あなたと眺めた神田川
春のそよ風に触れて
今日も静かに流れてる
あなたと出逢った神田川
二人の想い出作りも
ここからだったわね
橋のたもとに腰掛けて
手と手を重ね見つめ合う
ファーストキスもここだった
キラキラ光る神田川
あなたキラキラ星の川
空の果てから見つめてる
わたし独り見つめる神田川
優しいあなたの神田川
さよならわたしの神田川

あなたに触れる事さえ
出来ないわたしを
どうか許してくれるなら
せめて
夢の中で抱きしめて
わたしの全てはあなたのもの
身も心も捧げたつもりでも
あなたの距離が
わたしを遠ざける
だから せめて
夢の中では抱きしめて
時の流れは予想以上に早いもので、誰にもそれを止める事は出来ない。せめてもう少し遅くなってくれればと思ったりもする今日この頃。
詩集・天国の地図が出版されてからこの3月で8年になった。刊行日が3月15日であり、詩集の誕生日という訳で8歳になったと言うことになり、誕生日を祝って喜んでいいのかどうか…筆者としては迷うところではある。
つまり、人間に寿命があるようにやはり書籍にも寿命がある。それを「絶版」という訳だ。本来ならば、とうの昔に絶版になっても不思議ではなかったが、お陰様で出版当初の飛ぶ鳥を落とす勢いは毛頭影を潜めてはいるものの、年間を通して僅かながらに流れがあり、倉庫から流通に乗り読者の手元に届く動きが途切れなかったことで出版契約が自動更新されていた訳である。
絶版はどのようにして決められるかと言うと、書籍の刊行日が古い順に処分されて行く。但し、出版一年で絶版になる場合も時にはある。一年を通して全く動きが見られなかった場合がそれに当たる。
過去にも話した通り、書籍の年間出版数は約7万冊に上り出版ラッシュで書店に置かれない本がその内の70%を占めていると言われている。出版社或いは出版社と契約している物流倉庫には在庫の数で溢れんばかりになっているのが現状である。
わたし自身、一時そのような書籍ばかりを扱う倉庫でバイトをした事があり、毎日4トントラックに零れ落ちんばかりの書籍の塊が運び込まれて来るのを嫌というほど見て来たが、如何に資源を無駄にしているか思い知らされるばかりであった。
今年3月に絶版を迎える書籍は2005年に出版された本が対象である。故にもちろん「天国の地図」もそれに当たる。文芸社からわたしに連絡があったのは昨年の10月末だった。
経済産業省が立ち上げた(コンテンツ緊急電子化事業「緊デジ」)は国の補助により約6万タイトルを電子書籍化しその売上を東北の被災地へ回すというものであり、文芸社もこのプロジェクトに参加し、同社の書籍から800冊を厳選し電子書籍化する筈であったのだが、諸事情により文芸社はこのプロジェクトから撤退せざるを得なくなり、その説明とお詫びの内容であった。
同社の出版物が何万冊あるかは知らないが、800冊の中の1冊として「天国の地図」にお呼びが掛かった事は誠に喜ばしい話であったが、結果的にその望みは叶わなかった訳で、更に追い打ちを掛けたのは絶版の話であった。
詩集は現在でも売れ続けてはいるものの、やはり出版社の現状としてこれ以上倉庫に置いておく訳にはいかなくなったようで、売れているのに何故?と疑問を抱いたが出版界の裏側にもそれなりの事情があるようだ。
そして更に話は進み、文芸社のプロジェクト撤退で著者様に多大の迷惑掛けてしまった事のお詫びとして紀伊國屋書店での常備陳列・配本の話になり更に契約更新も継続される事となり、「瓢箪から駒」ではないが意外な展開になり、わたしとしては「願ったり叶ったり」の結果となった。
「絶版」と「再陳列」では天と地ほどの差がある訳で、まるで強運のわたしの魂が詩集にまで乗り移ったかのようにも思えた次第である。
陳列と言っても出版当初の平積みではなく、最も一般的な「棚刺し」ではないかと思われるが、その辺は書店のオーナーが決める事なのでどう置かれるのか分からないのが正直な所である。
