手を伸ばせば
すぐそばにいる
けれども
一度だって
触れることの出来ない
あなたは恋の影
追いかければ
追いかけるほど
わたしから
逃げて行く
決して
重なり合うことのない
わたしたち
わたしは今でも月に一度のペースで精神科(うつ病)に通院している。それをもう6年以上続けているが、それまでに3回も病院を変えた。
1度目は運悪く評判の余り良くない心療内科に当たってしまい酷い目にあってしまった。そして大学病院に変更してみたが、余りにも待ち時間が長く(3時間待ち)、行く度に担当医が変わり同じ事を何度も話さなければならず非常に疲れてしまい結局そこも止めてしまった。
そして漸く3回目にしてやっと良い精神科医に巡り会えたのであるが、この担当医に出会えた事が詩集出版に繋がった一つの要因でもあった。
だからわたしは担当医にも献本をした。本を出版すると必ず献本作業がある。当然出版社がある程度マスコミ関係に献本するが、わたしは今までお世話になった先生や知人にも献本した。その数は約50人に及んだ。
静岡県を代表する藤枝市出身の作家である故・小川国夫氏にももちろん献本したが、この時は事前に電話を入れ、小川国夫氏本人とは話せなかったものの、奥さんがわたしの事をよく覚えており(実家が隣同士)、話が弾んだ。
他では須磨久善医師。当時は世界で5本の指に入ると言われたスーパードクターである。NHKのアーカイブにも出ている有名な心臓外科医。
お礼の葉書が届いた時には感激した。献本用のケースは文芸社が無料で提供してくれた。独立法人国立特殊教育研究所にも所蔵されている。自分が在籍した学校にも献本し、学校の先生たちからは高く評価されていてとても喜ばしい限りである。
写真は通院中の精神科に展示されている著書(天国の地図)。
1989年4月28日、わたしは三井記念病院の手術室にいた。その日の朝の記憶は鮮明に残っている。手術前日の夜、看護婦が眠れないからと睡眠剤を置いていったが、わたしはそれを使わず熟睡した。
余命1年といっても、癌などの宣告とは多少違う。この心臓の状態だと1年もたないと言う意味で、それは否応なしに手術を受けなければ助からないという事だった。
19歳の時に一度手術は受けていたが完治した訳ではなかったので、何れ再手術という、その日が来ることは分かっていた。
当時の三井記念病院はまるで戦場の最前線のようであった。6人部屋にはベッドが8個、とにかく予約待ちの患者が溢れていたのであるが、その頃、当病院には バチスタ手術で有名な「神の手」と呼ばれる心臓外科の名医「須磨久善」先生がおり、その腕を頼って日本全国から患者が殺到していたからだ。
その日手術を受けた患者は、わたしを含め8人で症状の重い患者から手術を受けることになっており、わたしはそのトップだった。
浣腸で腹の中を空っぽにする。そして真っ白な手術着一枚に着替える。軽い麻酔剤を一本打つ。意識ははっきりしており、その注射は無意味だった。
ストレッチャーが迎えに来る。自分の力でベッドから乗り換える。部屋を出て行く時、「頑張れ」と声がかかる。自分もそれに応えるように手を振った。手術室は7階だった。
扉が開くと同時に看護婦の声「かんべさん、手術室に入りますよ」声は出なかったが頷いたと思う。「かんべさん、手術台に移りますよ」遠のく記憶の彼方から優しい女性の声が木霊していた。薄っすらと目を開けると眼鏡を掛けたドクター3人の顔が見えた。
麻酔医が「全身麻酔します」と言ったのが最後だった。手術は9時間に及ぶ大手術だった。時間が全く分からない、朝か昼か夜なのか?とにかく手術が成功したのだ。
成功率は85%、ただし手術中に心筋梗塞を起こし一時危なかったらしい。そして空気が脳に流れた事も分かった。
ICUからCCUに移りはしたが、どうも息が苦しくてよく眠れない。レントゲンを撮ると片方の肺が完全に潰れていた。
次の日、背中に太い注射器を指し、肺に溜まった血を抜いた。牛乳瓶8本分の水分が右の肺に溜まっていたのだった。
一気に呼吸が楽になり手術成功を実感した。あれから23年が過ぎ、今年24年目に入った。これほど生きられるとは思っていなかった。
機械と薬に頼る毎日だが、わたしを支えてくれる多くの人たちに感謝しながら、これからも生きて行きたいと思う。
尖閣諸島や竹島を巡り、領土問題に揺れる日本にその荒波が押し寄せている。中国や韓国など、相手国が強硬姿勢を見せてから漸く事の重大さに気付く日本政府は、今も昔も後手後手の対応。
100年以上も前の文献を埃の被った倉庫から引っ張り出し、それを証拠として日本の領土だと言い張っても、彼らはそんな昔の事など眼中になく、現在が最も重要なのである。
