私は クリスチャンを対象に神との会話集を書くつもりであったが、どうしてこんなタイトルが出るのであろうか。
神とは何者か私が聞きたいくらいである。
50年間に亘り何百の会話や何千の幻を視たからと言って、とても神が判ったとは思えない。
被造物である人間が創造者である神を大体判った等有り得ない。
判っても一部分である。
神は霊であり、3次元のこの世界より高次元の存在であるから、3次元の自然法則に支配されない。
どんな形でもとり得るし、どんな場所にでも移動出来る。
時間をも支配出来る。
霊の世界では高低の差はあれ、みんなそうである。
神を見たら目がつぶれる、との話しを聞くが 、的を得ていると本当に感心する。
1984年、神様は私に天国を見せて下さった。
当然、神は見えたが、巨大な光の塊りで中は見えない。
丁度、うす曇の太陽の様で、見えているのは栄光の光である。
栄光の少ないこの世に慣れている我々がもし神の栄光を見たら、目が潰れて当然である。
パウロも同じであったと思う。
幻を視ている時、目の中に小さい光が現れて燦然と輝き出す事が時々ある。
私はこの様にして神を見ている。
光は神ではなく、神の栄光である。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
これは聖書の一句であるが、言葉を執念、情念に置き換えると、この一句はその通りだと思う。
私が何十年従って来た神は、この神様である。
私が神様によって教えられた事は、次のとおり。
神は天地を創った神であって、唯一である。
しかし、個別の意志を持たない巨大集団とも言える。
神は霊であるから何処にでも住む事ができる。
大きさは自由である。
天の高い処に居られるとも言えるし、全宇宙が神の中にいるとも言える。
実は、我々は神の中に住んでいるのである。
神とはその性質を指している。
3次元以外のものは存在しないとする人にとって、神はいないのである。
神の性質は、聖い性質と、愛する性質の両面をもっている。
その両方を全うする為のジレンマを神は持っておられる。
そして情愛の方が聖さより強かった。
聖くない人間をどんどん取り去る事は神には可能である。
しかし、愛の故に、何とか修復しても生かそうとする。
海南島のヨハネ
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