陳列される書店は次の通り。千葉県「紀伊國屋書店・流山おおかたの森店」東京都「渋谷区・渋谷店」「新宿区・新宿本店」「世田谷区・玉川高島屋店」「千代田区・大井町ビル店」福井県「福井市・福井店」大阪「堺市・泉北店」岡山県「岡山市・クレド岡山店」福岡県「久留米市・久留米店」熊本県「菊池郡・熊本光の森店」以上となっている。
因みに絶版になった場合その本はどうなるかと言うと、著者の元に送られて来る。まあ、そうなったらバナナの叩き売りではないが、路上で売り捌くと言うのも一つの方法である。
出版当初から購入してくれた読者の中には、「サイン」を約束しながらもいまだにそれが果たせずに心苦しく思っており、出来るだけ早い時期にわたしの体調を見ながらサインさせて頂こうと思っている。
次回作待望論も多く聞かれる中、申し訳なく思いますが、いま少し「天国の地図」を温かく見守り応援して頂けると有難いです。
脳梗塞で倒れたあの夜の事、孤独と絶望感に打ちひしがれ、完全に麻痺した身体からは涙の一滴すら流れ落ちなかったが、心は無念の涙で溢れ返っていた。
ベッドから落ちた時に自分の右半身がどのような状態だったか全く想像すら出来ずにいた。紫色に腫れ上がった右腕が骨折しなかったのは奇跡とも言えるかも知れない。
辛うじて自由に動いた左手だけを頼りにベッド上に戻ろうと、必死にもがいていた。声を上げる事も出来ず、半開きの口からたらーりとだらしなく唾液だけが床に糸を引いて流れ落ちた。まるでそれは助けを呼べない苦悶と悲痛の涙だったのかも知れない。
次の朝を迎える事が出来るのか、そんな事すら考えも及ばなかったが、身動きが取れない身体の奥底で「このまま死ぬ訳にはいかない」とくちびるを噛み締めていた。
そして奇跡的な復活を遂げたあの日から丁度一ヶ月が経った2月5日の事だった。心不全の症状は数日前から現れていた。
短期間で急激に体重が4キロ増え、僅か数十段の駅の階段を昇る事が苦痛でならなかった。階段を昇りきったその場所で、もう一歩も動けずに呼吸が今にも止まってしまうのではと思えるほど苦しかった。
手足はおろか身体全体がダルマのように浮腫み、それは肺にまで及んでいたから起座呼吸をしても一向に楽にはならず食事も受付なくなっていた。
もっと早く病院へ行くべきであったが、父親ゆずりの下らないプライドが邪魔をし、限界ギリギリになって友人に諭されながら三井記念病院に電話を入れたのが夜の8時頃だった。タクシーで行くと救急外来の看護師に伝え、車の手配をしている矢先に病院から折り返し電話が入った。
看護師からきっぱりと「救急車を呼んで下さい」と告げられる。わたしは過去に心不全で何度も緊急入院しているが、救急車を呼んだ事はなかった。おそらく脳梗塞の事もあり病院がその辺りも配慮に入れての判断だったのだろう。
退院後一ヶ月もしない内に病院へ逆戻りとなってしまった訳で、何ともやりきれない思いで胸が一杯であった。
救急外来では3人の若い男性医師たちが電子カルテを見つつ何やら呟いていた。「ラニラピッドを止めてメインテートに切り替えた…ふむふむ」「ラシックス40ミリを20に減らしたんだね…」「この辺が心不全の要因かな…」。
確かに薬が変わった事も心不全を招いた要因の一つではあるが、それだけではない。脳梗塞以前と後では身体に大きな変化があったのは事実であり、そしてまた自分の自己管理の拙さも手伝って複合的に心不全を発症したのである。
不安定なバイタルサインが出ている事から、いつも通りに左腕からラインを取りラシックスとワソランの点滴が始まった。安静時でも120を軽く超える頻脈と、そしてサチュレーションが95を下回っていた事もあり直ぐさま3リットルの酸素吸入が始まる。
