◆北野幸伯さん新刊『世界の未来を予測する技術』を読む(キンドル版)



★要旨


・世界は、覇権争いを軸に動いている。
覇権国家と、そのライバル国の動向を第一に見るべし。


・すべての国を観察する必要はない。
分析の対象を絞ろう。


・4つの重要地域に注目せよ。
ウクライナ、イスラエルなど。


・仲間が多くいたほうが、勝ちやすいので
主役とライバルの仲間たちにも注目しよう。


・国の方向性は、だいたい決まっている。
国家のライフスタイルに注目すべし。


・1500年ごろから、1900年代前半まで、
覇権国家と、そのライバルは、
欧州の国々であった。
主役は、スペイン、オランダ、イギリス。


・国益とは、安全保障と経済なり。
つまり、命を守ることと、お金を儲けること。


・ドルが基軸通貨であることは、
世界支配の武器である。


・中国は、アメリカに勝つために、
「ドル体制崩壊」を狙っている。
つまり、人民元の国際化である。


・ウクライナ戦争で、
ロシアは「人民元圏」に組み込まれた。


・世界情勢を分析して、予測するために
必要なメインの情報源は、2つである。


・NHKの月曜と金曜の朝10時から
「キャッチ・世界のトップニュース」というものがある。
各国のテレビニュースをまとめたもので、
「世界五大情報ピラミッド」を全部網羅している。


★コメント
北野さんの分析ノウハウを、ここまでか、
というほど開陳されている。
そこまで秘伝を公開されていいのか、
と心配してしまいますが、
より多くの人に知ってもらい、
日本人全体の情報マインドの底上げを
願っている北野さんの願いが込められているようです。
必死で学びたいと思います。


 

 



 

 




◆橋本忍『複眼の映像。私と黒澤明』を読む(その2)



橋本忍さんは、1918年生まれ。
伊丹万作のただ一人の脚本の弟子。

昭和25年、『羅生門』を黒澤明との共同脚本でデビュー。
小國英雄も参加した黒澤組での脚本で、
『生きる』『七人の侍』などの映画作品を生み出す。

ほか主なシナリオ作品に、
『切腹』『白い巨塔』『日本のいちばん長い日』などあり。
戦後の日本映画界を代表する脚本家。



★要旨


・第2、第3の黒澤明は、ありえないにしても、
これだけは後世の心ある人々に
ぜひ継承し実行してほしいものがある。
黒澤明の行った「共同脚本」である。


・私と黒澤明。
2人の関係は、ただ会うべき者が会い、
そのとき、その時の仕事を、
それぞれの眼(複眼)で着実に行い、
乗り越えて来たとする感慨だけだが、
それらは、すべてがなんだか前もって、
定められていたような気がしないでもない。


・優れた監督は、
優れたシナリオが先行した場合にのみ、生まれる。


・日本の映画も演劇も、
その根幹をなす作品の脚本は、ともに「共同脚本」である。


・我々の感覚や才能は、タカが知れている。


・黒澤作品は、日本映画を支える文字どおりの大黒柱だが、
その脚本の大部分は、共同脚本である。


・黒澤さんは、
同じような作品、似たようなものは絶対に2度と作らない。


・黒澤さんは、
映画は本質的に音楽に似ているという。


・黒澤組の共同脚本とは、
同一シーンを複数の人間が、それぞれの眼(複眼)で書き、
それらを編集し、
混声合唱の質感の脚本を作り上げる。
それが、黒澤作品の最大の特質なのである。


・黒澤明は、
映画についての法則や理論を好まず、一切口にしない。


・黒澤さんと小國さんと私で、
『七人の侍』の脚本を書き終わると、
半ペラ、500ページを超え、504枚になった。


みずみずしい、恐らく生涯忘れ得ないとも思われる、
自信と覇気に満ちた力感である。

「これからの自分には、どんなものでも書ける」


半ペラ504枚の『七人の侍』が、
貴重なものを私に与えてくれた。


・余裕のある仕事からは、何も生まれない。
知力も体力も喪失し、精も根も尽き果て、
血ヘドを吐くような中でなおも書き続け、
仕事を成し遂げた場合のみ、
初めて、
血肉となって体得しえる、
物書きの自負と自信と力に似たものでもある。


