◆廣津留すみれ『超・独学術』を読み解く



正式タイトル

→『ハーバード、ジュルアードを首席卒業した私の「超・独学術」』



★要旨



・私が幼少期に自慢できることは、

英語塾をしている母の影響で

4歳のときに英検3級を取得できたことや、

バイオリンのコンクールで複数回、賞をとったことくらい。



・私は、自分を天才だとはまったく思っていない。

自然に囲まれた田舎で、公立小学校から、

公立中学、公立高校と通った「普通の日本人」なのだ。



・では、なにをしたのかというと、

「ごく小さなことの積み重ね」です。



・実際、ハーバード大学のホームページをみると、

受験すること自体は決して困難ではないことがわかった。

渡米する必要もなく、

出願から合否決定まで、

すべて日本でできることがわかった。



・もう私に、ハーバード大学を受験しない理由はなくなった。

高校2年生の2月に

「ハーバード受験」を決意した。



・ヨーヨー・マの素晴らしい芸術と人間性から

学んだことは数知れない。

この共演が決まったときに感じたのは、

「一つ一つの仕事を丁寧に行う」ことの大切さ。



・昔から、バイオリンの先生に、

「誰がどこで聴いているかわからないから、

どんな演奏会でも一生懸命弾くのよ」

と言われてきた。

そのため、規模の大小にかかわらず、

手を抜かずに演奏することを信条としていた。



・試験勉強は、

「概観→反復」が最強なり。



・母のモットーは

「5分あれば何かできるでしょ」


私も、5分を漫然と過ごさず、

何か意味あることをしよう、

と決めて実践していた。



・「濃い5分」を12回積み重ねれば、

とても濃い1時間になる。



・「ゾーン」の作り方について、

最低条件として「練習量」がものを言うことは確か。

頭で考える前に、

身体が勝手に演奏してくれるような状態に

なるまで練習するのが大前提。



・練習を重ね、量をこなし、

頭で考える前に体が勝手に動くようになれば、

本番には余計なことを考えたりせず、

「頭が空っぽの状態」で

臨むことができる。

その上で、弾きながら

楽しい、気持ちいい、という気分が訪れたら、

ゾーンに入れる。



・考えなくてもできる「マッスルメモリー」を習得せよ。



・何度も何度も同じ曲を聞いて、

マッスルメモリーのレベルまで叩き込むことで、

「曲が自分のもの」になる。



・仕事などの頭脳労働も、

慣れれば一連の作業として流れるようにできる。



・週間、月間に行う定番の仕事があれば、

その最短の段取りを書き出し、

その通りに毎回なぞってみる。



・身体で覚えてしまえば、

複雑な仕事でも「何も考えずに」、

スピーディに行える。



・「精魂尽くして颯爽たり」

という言葉が、私の座右の銘である。



・苦も無く高いレベルの演奏ができるくらい、

精魂尽くして努力する。

その努力の跡をかけらも見せず、

颯爽と笑顔で演じる。

そんな演奏家でありたいと、いつも思っている。



★コメント

バイオリストでありながら、

さまざまなことにチャレンジする姿に憧れる。

その謙虚さに学びたい。


 

 



 

 