高濃度の新鮮な酸素を貰って身体が喜んだのかその酸素がとても美味しく感じ、生きる事の意味が殊更身に染みた瞬間でもあった。
更にこれは自分でも予想外であったが、バルーンを尿道に挿入。そして紙オムツまで履く事になってしまったが、今回の心不全がかなりの重症である事を物語っていた。
絶対安静、ベッドから一歩たりとも降りる事が出来ないのである。外来で応急処置を済ませると運ばれた所は6階にあるCICU(冠疾患集中治療センター)であった。その場所は重症患者を受け入れる施設である。
物々しい医療機器と慌ただしく動き回る看護師たち。そして耳に響いて来る独特の機械音が生きている証の様に聞こえて来た。
「○○さーん、聞こえますかー?」「此処が何処だかわかりますかー」若い看護師たちの張りのある声がとても健康的に思えたが、呼び掛けられた患者からの反応は全く聞こえて来なかった。そしてまた入院慣れしたこの身体が病室のベッドに直ぐ馴染んでしまう事も哀しかった。
次の朝の午前中にある程度症状が安定した事から、そこを出て同じ階にある「循環器専門病棟」に移されたが依然として酸素も点滴もそのままで移動時は車椅子であった。
一週間ほどその専門病棟で加療し、2月14日に12階の一般病棟に移ったのだが、なんと脳梗塞で入院していた時と同じ病室であり、つい最近までお世話になった医療スタッフたちがそのまま居たこともあり気恥ずかしさを隠す為「戻って来ちゃいまいしたー」と照れ笑いを浮かべて挨拶をした。
身体の浮腫は眼に見えるほどの早さで消えて行ったが、肺に溜まった水がいつまでも抜けずに残り、そして原因不明の微熱も続いていた事から入院は更に長引いたが、2月24日に退院の許可が降りた。「退院おめでとう」この言葉をわたしは過去に何度も聞いて来たが、本音を正直に言ってしまえばわたしは退院を心底嬉しいと思った事がない。
病気が治って退院するのなら手放しで喜ぶ事が出来るのだが、このわたしが抱えている病気は治る事がなく悪化の一途を辿るばかりなのである。
完全看護のバリアで守られた特別室から厳しい現実が待ち受ける世界に放り出される訳で、自己管理を僅かでも怠ればまた病室に逆戻りという悪循環の繰り返しなのである。
然しながらこの自分が置かれた現実に希望を失っている訳ではない。空気を吸い、口が聞け、両手両足が動き自分の意思で歩く事が出来る何でもない当たり前な事が如何に幸せかをこの瞬間にも感じ取っている。
もちろん脳梗塞の再発或いは脳内出血など様々なリスクを抱えてはいるが、右半身麻痺と言う過酷な運命を乗り越えて奇跡的に生き延びて来たのだからここれを新しく与えられた命として受け入れ「死」ではなく「生」をスタンスとして残された時間を全うして見せると自分に言い聞かせた訳である。
当ブログへご訪問の皆さまへ。
10日間の入院治療を経て、16日無事に退院する事が出来ました。これも一重に皆様の温かいご声援あっての賜物と心より感謝致しております。
現在は自宅にて静養とリハビリを続けておりますが、脳梗塞による後遺症も殆どなく、リハビリと言っても入院生活で体力、筋力、そして気力も奪われてしまった為、枯渇したエネルギーの充電期間としてのリハビリ生活であります。
倒れた際に打撲した右腕はいまだ腫れが引かず、痛みも伴い入院以前の右腕に戻るまでまだ時間が必要かと思われます。
脳梗塞による入院までの経緯は、Poem Spice-人魚姫の恋-管理人のMamuさんが詳しく説明してくれましたので、何れ時を見てわたし自身の言葉として改めて記事にさせて頂こうと思っております。
通常の記事までにはもう少し時間が必要かと思いますので「かんべワールド」再開までいま暫くお待ち下さいませ。
管理人:神戸 俊樹
新年のご挨拶が一歩出遅れてしまいましたが、皆様、改めて新年明けましておめでとうございます。皆様にとっての2012年はどんな一年だったでしょうか?