それまで何の策も打たず、放置状態を続けて来たそのつけが今、まさに日本を脅かしているのである。政府の対応に業を煮やした石原東京都知事が尖閣諸島を東京都が購入すると爆弾発言。その方向で島の地権者と話しが進んでいる事に面目丸つぶれの野田総理とその側近たち。
東京都による尖閣諸島上陸申請を早速不許可。同じ祖国の中で領土問題に対して足並みが乱れ、混乱しているようでは、北方領土も含めこれらの問題は前途多難である。
日本のトップでさえ、いまだ足を踏み入れていない「竹島」に韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が自らの足で竹島の土を踏みしめた。
これに対し日本政府は、独島訪問の抗議内容が入った書簡を韓国側に送ったものの、殆どが門前払いという情けない結果に終わった。
竹島が日本の領土であるとされる証拠が「ラスク書簡」。1951年、米国のラスク国務次官補が、竹島の領有権を主張する韓国政府に送ったものであるが、その中身には「朝鮮の一部として取り扱われたことが決してない」とう内容の事が記されているようだ。
韓国側の不法占拠を明確に示す決定的な資料であるが、この文書の存在がどれほどの影響力を持つかは全く未知数である。
相手は物の道理が通じない、それこそ未知との遭遇。戦前・戦後の忌まわしい過去(従軍慰安婦問題等)を両国が引き摺っている限り、韓国と日本の間に「友愛」という絆は生まれる事はない。
それにしても韓国の日本に対する猛反発は人種の大きな違いを見せ付けてはいいるものの、日本人が大人し過ぎるのか、それとも単なるお人好しなのか。原発デモ行進やパレードは兎も角としても、領土問題ではデモを起こす気にすらならないのだろう。
こんな自分さえ良ければの自己中心主義が蔓延るからこそ、国内外から「平和ボケ」と指摘されるのも頷けるのである。これだからあるブロガーに「竹島なんぞくれてやれ」と毒舌を噛まされるのだ。
中国が「釣魚島」と呼び、領有権を主張している尖閣諸島(魚釣島)については、米政府が公式呼称として「センカク」を採用していることが明らかになっているが、あらゆる所に米国の影が存在し、日本が自国のみで解決に至らない弱みを他国に曝け出しているようなもの。
それに付け込む中国や韓国の暴走。それを止められない弱小政府を見ていると、如何に日本の基盤が弱体化している事を見せ付けられる思いだ。
領土問題を個人レベルで捉えてみれば、人間の持つ浅ましい姿がそこに垣間見えて来る事だろう。土地絡みの利権問題、財産分与などや隣人との争いごとに至るまで、強欲な人間の罪深さだ。
相手のテリトリーを一切侵さない野生動物とは大違いで、地球・自然・共生という最も基本的テーマから大きく道を踏み外すのも残念ながら人間の特徴なのであろう。
日本がメダリストたちの凱旋パレードに熱狂している頃、遥か彼方、最果ての地シリアで一人の女性が命を絶った。
美人女性ジャーナリストの山本美香さんである。内戦が続くシリア北部アレッポで取材活動中に銃撃戦に巻き込まれ、ほぼ即死状態だったと言う。
一人の日本人が亡くなったところで、熱狂する50万人が集まった銀座パレードの大歓声で、彼女の悲鳴は掻き消され、誰一人その地に視線を向ける事はない。
くどい様だが、オリンピックが「平和の祭典」ならば、シリアの内戦を食い止めてみろと言いたい。スポーツに酔いしれるだけがオリンピックの役目なのか?そのメダルは平和のシンボルだろう。
オリンピック開催中にも、シリアでは多くの子どもや女性たちが戦争に巻き込まれ犠牲になっている。戦場ジャーナリストや戦場カメラマンたちは、命を賭けて世界中の紛争地帯に足を踏み入れ、戦争の悲惨さや愚かさをわたしたちに伝える「平和のメッセンジャー」でもあるのだ。
シリアでは既に27人ものジャーナリストが命を落としており、山本さんが銃撃戦に巻き込まれた当時の様子を、パートナーであり事実上の夫でもある佐藤和孝氏は、その状況を沈痛な面持ちで静かに語っていた。
政府軍、反政府勢力、そしてイスラム過激派が活動する現地では3方面から攻撃を受ける可能性が非常に高い。
銃撃事件発生時は、政府軍の戦闘機が上空を飛び交い空爆の真っ最中だったとも言う。シリア政府が自国の住民を無差別に攻撃すると言う、テロと何ら変わらない想像を遥かに超える権力と言う暴力がシリアでは日々平然と行われているのだ。
異常なまでの執念で反政府勢力を弾圧する国家、それがわたしたちと同じ人間なのである。山本美香さんは幼い頃に新聞記者であった父親の背中を見て育って来た事から、報道の道へと自分の人生を賭けたのであろう。
平和に対する情熱を人一倍持ち、紛争を通して平和の尊さを世界中に発信し続けた彼女の願いは届いているのだろうか。