★コメント
凄まじい戦いである。
一本映画を作るのには、並大抵のエネルギーが必要だ。


 

 



◆浜渦武生『政治家ぶっちゃけ話』を読み解く


★サブタイトル
→「石原慎太郎の参謀」が語る、あのニュースの真相。



浜渦さんは、1947年生まれ。
学生時代に、石原慎太郎と出会い、
政策秘書や公設秘書を歴任。
1999年、
石原都知事の特別秘書、
2000年に副知事に就任。
2006年に東京都参与、2012年まで続いた。



★要旨


・私は、『天才』にかぎらず、
石原さんの小説やエッセイなんかは、あまり読んでいない。
本は、どうしても作り事の部分が多い。
いざ話をすればわかることが、たくさんあるから。


・石原さんは、すごくメモ魔である。
人の話を聞いたら、ご飯を食べているときでも、
サッとメモを取って、ザーッと書いていく。


・自宅の二階の書斎にそのメモを取っておいて、
夜中に全部整理していた。
大酒飲みのくせに朝が早いのは、
そのメモをもとにして、忘れないうちに朝から書いていたから。


・ただ、そこからひと寝入りするから、
都庁に出てくるのは、どうしても昼過ぎになってしまう。(笑)
それで都知事のときは叩かれた。


・石原さんは、ここだけの話だが、
国会活動はほとんどしていない。
座っていて、たまに質問をするくらい。
党の勉強会にもほとんど出たことがない。
役所関係の陳情にも全部わたしが対処していた。
法案作成も担当していた。


・石原さんは義理堅いところがあった。
地方に出かけた際も昔、お世話になった人がいれば、
会って一緒に飲みに行ったりしていた。


・1999年、石原さんは都知事になり、
私は特別秘書になった。
政策をつくって、それを実現するには、
まず役人を使いこなさないといけない。


・そのためには東京都の
あらゆるしくみを知らないといけない。
だから東京都のたくさんある部局や関連団体を洗い出し、
どの部局がどんな仕事をしているのか、
毎日のように視察した。


・特別秘書になってすぐ、
部屋の壁全面に模造紙を貼り合わせ、
各部局の名前を書き出した。
さらにそこから枝を伸ばすように
出先機関や関係する外郭団体をズラっと書く。


年間どのくらいの予算なのか、
どれだけの人員が働いているのか、
果たして本当に必要な団体なのか、
視察をしながら、逐一あぶり出していった。


・とにかく東京じゅうの都の関連施設を見て回った。
いまでも私が東京都のことを一番知っている、
という自負がある。
このときの経験があるから。
組合対策や議会対策という言葉のもとに、
多くのムダがあった。


・築地市場の豊洲への移転問題に関して、
最初は、福永副知事が担当していた。
結局、石原さんに、

「浜渦よ、ああいう荒っぽい仕事は役人にはできない、
ああいう仕事はお前がやれ」
と言われて担当することになった。
ヤクザな仕事は、私にばかり回ってきた。(笑)


・東京ガスに「土地を売ってほしい」
とこちらが頼むわけだが、
話がこじれていたので、まずは環境整備から。


・佐藤栄作元総理の次男の佐藤信二さんと私は、
選挙の手伝いをしたことがあって、
お付き合いががあった。
佐藤信二さんの妻・和子さんは、
東京ガスの当時の安西会長の御嬢さんだった。


・だから、佐藤信二さんにも相談して、
交渉相手として確実に信頼を置ける人を紹介してもらった。
そこから始めて、一年ちょっとで基本合意にこぎつけた。


★コメント
やはり、政治にもビジネスにも、
剛腕力が必要となる。
学びたい。
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★金額
5,000円(PDF版のみ)


※ページ数
A4サイズ・110ページ



★小冊子『欲望力の研究』目次と内容★


◆井上裕之『欲望が男を変える』を読む
◆「欲あってよし」と空海は言った。
◆「村西とおる」の生命力に欲望力に学びたい
◆性的エネルギーを行動力と創造力に変換する方法
◆天野雅博『欲望は、すべての絶望をしのぐ』を読む