昨年末に行われた衆議院選挙では、民意を裏切り続けた民主党が大きく後退し、それに取って代わった自民党の大躍進、そして安倍政権の誕生となりその支持率は61%だとか。然し肝心の投票率は依然として低く国民の半分は政治に諦念すら抱いている状況。
被災地、福島の復興は亀の歩みの如くに鈍足であり、将来への不安を抱えたまま年を越した人々も多くいたのではないだろうか。
さて、わたし自身にとっては出来すぎと言っても過言ではないほどの良い一年であり、その中でもやはり一年を通して入院する事もなく、無事に乗り切れた事が新たな年に向けて大きな励みと自信にも繋がって行くと思っています。
然しながら何事も終わって見なければ分からないと言うように、思わぬ所に大きな落とし穴が待ち受けているもの。
年の瀬が押し迫った29日、新潟から冬休みを利用して上京して来る息子を池袋まで迎えに行く準備を整えている矢先に届いたメールは「中止」の二文字…。なんとドタキャンであった。
明確な中止の理由も解らぬまま、自分の立てていた年末年始の予定が白紙になってしまい、急遽、故郷の静岡へ帰省する為の準備へと予定を大きく変更し友人や静岡の息子に連絡を入れ、会う算段を整え新幹線の時刻を確認していたところ、午後9時を回った辺りから妙に息切れを感じた為、体重を測って見るとなんと2~3キロ増え更に足が浮腫んでおり、指で押すとかなり凹みが出来てそれが戻って来てくれない。
心不全である。重い心臓疾患を患っているわたしにとって、この心不全は避けて通れない最大の障壁であるが、年に幾度となく入退院を繰り返して来たこともありさほど狼狽える事でもないのだが、帰省目前でのこの症状には流石に落胆の色を隠せなかった。
心不全である事を友人と息子に伝え、30日の朝になっても症状が消えていなかったら帰省は取りやめる事とした。
一縷の望みを託しつつ、30日の朝を迎える。東京は夜半から降り始めた雨で、凍りつく程の外気が狭い部屋にまで流れ込んでいた。
昨夜は酷い息切れと動悸で殆ど眠れず、仰向けもしくは横になって寝る姿勢は心臓に圧迫感を与え呼吸困難になる為、心不全の時に限り「起座呼吸」の状態でベッドに入ったので、尚更眠る事が出来なかった。
足の浮腫を確認するまでもなく状態が良くなっていない事は浅い呼吸で直ぐに解った。皆が口を揃えて病院へ直ぐ行くようにと促してくれる。それは自分が一番よく解っているのだが、入院だけはどうしても避けたかった。
結局、年末年始を一人で(愛猫タラと)過ごす事になったが、それ自体25年振り位だろうか。30代の頃、蒲田に住んでいた時に年越し蕎麦ならぬ年越しカレーを作って一人で食べた時の事を思い出していた。
入院すれば絶食となる為、それに習って30日と大晦日は食事を絶った。緊急用にと主治医から言われていた通り、頓服用のラシックス(利尿剤)の効果もあり、足の浮腫は殆ど消えていた。
元日の朝、電話のコール音で目が覚めた。おめでたい元旦に電話を寄越すのは誰だ?と思いきや、なんと一年振りに聞く千葉に住んでいる友人Tさんの声だった。
わたしからの年賀状が届いたから早速電話を掛けて来たのだろうと察しは付いたが、受話器の向こうの声は何処か沈んでいた。「ひさしぶりだねぇ、年賀状届いたんでしょ?」「うん、届いたよ、だけど喪中なんだ…」「えっ?…喪中の葉書届かなっかったけど、誰が亡くなったの?」「誰だと思う?…」
余りにも唐突な思いもよらぬ会話のやり取りで、わたしは言葉を失い掛けていた。「弟が死んだんだよ…」「ええ?あのS君が?…」「そうなんだよ、脳溢血でね…」。信じられなかった。Tさん兄弟は、わたしが上京した25歳の頃に知り合い東京で初めて出来た友人であった。
金も殆ど無く夕食にさえ事欠いていたわたしにTさんは一食100円で食事を提供してくれたが、タダでもよかったのではとあの頃の事を懐かしく笑いながら振り返った。
S君は20年ほど前に結婚し娘を一人もうけている。だから幸せな家庭を築いているものとばかり思っていたが、数年前に離婚し自宅マンションで独り暮らしを続けていたようだ。
血圧が高いにも関わらず健康に対し自信過剰になっていた事もあり、それが祟って結果的に病魔の発見を遅らせる事となり孤独死に至ってしまった。
このS君の話を聞いた時、ひとごとではないと自分の置かれている状況を痛切に感じてしまった。健康と愛情は失ってみてその有り難さに初めて気付かされるものである。
正月早々暗い話題になってしまい申し訳なく思うが、2日は親友Aの命日でもあり、わたし的にはAが突然死してからというもの、笑顔で正月を迎えた試しがない。
親友だったAやNの墓参りはおろか、母親の骨が何処の寺にあるかさえいまだに知らないわたしが、こうやって生ながらえているのにもきっと理由があるに違いない。
命はみな何らかの使命を持ってこの世に誕生する訳であるから、その使命を全うするまでは目が潰れようと足が腐ってしまおうと生き続けてみせると誓った元日の朝であった。
今年で8年目を迎える当ブログではありますが、これまで多くの方々の善意によって支えられここまでやってこれた事をこの場を借りてお礼申し上げます。
皆さまにとって2013年が素晴らしい年でありますよう、心からお祈り申し上げるとともに、今後もプールサイドの人魚姫をどうぞよろしくお願い致します。
管理人:神戸俊樹