報道の自由を擁護する民間団体の「国境なき記者団」は今回の山本さんの死に伴い、ジャーナリストを攻撃しないよう訴えてはいるものの、争いの当事者たちには自分たち以外は全て敵なのである。
個人の立場でボランティア活動に勤しんで来た「高遠菜穂子」さんを思い出してしまったが、皆さんの記憶からはすっかり消えている事だろう。
イラクで過激派の人質に合い、からくも無事に解放されたものの、そのイラクに再び戻りたいと発言したため、世論や当時総理大臣であった小泉純一郎氏からも批判を浴びた。
彼女はその後、PTSDに悩まされ続け眠れない日々を送っているという。わたしと同じ文芸社から「愛してるって、どう言うの? ―生きる意味を探す旅の途中で―」が出版されいるので、興味のある方は読んでみるとよい。
それにしても日本人の「平和ボケ」も此処まで来たかとつくづく思う。銀座のパレードには50万人もの人々が集まるのに、原発再稼働反対デモにはせいぜい10万人。
国の将来を左右する最も重要と思われる課題に対して、国民自身がこの程度の関心しか示さないのであれば、敗戦のどん底から不屈の精神で立ち上がった国民の意志は、きっと何処かに置き忘れてしまったのではないだろうか。
7月27日に開幕し、17日間に渡って各種競技が行われたロンドンオリンピックが先日、13日に幕を降ろした。
参加国は204、約1万1千人のアスリートたちが参加し、26競技302種目に渡り熱い熱戦が連日行われ、時差の関係から日本では深夜に競技が行われる事が多く、テレビに釘付けになり寝不足に悩まされた人たちも多かったのではないだろか。
日本は、金メダル7個を含む合計38個のメダルを獲得し史上最多となり、日本国民に輝かしいプレゼントを齎してくれた。
これ程までに日本選手が活躍出来たのは、おそらく昨年に日本を襲った未曾有の大震災と、それに続き起こった福島第一原発事故で大ダメージを受け、その灼熱地獄の中ら這い上がる日本人の不屈の精神力と最後まで諦めない一種の執念が多くのメダルを呼びこんだのではないだろうか。
世界に日本の底力を見せ付けた思いであり、なでしこジャパンは宿敵アメリカに惜しくも敗れたものの、内容的には一歩も劣らない金メダルにも匹敵するほどの銀メダルだったと思う。
男子サッカーも快進撃を続けたが善戦及ばず、3位決定戦で韓国に敗れメダル獲得には至らなかったが、未来の男子サッカーに希望を与えた事は確かである。
それにしても、オリンピックを政治の舞台に利用してしまう韓国には呆れ果ててしまったが、尖閣諸島や竹島などの領土問題が燻る中、これが韓国のやり方なのかと、余りにも下品なやり方を見て、如何にも韓国らしいと苦笑してしまった。
そして、わたしが最も注目して見ていたのが、女子卓球。わたし自身この重い病気の身でありながら唯一得意なスポーツが卓球だからである。
福原愛選手のファンでもあり、彼女が幼い頃から応援して来ており、一度でいいから冥土の土産に福原選手と一戦交えたいとさえ思っている。
シングルスは残念な結果であったが、女子団体ではなんと初の銀メダルに輝いた。これもまたなでしこJAPAN同様に金メダルに匹敵するほどの価値があると思った。
4年に一度開催されるオリンピックを幾度となく見て来て思うのだが、メダルを手に出来る選手はほんの一握りの選手たちだけである。
その殆どの選手たちはメダルに縁のない人たちだ。マスコミがスポットを当てるのはメダリストたちだけであり、その影には多くのアスリートたちの流した涙が溢れている事を忘れてはならない。
そしてまた、オリンピックが『平和の祭典』『スポーツの祭典』と呼ばれて久しいが、昨今のオリンピック裏事情を見ると、『金満オリンピック』と思えてならないのである。もちろん、オリンピックが齎す経済効果は莫大なものであるが、それを目当てに各国が開催地として名乗り出てオリンピック開催候補地がオリンピック招致として金塗れになるのを見てしまうと、この何処が平和の祭典だろうと疑問を抱いてしまうのである。
メダルを獲って当たり前のオリンピック、それは本当の意味でスポーツの祭典なのだろうか?それが各選手たちにプレッシャーとなって圧し掛かりその結果、実力の半分も出せないまま惨敗してしまうと言うのはよくある事で、今回では男子柔道がそれを如実に表しているのではないだろうか。
国民もマスコミも「メダル・メダル」と騒ぎ過ぎる。『オリンピックは参加することに意義がある』と言う有名な言葉は既に過去の遺物となり、メダルに執着するあまりメダルの為のオリンピックになり果ててしまったのである。
メダルはあくまでも目標や結果であり、スポーツ本来の精神を忘れてはいないだろうか。平和の祭典が真実ならば、世界一貧しい国と呼ばれている『バングラディシュ』でボランティアオリンピックでも開催してみればよい。