◆「ポリネシアン方式」で圧倒的な精神力を身につける
◆「房中術」を使い、欲望力を高める
◆なぜ政治家は、元気なのか、その秘訣。
◆元勲・松方正義の精力と政治力
◆無尽蔵のスタミナを作る方法、アスリートに学ぶ。


★特別重要資料、添付あり。



以上。


※ページ数
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◆橋本忍『複眼の映像。私と黒澤明』を読む



橋本忍さんは、1918年生まれ。
伊丹万作のただ一人の脚本の弟子。

昭和25年、『羅生門』を黒澤明との共同脚本でデビュー。
小國英雄も参加した黒澤組での脚本で、
『生きる』『七人の侍』などの映画作品を生み出す。

ほか主なシナリオ作品に、
『切腹』『白い巨塔』『日本のいちばん長い日』などあり。
戦後の日本映画界を代表する脚本家。



★要旨


・私は昭和13年、現役で鳥取の連隊に入隊したが、
肺結核で服役免除になり、療養所で4年過ごした。


・わたしと伊丹万作先生の結び付きは、
偶然とか、成り行き、
またはすべてを必然とする運命論すらも超える、
まったくの強運としか他にいいようがない。


・傷痍軍人岡山療養所で、読み物を用意していなかった。
仰向きのまま天井を見ていた。
隣の小柄な男が、
「よろしかったら、これでもお読みになりませんか」
と差し出す。
雑誌『日本映画』である。


・巻末にシナリオが掲載されていた。

「これが、映画のシナリオというものですか。
じつに簡単なものですね。
この程度なら自分でも書けるような気がする。
これを書く人で、日本で一番偉い人はなんという人ですか」

「伊丹万作という人です」

「じゃ、僕はシナリオを書いて、
その伊丹万作という人に見てもらいます」


・A4より少し大きいべニヤ板製の紙挟みで、
挟んだ紙に横書きで字を書く。
私には原稿用紙に直接向かう習慣がなく、
この図板に挟み込んだ雑多な紙にまず下書きし、
それが出来上がると原稿用紙に写しかえる。


・図板が威力を発揮するのは移動の際である。
汽車通勤の片道50分で、
鞄の上に図板を置いて、字を書く。


・あるとき、プロデューサーの本木さんから、
ハガキが来た。
「あなたの書かれた『雌雄』を、
黒澤明が次回作品として映画化することになりました。
黒澤と打ち合わせをして頂く必要があり、
なるべく早く上京して頂きたい」


・黒澤さんは生原稿を差し出し切り出した。

「あんたの書いた、『雌雄』だけど、これ、ちょっと短いんだよな」

「じゃ、『羅生門』を入れたら、どうでしょう?」

「羅生門?」

黒澤さんは、首を捻った。

「じゃ、これに『羅生門』を入れ、あんた、書き直してみてくれる?」

「ええ、そうします」

初めての出会いは、呆気ないほど簡単に終わった。


・彼には絶対に動かない自分自身の案があったのだ。
だが、私が、いや、私の本能の脳幹そのものが、
「羅生門」をといった時、
何かが閃いたのだ。


・黒澤明という男、それは閃きを掴む男である。


・黒澤さんの「ホン作り」、
それは脚本の基礎の三条件を、
愚直なほど一つ一つ几帳面に積み重ね、
石橋を金槌で叩いて渡る、鉄兜のような手堅いもの。


・映画にとって最も重要な脚本作りにおける黒澤明は、
徹底した合理主義者である。


★コメント
橋本さんの体験と、
それをストーリーとして読ませる筆致は圧巻である。


 

 




◆舘野仁美『エンピツ戦記。誰も知らなかったスタジオジブリ』を読む



舘野さんは、1960年生まれ。
アニメーションを学び、
1987年、スタジオジブリに移籍。
「となりのトトロ」以降、
ジブリ作品の動画チェックを手掛ける。
2014年、ジブリを退社。
カフェをオープンした。


