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「わたしはこれまで、自分以外の誰かになりたいなんて、いちども考えたことがなかった」、あるとき、いつもより少しだけ多くワインを口にしたというせいもあって、すみれはミュウに思い切って打ち明けた。「でもあなたのようになれたらいいなとときどき思うことがあるの」
「あなたにはたぶんわからないでしょうね」、グラスをテーブルに戻し、ミュウは穏やかな声で言った。「ここにいるわたしは本当のわたしじゃないの。今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ。わたしがそっくりわたし自身であったとき、あなたに会えたらどんなに良かっただろうと思う。でもそれは考えても仕方のないことなの」
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村上春樹の作品は、
ぽつりぽつりと水滴を落とすように
わたしの人生に点をつける。
村上春樹の小説を
こよなく愛する人からすれば
なんていい加減な読み方を…!と
叱られてしまうかもしれないが、
私はいつも彼の書く文章に、
遠い遠い距離を感じてしまう。
主人公の心のひだの奥の奥まで
これでもかというくらい
あけすけに書かれていて
すみずみまで容易に覗くことができるのに、
それでいて、作品と読者の間には
見えない壁があるように感じる。
村上春樹の作品は、
誰でもなく作者だけのもので
その心情の100分の1も
理解できていないんじゃないかって
そんな途方もない気持ちにさせられるのだ。
なので、読み終わった後はかならず
自分から勝手に好きになって
勝手に失恋したような
そんな傷ついた気持ちになる。
作者からしたら全く迷惑な読者だろうが。
大学生の頃だったと思う。
初めて『ノルウェイの森』を読んだときに、
凄い作品だとは思ったけれども
どうしてその作品が好かれるのか
私にはピンと来なかった。
主人公もヒロインの直子のことも
ずっともやもやとしていて
なんだか好きになれなくて、
しいていえば緑のことが好きだった。
それは『冷静と情熱のあいだ』の
順正とあおいのことが好きになれなくて
芽実のことが一番好きなのと似ていた。
はちきれんばかりに直情的な私には、
水のような恋愛は当時合わなかったのだ。
どう考えてもとっくに両思いなのに、
わざと不幸になる方を選んでいるとしか思えなくて
そういう恋人たちの姿に感情移入できなかった。
ハッピーエンドのラブストーリーが
私は根っから好きなのだろう。
(その後、随分立ってから
二度目に読み直してからは
『冷静と情熱のあいだ』は
BluもRossoも好きな作品になっている、
私もきっと成熟したのであろう…)
そんなわけで、村上春樹作品は
嫌いというわけでは決してないけれど
読後になんとなくうつろな気分になるので
しばらく手を出していなかった。
2019年に『納屋を焼く』の短編集を読んで以来、
随分久しぶりに手をつけたことになる。
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『スプートニクの恋人』
ぼくと、すみれと、ミュウの
ほとんど3人しかでてこない
恋愛小説。
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。
そんなふうに始まる小説。
すみれが恋に落ちた相手は
17歳年上で、結婚していて、
そして女性だった。
ぼくはこの世界で誰よりも
すみれにとって身近な存在で
すみれのことを好きになって
すみれに性的な欲望も感じて
だけども同時に、
すみれの一番の理解者であったから、
ある日青天の霹靂のように、
恋に落ちてしまったすみれを
止めることなんてできなかった。
ぼくとすみれは、顔を合わせればいつも長い時間をかけて語りあった。どれだけ語りあっても、飽きることがなかった。話題が尽きなかった。ぼくらはそのへんにいるどんな恋人たちよりも熱心に親密に会話を交わした。小説について、世界について、風景について、言葉について。
ただの「男友達」と呼ぶには
あまりにも身近な存在すぎる。
主人公はすみれのことを
きっと恋人以上に感じていた。
しかしすみれは「ぼく」に対して
親密な愛情は持っていたとしても
恋愛感情はもっていなくて
