期だけ必死になる候補者たちの姿が至る所で見受けられた。

 この悪意に充ちた北のシナリオに最も打撃を受けたのは休戦中の韓国である。情報が錯綜し混乱を招き政府の情報分析力に国民の批判が集中した。

 韓国にとって北のミサイル発射成功は最も屈辱的なものであったろう事は察しが付く。何故ならば韓国は国産のロケットでの衛星打ち上げに成功していないからであり、長距離ミサイルの技術では北朝鮮に一歩リードされている形となってしまったからでもある。

 何れにせよ、韓国、日本、アメリカなどの国々はミサイル発射を指を加えて見る格好となり、この打ち上げ成功が、今後の北朝鮮の傍若無人を更に加速させる可能性を秘めている事は確かなようである。

 国連安保理は直ちに非難の意思表示を明確に打ち出しているが、各国の反応について北はそれすらもシナリオ通りの結果と受け止めており、北朝鮮への制裁圧力が高まったとしても、安保理そのものが弱体化している現状を見れば焼け石に水と言ったところだろう。

 まさにやりたい放題の北朝鮮に対し、打つ手なしが現状である。過去の例も見ても分かる通り、何ら怯む事なく次の一手を用意周到に準備している北にとっては、してやったりの大成功だったのかも知れない。

 但し、この北朝鮮の野望とも言える「核とミサイル」の融合は国力の乏しい現実の前にそう長くは続かないものとわたしは認識しているし、北朝鮮恐るるに足らずと言うのがわたしの率直な私見でもある。


プールサイドの人魚姫-中村


 12月5日、体調を崩しベッドに臥せっていた。昼時、テレビの電源を入れると飛び込んで来た「中村勘三郎さん死去」のニュース。

 まさかとは思ったが、それは紛れもない事実であった。中村さんは確か12時間にも及ぶ食道がんの手術も成功し、回復の途上にあった筈である。

 そのような大手術にも耐え抜く体力と気力を持ち合わせながら何故、亡くなってしまったのかとその死因について疑問が残るばかりであったが、ニュースの詳細に耳を傾けている内に、直接の死因が癌ではないことが分かったが、それはあまり聞き慣れない病名だった。

 急性呼吸窮迫症候群(ARDS)を簡潔に言ってしまえば「肺炎」が悪化した状態であるが、肺炎が原因で死亡する患者の殆どは体力、抵抗力の弱ったかなりの高齢者の場合が多い。

 順調に回復し院内を歩くまでになり、退院する日も時間の問題と思われていた筈なのに、そんな中村さんの身に一体何が起きたのであろうか。

 病魔は影を潜めつつ足音さえ立てずに忍び寄て来る。まるで弱い者いじめの様にその対象を見つけると瞬く間にとり憑いて来ては、死の淵へと追いやって行く。

 闘病は生きる為の病との闘いであるが、時としてそれは生きる為ではなく死ぬ為に生かされる場合もある。

 わたしの親友も数年前に食道がんで他界したが、彼は余命3ヶ月を約半年延ばして逝った。彼との最後の言葉は「近い内にまた会おう」だった。

 彼との約束を果たせぬまま、わたしはいまだに彼の携帯の番号を残したままである。40年以上に渡り心臓病と闘っているわたしであるが、余りにもそれが長すぎると闘病そのものが生活の一部に溶け込んでしまい自分が病人だと気付かない時さえある。それが幸か不幸かは別として。

 歌舞伎の世界に新風を吹き込み常に歌舞伎の立役者だった中村勘三郎さんは、幅広い芸風で歌舞伎の世界だけに留まらずあらゆるメディアを通してそのエネルギッシュな姿を思う存分に発揮し、わたしたちを大いに楽しませ感動を与え続けてくれた。

 日本だけでなく中村さんの歌舞伎は世界にまで羽根を伸ばし、アメリカ、ドイツ、ルーマニアなどで公演し大成功を収めている。

 歴史の長い歌舞伎の伝統を継承しつつ、常に斬新なスタイルで見る者たちを魅了して行くその姿は、歌舞伎界の開拓者とも言えるのである。

 最後の舞台は2012年7月まつもと市民芸術館で行われた「天日坊」の千秋楽に源頼朝役で出演したのが最後であった。

 わたしは取り立てて歌舞伎に詳しい訳ではないが、静と動の織り成すその融合的美学の真髄がこの歌舞伎に在ると思っている。日本の歴史的美学の代表である歌舞伎は、鎌倉・室町時代に大成した狂言や能と同じように江戸時代に花開いた演劇である。

 「歌」は音楽、「舞」は舞踊、そして「技」は演技・演出となっており、まさしくこの三大要素の集大成が歌舞伎であり、総合芸術として完結されている。

 日本では最も古い歌舞伎の歴史を受け継いでいるのが中村座であり、亡くなった中村勘三郎さんは18代目勘三郎でもあった。

 中村さんがARDSに陥った時、病院を2回も転院するなど、医療スタッフも何とかこの国宝級の患者の命を繋ぎ止めようと必死であっただろうことは想像が付く。

 然し、死の魔手はそう容易く中村さんの身体から離れて行ってはくれなかった。それにしてもまだ57歳と言う年齢は余りにも早すぎる。これからまだまだ活躍する場は幾らでもあっただろうし、わたしたちもまたそれを望んでいた筈である。

 つい最近、森光子さんの訃報について記事を書いたばかりだと言うのに、こうして再び悲しい知らせを耳にすると、凍える冬の彼方から中村さんの慟哭が聞こえて来るような気がしてならない。最も無念だったのは中村勘三郎本人だったに違いない。

 謹んで中村勘三郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。