★要旨


・私はスタジオジブリで長年、
アニメーターとして働いた。
とくに動画チェックと呼ばれる作業を担当した。


・簡単にいうと、
アニメーターが描いた線と動きをチェックする仕事。


・動画の線は、アニメーションが生きるか死ぬかの生命線であり、
その品質管理をする仕事だ。


・アニメーターの仕事の中で、いちばん地味で目立たない裏方で、
まさしく縁の下の力持ちであることが求められる。


・担当している「動画チェック」「動画検査」という作業は、
上がってきた大量の動画をひたすらチェックする、
きわめて地味な仕事だ。


・宮崎駿さんが口癖のようにスタッフに言っていたのは、

「写真やビデオ映像を見て、そのまま描くな」
ということ。
「資料を参考にして描きました」
と語るアニメーターたちに、宮崎さんは厳しく接した。
何度も。


・写真やビデオを見て描くような、
そんな浅いところで済ませてはダメなのだ。


・ふだんから、人間の動きはもちろん、
あらゆる自然現象、森羅万象に興味をもってよく観察して、
記憶して、いつでもその動きを表現できるようになっているのが
アニメーターなのだ、
という確固たる信念のもとに宮崎作品はつくられている。


・しかも宮崎さんは、
ただ現実をそのまま描くのではなく、
現実の向こうにある理想の「リアル」を描くことを
探究しているのだ。


・本物の鳥に向かって、

「おまえの飛び方はまちがっている」
とつぶやく宮崎さんを見て、
宮崎さんの創作の秘密を垣間見たような気がした。


・「アニメーターの勘は、ものの観察から生まれるんだ」
宮さんは、スタッフに

「ふだんから、目にするものをよく見ておくように」
と言っていた。


・ロケハンに行ったときも、
つい写真を撮って記録することに気をとられがちなスタッフに対して、
カメラのレンズ越しではなく、

「自分の目で見ること」
の大切さを伝えていた。


・その時間、その場所の空気感、手触り、
カメラでは収めきれないことがたくさんある。
表現する人にとって、そうした体験の記憶は、
すぐに使う機会がなくても、
心の引き出しに蓄えておけば、
いつか大きな力になることがある。


・もうひとつアドバイスするとしたら、
若いうちから本をたくさん読んでおくことをおすすめする。
いつかアニメーターでは飽き足らなくなって
演出をしたくなるかもしれない。
古今の名著と呼ばれるものは、なるべく読んでおいて損はない。
たとえば、シェイクスピア。


・『もののけ姫』のアフレコで、宮崎さんは、
森繁久彌さんに、

「リア王を思い出して」
と言っていた。
森繁さんもそれに対して、きちんと応えていた。


・プロデューサーは、錬金術師なり。


・ジブリ作品のヒットは、
やはり鈴木さんの指揮によるメディア戦略と宣伝の力にも
負うところが大きいのは間違いない。


・ジブリがマスコミ大きく取り上げられたり、
多くのメディアが、ジブリに対して好意的に
見られているようだ。
私なりに感じている理由は、

「鈴木さんは人のために親身になるから」
だと思う。


・鈴木敏夫さんは、人に頼られると、
その人のお願いをなるべく聞いてあげて、
可能な限りそれを実行に移そうとする。
情に厚い、親分肌の方だ。


・すると相手にとっては、
見えない形ではあれ、「借り」ができる。
おそらく放送業界や出版業界には、
そういう人がたくさんいたのではないか。


・その後、どんなに時間がたっていても、
ジブリの新作映画の公開に際して、
鈴木さんから「よろしくお願いします」
と言われたら、
たいていの人は、ひと肌脱ごうと思うはず。


・そうして鈴木さんの日頃の小さな親切の積み重ねが、
いさというときに、
大きな贈り物となって
返ってくるのだと思う。


・プロデューサーという仕事は、
なんといっても錬金術師にならなくてはならない。
評価も価値も定まっていない、
まだ実体のない映画の企画案に、
何億円も、何十億円という価値を発生させてしまう仕事だ。


・「動画の線こそ、アニメーションの生命線」
という秘かな矜持を私は持っている。


★コメント
アニメ制作の凄みをここに見た。


 

 



 

 




◆猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』を読み解く




★要旨


・昭和十六年十二月八日の開戦よりわずか四カ月前の八月十六日、
平均年齢三十三歳の内閣総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、
日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていたのである。