すみれが好きになったのはミュウなのだ。
自分が自分でなくなるくらいに、
強烈な、強烈な、出会い。
「そう言う時期なのよ」ストローでジュースを飲みながら彼女は他人事のように言った。
「どういう時期なの?」とぼくはたずねてみた。
「そうね、遅いめの思春期みたいなものかな。朝起きて鏡を見ると、自分が別の人間みたいに見えることがあるの。へたをしたらわたしが、私自身から置いてけぼりを食わされてしまいそうなくらい」
「いっそのこと先に行かせちゃえばいいじゃないか」と僕は言った。
「じゃあ私自身を失ったわたしはどこに入っていればいいのよ?」
「ニ、三日ならぼくのアパートに泊まれる。君自身を失った君ならいつでも歓迎するよ」
すみれとミュウは出会ってすぐに
お互い惹かれ合う存在になる。
ミュウの会社ですみれが働くことになり
ふたりは海外出張へ出かける。
そこに「ぼく」の入る隙間はない。
すみれはどんどん“普通の女の子”になっていく。
(前略)そしておそらく、これから彼女はさらにどんどんぼくから遠くに離れていくのだろう。そう考えると、ぼくはせつない気持ちになった。風の強い夜に、高い石壁にわけもなく予定もなく信条もなくただへばりついている無意味な虫のような気持ちだった。すみれはぼくから離れて「さびしい」と言う。でも彼女のとなりにはミュウがいる。ぼくには誰もいない。ぼくにはーーーぼくしかいない。いつもと同じように。
他の男性に奪われてしまうよりも
ミュウの出現ははるかに決定的過ぎた。
誰よりも心が通じ合っているのに、
すみれにとっては「ぼく」じゃダメなのだ、
すみれが抱きたいのは、
この世でただ一人ミュウだけなのだ。
ミュウはすみれのことを
とても好いていたけど
すみれだけのミュウではいられなかった。
彼女の言葉で言えば
14年前にほんとうの自分を半分失っていた。
すみれはミュウの身体に触れることはできても
ミュウの本当の心の奥底には届かない。
わたしにはそのときに理解できたの。わたしたちは素敵な旅の連れであったけど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。
痛々しいほどまっすぐに愛しているのに
こうして同じ時を過ごしているのに、
ほんの束の間に想いは交差するだけで
近づけば近づくほど
どうしようもないほど孤独になる。
「ぼく」はどうだろう?
すみれが地球の反対側のような距離にいても
たとえどこにいるかわからなくなっても
彼女に対する想いは何も変わらない。
指一本すら触れられないのに、
いつだってすみれは
自分のなかに色濃く存在する。
しかし大学生のときに、ぼくはその友だちと出会って、それからは少し違う考え方をするようになった。長いあいだ一人でものを考えていると、結局のところ一人ぶんの考え方しかできなくなるんだということが、ぼくにもわかってきた。ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった。
ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、水が海に流れ込んでいくのを眺めたことはある?
物語の途中で、
教員である「ぼく」が
万引きで捕まった
教え子の“にんじん”に
語りかけるシーンが印象的。
最後まで読み切った時、
結末があまりにもあっさりとして意外すぎた。
物語の真実はわからないけれど、
すみれからの電話は、
私には主人公の幻に思えた。
けれどそれは都合のいい夢ではなくて
きっと「ぼく」にとっては
すみれという存在そのものがすべてで
目の前に「居る」ことも「居ない」ことも
超越してしまっているのだと思った。
誰かを想うということは
どうしようもなく孤独で、
静かな幸福なのだ。
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▽前回は、映画『バーニング』を観たときに
『納屋を焼く』の原作を読んだのだった。
村上春樹の作品は、失っていく物語なのだと知る。
いつも心が、空中に投げ出された気分になる。
▽『1973年のピンボール』
物語の内容はうろ覚えで、
だけど208と209の双子のことはいまでも覚えている。
村上春樹の作品は、作者だけのもの、
そんなふうに痛烈に感じる作品だった。
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