◆鈴木洋嗣『文藝春秋と政権構想』を読み解く



★要旨



・雑誌で政治に関わる取材を始めて今年で40年となる。



・1985年2月7日午前7時、

平河町の砂防会館別館前。

寒さに震えながら

木綿のトレンチコートの襟を立てて張り込んでいた。



・この日は、親分である田中角栄から袂をわかって、

竹下登を担ぎ上げる「創政会」の旗揚げの日だった。



・田中角栄に反旗を翻すというのは、文字通り命懸け。

政治生命をかけた闘いになる。



・最後に竹下登がクルマを降りてくるところは、

運良く絶好の位置にいた。

顔面蒼白とは、こういう人のことを言うのだな、

あの表情はいまも忘れられない。 



・結局、田中派121人のうち、竹下についたのは40人だった。



・当時、永田町において週刊誌記者の地位は低く、

政治家にはまったくと言っていいほど相手にされない。

国会議員に面会のアポを取るのも一苦労であった。



・はじめは、

各メディアの「出来る記者」にお教えを乞うてネタをもらってくるわけである。

恥ずかしいといえば恥ずかしい。

特にNHKの記者はせっかくの特ダネも立場上、書けないことが多い。

「ウチでは出来ないから」と取材メモを丸ごとポンともらったことも一度や二度ではない。



・わたしのキャリアにおいて

いちばんの強烈な記憶は、2012年、安倍晋三第二次政権が打ち出す

「アベノミクス」の基本的な設計に関わり、

月刊「文藝春秋」に安倍の政権構想を掲載したことだ。



・雑誌記者は、

「自ら名乗れば政治記者になれる」と書いたが、

実は「経済記者」にも「社会部記者」「スポーツ記者」

「文化部記者」「芸能記者」にもなれる。



・永田町を長く取材していて気づいたことがある。

大手メディアの政治記者は政局しか取材しないことだ。



・彼らの関心事は、

第一に人事であり派閥の動き、

第二に選挙、

三番目は国会の動向、

予算の中身、そして、外交、政党間の離合集散と続く。



・不思議なことに、政治記者たちは政策、

とくに経済・金融政策についてあまり興味を持っていない。

そもそも取材対象になっていない。



・国民生活にとってダイレクトに重要な経済対策は、

メディアのセクショナリズムの狭間に落ち込む形となっている。

このビルの谷間に気づいた時、

この狭間の空間こそが

雑誌ジャーナリズムの出番なのではないかと考えた。



★コメント

斬新な切り口の本である。

政治と記者の関係において、

新しい視点ができた。


 

 



 

 


◆暇空茜『ネトゲ戦記』を読み解く

(ひまそら・あかね著)



★要旨



・この物語は、ノンフィクションである。



・ネトゲ戦記。

私はいかにして高校を中退して、

伝説のネットゲーマーとなり、

ゲームクリエイターになったか。

ベンチャー会社を立ち上げら裏切られて、

死にかけて、

7年かけて逆襲し、6億円をゲットしたか。



・小学生のころ、

IQテストで理論最高値を出した俺に、

両親はお受験を押し付けた。



・東大寺学園中学校に入学したが、

自我が芽生えて、高校で中退した。



・ウルティマオンラインというゲームにハマり、

ネトゲ廃人となった。



・ゲームの攻略本を作るのに飽きて、

ゲームが好きだし、

ゲームクリエイターになりたいということで、

セガに就職し、上京して独り立ちした。



・セガは、よくゲーム専門学校だといわれる。

それは、セガで一通り学んだあと、

辞めて他の会社に行く人が多く、

元セガは、いろんな会社にいるからだと。



・投げられた仕事は、サクっと答えが見えた。

仕事場には勉強のために

プレイしていいとゲーム機があったので、

昼休みの後2時間くらい遊んでいたら、

呼び出されて説教された。

社会とは、そういうものだと知った。



・雑誌の管理係にも立候補して、

管理しているという名目で

すべてのゲーム雑誌を読めたのは、いい暇つぶしになった。

なるほど専門学校かもしれない。



・それでもゲームのシステムを設計することや、

アイデアをまとめることは好きで、

評価もそこそこされ、仕事の基礎は学べた。



・これからはネットゲームですよ、

と企画書を書いて出したら、

部長にペラ読みされて、

これはうちの部署の担当するジャンルではない、

と目の前でゴミ箱に捨てられた。

なるほどなあ。

転職して見返すことにした。



★コメント

ドラマチックな物語である。

やはり、人の数だけ、おもしろい人生がある。

参考にしたい。


 

 