・ある秘められた国家目的のため全国各地から、
「最良にして最も聡明な逸材」(BEST & BRIGHTEST)が、
緊急に招集されていた。


・日米開戦へと潮鳴りのように響きを立てていた時代。
いかにもいかめしい総力戦研究所という名の機関は、何だったのか。


・総力戦研究所が三十六人の研究生をかかえてスタートしたのは三カ月前の四月一日である。
優秀な研究生を集めて開所にこぎつけたのはいいのだが、なにをどう展開していいのかわからず、
飯村穣所長(陸軍中将)をはじめ所員も試行錯誤を繰り返していた。


・彼らはいずれも所属する機関の突然の命令で
総力戦研究所に出向してきていた。


・北支那方面軍の済南特務機関にいた三十一歳の成田乾一も、
朝鮮総督府殖産局にいた三十三歳の日笠博雄も、
宮沢と同様に大陸からあわただしく駆けつけた組である。


・昭和8年、
満州国を離れた成田は北京の同学会語学学校で中国語を学んでいたが、
その頃、本土の参謀本部から派遣されてきた渡辺渡大尉と知り合う。
渡辺と成田の中国観には気脈が通じるものがあった。


・成田は十三年、北支方面軍に転属し済南特務機関に派遣される。
そこの機関長が大佐に昇進していた渡辺であった。


・六年ぶりの再会もあえなく渡辺大佐は成田の赴任後間もなく、
本土に転勤していった。
それから二年後、成田は東京から遠い中国の一隅で、一週間遅れの昭和十五年十月三日付の新聞記事を凝視していた。

「総力戦研究所、勅令をもって公布さる、内閣直属機関として発足」

という見出しはどうでもよかった。


記事のなかに七名の研究所員の名前が小さく載っていた。
そこに「渡辺渡陸軍大佐」の名前を見つけ、ある感慨に浸っていたのである。


・「山東を離れてから、
渡辺さんどうしておられたのだろうと思っていたら、
いまや天下の桧舞台に登場している」
成田は喜んだものの
年賀状すら出していない非礼を心で詫びていた。


・昭和十六年二月も終わりに近づいた頃、
突然、済南特務機関長から呼び出しがあった。
河野機関長(陸軍少将)から直接こういわれた。

「君は四月から始まる内閣総力戦研究所へ行くことになった。
いまから北京の軍司令部に顔を出してこい」

渡辺大佐の「ひき」であることを成田は直感的に悟った。


★コメント
現代の教訓になることが
多く書かれている。

歴史を謙虚に学びたい。



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◆門田隆将『この命、義に捧ぐ。台湾を救った陸軍中将・根本博の奇跡』を読む


★要旨


・台湾領でありながら、台湾本島から180キロも離れ、
一方、中国大陸からはわずか2キロしか離れていない「金門島」。
大陸にへばりつくように浮かぶこの島は、なぜ今も台湾領なのだろうか。


・金門島と台湾本島との間に圧倒的存在感をもって横たわる台湾海峡は、
なぜ今も、中国の「内海」ではないのだろうか。


・台湾と台湾海峡を守るために日本からやってきた謎の男。
その日本人は、敗戦から4年が経った1949年、
ある恩義を台湾に返すために「命を捨てて」この地に姿を現したのである。


・第二次世界大戦後、自由主義陣営と共産主義陣営との剥き出しの覇権争いが、
世界各地で行われた。
その中でも、質的にも量的にも最大の熾烈な激突が中国大陸で繰り広げられた。
国民党の蒋介石と共産党の毛沢東との間で行われた血で血を洗う激戦、いわゆる「国共内戦」は、
ここ金門島で決着がついたのである。


・それは誰にも予想しえなかった「国民党の勝利」に終わった。
敗走に敗走を重ね、雪崩をうって駆逐されていた国民党軍(国府軍)が、
この戦いにだけ「大勝利」する。


・それはまさに「奇跡」としかいいようのないものだった。
そしてその陰に、実は、その日本人の力が大きくかかわっていたことを知る人は少ない。
元日本陸軍北支那方面軍司令官・根本博中将。
終戦後の昭和20年8月20日、内蒙古の在留邦人4万人の命を助けるために敢然と武装解除を拒絶し、
ソ連軍と激戦を展開、そしてその後、支那派遣軍の将兵や在留邦人を内地に帰国させるために、
奔走した人物である。


