会者定離 生者必滅 盛者必衰 | かや

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会った者とは必ず別れる運命にあると言うことを会者定離(えしゃじょうり)と言う。仏教では現世は儚いものとされている。あらゆるものが移り変わり、少しもとどまらない、そのひとつの例が、会った者とは必ず別れることであり、これを会者定離と呼ぶ。平家物語に「生者必滅、会者定離は、浮き世の習い」とある。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)はその字の通り、生きている者は必ず死ぬときがあると言うこと。生きる者は必ず滅びる、人生の無常を表す言葉として用いられる。
そして盛者必衰(じょうしゃひっすい)は勢いの盛んな者は必ず衰えるときがある、盛る者は必ず衰える、この世の無常を表す言葉として用いられる。生者必滅と共に現世の無常として一般に受け入れられている。「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを表す」と言うのが著名だ。

『四字漢語辞典』を眺めていると飽きない。


更に興味深いのは現在ではデリケートな人権意識に抵触するであろう用例が多くある。

「紅毛碧眼(こうもうへきがん)」かつて用いられていた、西洋人のこと。赤い毛、青い目と言う。江戸時代には特にオランダ人を指していた。またポルトガル人を南蛮人と呼ぶ場合、オランダ人を紅毛人と呼んだ。
「下司下郎(げすげろう)」身分の卑しい者のこと。下司(品性の劣った者)に揃えて下郎(身分の下の男)を添え、意味を強める。司はこの場合スと読む。下司は下衆・下種・下主とも書いて用いられたこともあった。
「車夫馬丁(しゃふばてい)」封建的な身分制度において身分の低い者のこと。車夫(人力車を引く者)と馬丁(馬を引く者)を組み合わせて表した。
「解語之花(かいごのはな)」唐の玄宗が楊貴妃を指して蓮の花の美しさも言葉を理解する花には及ばないと言った。蓮の花は美しい花とされているが言葉を理解出来ない一方で、美人は花よりも美しいだけでなく、言葉が理解出来る、美しさと言葉への理解を両立させている美人への称賛を表している。
「恍惚之人」認知症と老人介護問題をテーマにした有吉佐和子死の長編小説の題名。
等々、また用例に「文盲」「盲信」などの表現がある。「無学文盲」は読んで字の如し。

解説に、これらは現代人の人権意識に照らせば、人種、身分、職業、性別、疾病、身体障害などに対する偏見・蔑視に基づく、不適切な表現・語句であるが、このような考え方が日本語の中に反映され、表現や語句が使われてきたこともまた事実であり、その歴史的事実を正しく理解する為にも底本のまま掲載したと記されている。


言葉はその字面から一瞬で想像の付く漢字が組み合わされているほど人は意味を了解し易い。そして誉めるにしても貶すにしても肯定するにしても否定するにしても、一目瞭然意味が分かる言葉は便利だ。刃として使いたい場合や蔑む為に使いたい場合に用意された言葉は思いの外多いし、侮辱的な表現に直結している身体的な障害の一部を取り入れた語も数多い。
無意識の中に差別は存在しているのでは無く、常に意識的に人は差別をしている。意識的であるが麻痺しているので無意識となって、それが何らかの差別に繋がっている。
「差別をしていないと言った瞬間から既に差別している」と村上龍氏の何かの小説の中に出てくるこの台詞が印象に残っている。
  
 
ショパン練習曲集作品10第1番ハ長調が今、始まった。右手のアルペッジョの練習曲は2分ほどだが左手の幅広い歩みに乗って右手がきらめきを見せながら烈しく動く雄大な開曲だ。saturday morning突き抜けるように清々しく気持ち良いとしか言い様の無い1曲を大好きなサンソン・フランソワ氏の演奏で始める。

本日もただひたすら心地良い音色に包まれて。