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◆大下英治『二人の首領。稲川聖城と石井隆匡』を読む



副題

→「稲川会、極高の絆」



★要旨



・私が、稲川聖城(せいじょう)稲川会・会長と

初めて会ったのは、

東映の山下耕作監督の映画『修羅の群れ』の

原作を書くためであった。



・東映の岡田茂社長が、

稲川会長の半生を映画にしよう、ということで

その原作を私が書くことになった。



・岡田社長は、こう言った。


「稲川会長は、山口組の田岡一雄・三代目とならぶ日本の首領(ドン)だ。

関東のヤクザ、いや日本のもう一つの戦後史でもある。

とことん話を聞き出せば、スケールの大きいドラマになる」



・稲川会長が、住吉連合のように東京でもなく、

山口組のように神戸でもない、

神奈川県湯河原からスタートして、

熱海を本拠としながら、

稲川会をいかにして巨大な組織に成長させたのか、

にも興味があった。



・稲川にとっての転機は、

右翼の大立て者、児玉誉士夫と繋がったことであろう。



・稲川は、

「革命前夜」とさえ呼ばれた「60年安保」の騒ぎのとき、

左翼デモ隊の鎮圧に協力する。



・私は、政界、財界をはじめとした

さまざまな世界の作品を描くが、

政治家に対しながら、ふと思う。


<この人は、ヤクザの世界にはいっていたなら、

トップになれていたであろうか。

頭はいいが、度胸がなさすぎる、、、>



・私は、何人ものヤクザの親分たちに会ったが、

稲川聖城は、政治家になっていても、

まちがいなく首領と呼ばれる存在になっていたと思う。



・稲川会二代目会長の石井隆匡(たかまさ)は、

わたしが『修羅の群れ』を連載するときには、

刑に服していて娑婆にはいなかった。



・『修羅の群れ』の連載が終わって、

あるパーティで出所した石井理事長に会った。

まわりを黒服の若い衆が取り囲んでいたが、

石井は、まるで彼らとは

異なった雰囲気を醸し出していた。



・石井は、まるで大銀行の頭取か、

ビッグビジネスの幹部を思わせた。

白髪で、表情も穏やかである。



・稲川会長は、

長男で19歳であった稲川裕紘(ゆうこう)を

石井のもとで修行させることにした。



・石井は、昭和38年、

三代目の稲葉多吉から横須賀一家を

引き継ぐことになった。

39歳の若さであった。



・横須賀一家は、

横須賀、浦賀方面を縄張りとして

明治時代前に結成された名門である。

縄張りは、かなり広く、

伊豆七島までを縄張りとしていた。



・石井は、佐川急便の渡辺社長と縁を深め、

政界の「首領」金丸信ともつながっていく。



・金丸は、

盟友の竹下登を総理大臣にするため、

「ほめ殺し」の皇民党の動きを封じて欲しい、

頼み込む。



・誰が頼んでも、

断り続けた皇民党の稲本総裁も、

ぎりぎりのところで石井の頼みとあってはと、

石井の顔を立てた。



・私は、極高の絆で結ばれた、

稲川、石井二人の歩んだ人生を、

ヤクザのドラマとして描いた覚えはない。

あくまで戦後史であり、

戦後の政治と経済の裏面史として描いたのである。



・稲川聖城と石井隆匡は、

まさに、昭和、平成にまたがった、

日本の二人の「首領(ドン)」であった。



★コメント

裏口から、政治経済の歴史を見るのは、おもしろい。

ドラマチックである。



 

 



 

 



◆徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』を読み解く



★要旨



・「過去をより遠くまで振り返ることができれば、

未来をより遠くまで見渡せるだろう」

(ウィンストン・チャーチル、英国宰相)