・在留邦人や日本の将兵が国府軍の庇護の下、無事、帰国を果たしたとき、
根本はそのことに限りない「恩義」を感じながら最後の船で日本へ帰って行った。


・「義には義をもって返す」
軍人でありながらヒューマニズムの思想に抱かれ、生涯、その生き方を貫いた戦略家。
戦後、大転換を遂げた価値観によって混乱の波間を漂い続けた日本で、
なぜ彼のような軍人が存在しえたのか。
「命」を守り、「義」を守った陸軍中将。
彼のしたことは、その偉業から60年を経た今も、決して色褪せることはない。


・本書は、命を捨てることを恐れず、「義」のために生きた一人の日本人と、
国境を越えてそれを支えた人たちの知られざる物語である。


・台湾は日清戦争で勝利した日本が清国から割譲を受け、
50年間にわたって心血を注いで発展させた地だ。
清朝が「化外の地」として統治することすら敬遠した地を、
必死の思いで開発し、整備し、教育を施してきた。


・明石元長は、わずか2年とはいえ、小学校時代を台北で過ごしている。
父親の明石元二郎が台湾総督として台北に赴任したのは、大正7年である。
元長はこのとき、小学5年。
元二郎は、妻も2人の娘も、そして母親も東京に置いたままだったのに、
なぜか長男の元長だけを連れて、台湾に赴任している。


・日露戦争時、日本陸軍最大と称された謀略工作をヨーロッパの大地で展開した元二郎が、
小学校の高学年となった息子を手元に置いたのは、自分が得てきた知識や経験を、
息子に引き継ごうという思いがあったことは想像に難くない。


・1949年、台湾に深い思い入れのある明石元長は、
根本博を台湾に密航させるため、資金調達に走りまわる。
GHQ支配下だった日本では、それはまさに国禁をおかす危険な活動であった。
元長の筆舌に尽くしがたい資金集め活動により、なんとか根本の密航出発に成功する。
その4日後、台湾を助けるために奔走した明石元長は精根使いきり、急死した。
42歳だった。


・元長を看取った高校生にすぎない元長の長男・元紹が、
父がやろうとしたことの「真の意味」を知るには、
それから60年という気の遠くなるような年月が必要だった。
60年後、台湾の金門島に招かれた明石元紹は、父が犬死ではなかったを知った。


・昭和20年8月15日、陛下自らの「終戦の詔勅」が発せられた。
放送を聴きおえた駐蒙軍司令官・根本博は、
指揮下の全軍に対して、司令官としての絶対命令を下した。

「全軍は別命があるまで、依然その任務を続行すべし。
もし命令によらず勝手に任務を放棄したり、守備地を離れたり、
あるいは武装解除の要求を承諾したものは、軍律によって厳重に処断する」


・目を見開いた根本の口から発せられたその迫力に、居並ぶ幕僚たちは圧倒された。
それは有無をいわせぬ絶対命令だったのである。
上層部から武装解除命令が出ているのに、駐蒙軍は司令官の根本の命令によって、
それを拒否するというのだ。


・根本は、特にソ連軍主力と激突する「丸一陣地」の守備隊に対して、こう厳命した。

「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。
これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」
これまた根本自らの覚悟の命令だった。


・根本はソ連相手に絶対に武装解除しないことを決意していた。
彼は、日本陸軍にあってソ連の本質を見抜いていた数少ない軍人だった。
中佐時代の昭和5年、根本は陸軍参謀本部第二部(情報担当)の支那班の班長になっている。
このとき、ロシア班の班長が、根本と陸軍士官学校で同期の橋本欣五郎中佐である。


・当時、両課の課長が同室で仲がよく、かつ両班の班長が同期であり、
班員同士が密接に往来し、お互いの班長を「ねもさん」「橋欣」と呼び合うほど、
日常的に情報交換を行っていた。
それぞれが得た情報と分析は、同期の両班長によって「共有」され、
そのため、根本は専門の支那情報だけでなく、ロシア情報にも通じ、
ソ連軍の本質や危険性を知悉していたのである。


・終戦時の日本同胞に対する蒋介石の恩義。
それは、北支那方面軍司令官として、内地への引き揚げを一手に引き受けた自分が一番知っている。
敗戦に際し、自決を決意していた自分が今、生きているのは、
あのとき、内蒙古にいた4万人の在留邦人と35万人の北支那方面軍の部下を内地に送還してくれた、
寛大な蒋介石の方針によるものであったことは確かだった。


・国民政府の要人と折衝を繰り返しながら、わずか一年という短期間のうちに、
日本への帰還を完遂できたことは、奇跡というほかない。
それは多くの日本人をシベリアに連れ去ったソ連の独裁者・スターリンとあまりに違っていた。


・1949年、根本は台湾に渡り、国府軍の顧問となり、作戦のアドバイスをした。
根本らの意志を確認した以上、蒋介石は、その力をどうしても貸してもらいたかった。
長かった日中戦争で、蒋介石は日本軍の実力はいやというほど思い知らされている。
なにより日本軍の規律と闘志は、国府軍をはるかに凌駕していた。
そして陸士、陸大を出た日本陸軍のエリートたちが立案する作戦に苦汁を嘗めつづけた経験は、
蒋介石にとって忘れようとしても忘れられるものではなかった。


・根本は前線のアモイ島と金門島を視察した。
そこで、アモイは捨てて、守りやすい金門島への守備を集中強化し、
ここを決戦場すべき、と進言し採用された。

「金門島は自活できる。大陸との通行をたとえ遮断されても、ここを拠点にすれば長期間、戦い抜ける」

根本は案内人からの金門島の農業事情などをつぶさに聞いて、そう判断した。
大陸から孤立しても軍隊用の食糧を台湾から補給しさえすれば、長期の踏ん張りが十分、
期待でいると考えたのである。
根本は、陸士・陸大を優秀な成績で卒業した単なる「軍官僚」ではない。
諜報や情勢分析にも長けた「戦略家」でもあった。


・金門島における戦いで、国府軍は大勝利した。
共産党軍は主力を失い、その進軍が止まった。
根本の存在は、国府軍にとって極秘中の極秘だった。
しかし、その功績を最も評価し、わかっていた人物がいる。
蒋介石その人、である。


根本の長女は、父の思いを聞いている。
「蒋介石総統は両手で父の手を握って『ありがとう』と言ってくれたそうです。
父はそのためだけに行ったのです。
それで十分だった、と父は言っておりました」


・1952年、羽田空港から、その男が姿を現した。
灰色のパナマ帽、白い麻の上着、よれよれのネクタイ、
その初老の男は、肩に釣竿をかついでいる。
男は、まだタラップを降りきらないところから質問を浴びせる記者たちに不快感も見せない。
柔和な笑顔を浮かべてゲートの方に向かおうとする男は、たちまち報道陣に取り囲まれた。
根本博、61歳その人である。

「長い期間になってしまったが、あくまで私は釣りをしてきたんだ」
根本はそう言いたかったに違いない。
なんとも人を食った、いやユーモアに満ちた行動である。


・根本の心の奥底は誰にも分からない。
台湾と台湾海峡を守るために海を越えてやってきた日本人。
確かなのは、あの時、根本とそれを支えた人々が守ろうとした「台湾」と「台湾海峡」が、
60年という歳月を経た21世紀の今も、そのまま存在しているという厳然たる事実だけである。


★コメント
歴史の裏には、多くの無名の活動がある。
今回、あらためてそう痛感した。

今も未来も、おそらくそうだろう。


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◆奥山真司さん訳『認知戦。悪意のSNS戦略』に注目します。

イタイ・ヨナト著


★ポイント

・日本は認知戦に備えよ 


・日本は「マインドセット」の入れ替えを


・これが認知戦だ 
クレイジーだけが生き残る、イスラエルの諜報機関


・中国、それは日本にいちばん近い脅威


・ロシア、コミンテルンの謀略の系譜 


・認知戦への対抗措置
残された時間は少ない


・イスラエル国防軍出身者が警鐘を鳴らす


・戦場は、スマホと脳だ!
日本に仕掛けられる工作の手口と対策を、元イスラエル諜報部員が暴く


・日本は被害者なのに、世界中から侵略者と認識され、
国際的な支持を得られない立場に追い込まれてしまう。
このまま対策をしなければ、このような事態が数年後に起こる。


・誰もがスマホでソーシャルメディアを使っているなか、
人間の脳や心をターゲットにした「認知戦」や
「影響力工作」の脅威が増している。


・イスラエルの諜報機関で実務経験を重ねた第一人者が、
中国やロシアなどによる工作の手口と対抗策を初めて明かす。

・中国とロシアは「ALPS処理水」を悪用した

・トランプ大統領が再選のために使った手法とは

・中国は自動車業界でもキャンペーンを展開

・「反原発」をソ連、ロシアが支援していた理由


・アフリカで「政権転覆」したロシアの次の標的は?

・中ロにとって「役に立つ馬鹿」


・TikTokやタクシーアプリに警戒せよ


・日本、ルーマニア
選挙で極右が台頭する背景


 

 


◆石井朋彦『自分を捨てる仕事術』を読み解く


★サブタイトル
→鈴木敏夫が教えた「真似」と「整理整頓」のメソッド。



★要旨


・整理整頓が、余白を生み出す。


・小さな仕事を片付ければ片付けるほど、
パニックになっていた頭の中が軽くなるのを感じる。
脳に余白が生まれるのだ。


・仕事を始める前に、いかに頭の中に余白をつくり、
考えを組み立てることができるか。


・出社して、パソコンに向かって色を考え始めるのではダメ。
朝起きて、会社に行くまでの間に、
その日塗る色は全部決めておくの。
家から会社のあいだに、参考になるものは、いっぱいある。
席に着いたら、考えていた色を塗る。
そうすれば、仕事なんてすぐ終わるよ。
(スタジオジブリの色彩担当、保田道世)


・自分の意見を捨てて、ノートを取る。


・ジブリの鈴木敏夫さんから、仕事について最初こう指示された。

「自分の意見を捨てろ」

「常にノートとペンを持ち歩き、
その場で話されたこと、起きたこと、相手の身振り、
場の雰囲気もすべて書き残せ」


・鈴木さんは、若手の僕にこう言った。
「これから3年間、おれの真似をしな。
自分の意見を捨てて、くもりなき眼で世界を観ること。
3年間やって、どうしても真似できないと思ったところが、
君の個性になる」


・ぼくの職業は、アニメーションのプロデューサーだ。
映画やテレビ作品を企画し、資金を調達し、
スタッフを集め、作品を制作して、お客さんに届ける。


・21歳のとき、スタジオジブリに入社し、
高畑勲監督の『ホーホケキョ』の制作部に配属された後、
鈴木敏夫さんの下で、
宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』などの
プロデューサー補を務めた。


・これまで仕事を切らさずに生きてこられたのは、
師であるスタジオジブリの鈴木敏夫さんに
叩き込まれた「仕事術」のおかげ。
鈴木さんの教えを、ずっとノートに記録してきた。


・他人の意見だけを、書く、まとめる、読み返す。


・自我を手放すと、俯瞰の視点を手に入れられる。


・僕の最初の仕事は、
会議室を確保し、席順を決め、議事録を取ること。


・「これから打ち合わせでは、
席順、相手の肩書や見た目、その場で話されたことをすべて、
具体的・映像的に書き残しなさい。
ノートをペンを手放すな」(鈴木敏夫)


・その人がいま、何ができる人で、
自分が何を提供すれば化学反応が生まれるのか、
ということこそ、重要な情報なのだ。


・会議が始まったら、各々の発言はもちろん、
相手の身振り手振りやテンションまでも
できるだけ正確にノートに取る。


・「自分の意見は考えなくていい」わけだから、
人の発言をメモすることに徹すればいい。
驚くほど集中できる。


・鈴木さんはたまに、ぼくのノートをのぞく。
そして、前の会話を思い出して、また議論に戻る。
「さっきの、なんだっけ?」
と問われれば、
ノートを見せながら、すぐに答えることができる。


・そんなことを何百回と繰り返しているうちに、
自分がその場にいる誰よりも、
議論の全体像を把握できていることに気が付いた。
鳥肌が立った。


・自分にこだわると、スランプにハマる。


・苦しいときほど、
「自分を捨てる」ことで救われる。


★コメント
鈴木敏夫さんのメソッドは、奥深い。
反復して身につけたい。