・英国系投資銀行S・G・ウォーバークの幹部として東京支店長も務めた、

クリストファー・パービスは、若い頃、白洲次郎に薫陶を受けた。

彼らにとっても、今なお白洲は謎の人物だ。

特筆すべきは、その異常なまでの秘密主義だ。

クリストファーは証言する。


「次郎は吉田茂首相の右腕だったと聞きましたが、

なぜ彼が戦後、あれほど力を持っていたか分からないのです。

また彼は普段、手紙もメモも作成せず、口頭でメッセージを伝えることが多かった。

電話でも多くを語らず、アポなしでぶらりとオフィスを訪ね、

用件だけ言うと、すっと消えて行きました。

だから彼のメモすら残っていないのです」



・ジグムンド・ウォーバーグ卿といい、シェル会長のジョン・ラウドンといい、

白洲次郎の海外人脈には欧米ビジネス界の大物が目立つ。

それも単なる社交儀礼的な付き合いではなく、濃密なものだ。



・かつて英国は世界の陸地の4分の1を支配し、7つの海を自由に航海する世界帝国だった。

インドやアフリカなど広大な植民地と強大な軍事力は、

日の沈まぬ大英帝国と形容された。

その覇権を支えたのが、彼らのずば抜けた情報収集・分析能力だった。



・全世界に散った外務省、国防省、SIS(通称MI6、英国秘密情報部)の要員は、

現地から様々な情報を送ってくる。

その国の政治・経済情勢はむろん、有力者の性格、健康状態、

はては王室の内部事情と多種多様の内容だ。



・また各地に滞在する医師、商人も、仕事上知りえた情報を自発的に提供してきた。

これらは本国で綿密に分析、ファイルに蓄積された後、外交交渉で活用されてきた。

その膨大な文書を保管しているのが、ロンドン郊外にある英公文書館だ。



・周囲を緑に囲まれた静寂な環境にあり、

15世紀以前にさかのぼる英国政府の膨大な文書が眠っている。

大英帝国の英知が凝縮されたような場所だ。



・この英公文書館に私が興味を持ち始めたのは、1990年代はじめ、

英国ロイター通信で特派員として働いていた頃だった。

ここには幕末から現代に至る多くの日本ファイルが含まれる。

明治、大正、昭和を通じ、駐日英国大使館などが本国に送った報告書だ。

英国の視点で日本の現代史を見ると、歴史の実像が浮かび上がる体験が何度もあった。



・ロイター通信退社後も、仕事やプライベートで渡英する機会が多かったので、

その度に公文書館に足を運んだ。

そこで発見した文書を元に、存命する関係者を探し出し、

当時の秘話を聞くのが趣味の一つになった。



・かねてから英国は、植民地や同盟国の留学生を積極的に受け入れてきた。

その対象は各国の王族から政治家、官僚と多岐に渡った。

彼らの多くは、ケンブリッジやオックスフォードなど名門大学に入学し、

英国の上流階級と親しく交流する。



・帰国後も彼らは、かつてのクラスメートとの親交を絶やさない。

やがて、ある者は王位を継ぎ、ある者は政府の要職に就く。

そうやって築いたパイプは、英国が世界中で情報収集や外交を行う上で、

貴重なアセット(資産)になる仕組みだった。



・通常、英国政府は公式の外交ルートを通じて各国の情報収集を行う。

だが国によっては外交官が警戒される場合がある。

そこで考えたのが、石油や金融業界で活躍するビジネスマンを利用することだった。

仕事で世界中を回る彼らなら、怪しまれる恐れはない。

英国政府にとっては、ジャーナリストや作家も貴重な情報源だった。



・英国宰相チャーチルは、ずんぐりした体型に蝶ネクタイ、禿げ上がった頭が特徴だった。

片手に愛用のステッキを持ち、口から葉巻を離さない。

一日8本はくゆらす愛煙家で知られた。

スマートな英国紳士と程遠い、ユーモラスともいえる雰囲気を醸し出していた。

しかし彼の頭脳はその風貌とは正反対だった。

幼少の頃から名門ハロー校で教育を受け、卓越した弁舌、文筆力を備えていた。



・1940年5月10日、ドイツが快進撃を続ける中、チャーチルは首相に就任した。

6月18日、彼は議会で演説した。

「われわれは各自奮励して義務を遂行しようではないか。

そして、大英帝国がなお千年続くものならば、その時、人々はこう言うであろう。

『これが彼らの最良の時であった』と」


まだ見ぬ大英帝国の子孫が今の自分たちの戦いを見ている。

このチャーチルの言葉に、意気消沈した国民は奮い立ったのだった。



・英国政府は、天皇を中心に皇族のファイルを積み上げていった。

その対象は、皇族各員の性格、政治的コネクション、GHQの評価など多岐に渡った。

これらの情報はバッキンガム宮殿の秘書を通じ、英国王にも回覧された。

日本の天皇家が敗戦の試練をどう生き延びるか、彼らも見守っていたのだった。



・ある意味で、白洲次郎とは、

占領期に出現した国際的ブローカーだったといえる。

彼の人脈、性格、語学力が時代のニーズと見事に一致したのだった。



・現在、日本では「GHQに抵抗した唯一の日本人」「ダンディズムを極めた男」

などといった白洲のイメージが広がっている。

彼をナショナリズムの象徴として扱う向きすらある。

だが、彼の友人や英外交文書を通じて浮かび上がる白洲像はそれとは大きく異なっていた。

それは不幸な戦争で傷つき、英国との絆を必死に取り戻そうとした人間の姿だった。



★コメント

英国情報システムの遠大さを改めて知ることができる。

長期的に、物事を見ることの大切さを確認した。



 


 

 



 

 



 

 





◆小泉悠『オホーツク核要塞』を読む(その2)



副題

→「歴史と衛星画像で読み解くロシア極東軍事戦略」



★要旨



・ちまちまと手を動かす作業が、好きである。



・壮大な理論を紡ぎ出すより、

細かいデータや事実を拾い出しては、

表にまとめていくような営みが、

圧倒的に向くようだ。



・根がオタク気質なのだろう。



・本書では、

筆者のオタク気質を全開にしてみた。



・「オホーツク海が、ロシアの核戦略と密接な関係にある」

というのは、

長年、追い続けてきたテーマでもあるので、

割にサクっと書けるのではないか、

という思惑もあった。



・しかし、新しい本を出すたびに、

思い知らされるのは、

「サクっ」と書ける本などというものは、

存在しないということだ。



・頭の中には、モヤっとしたアイデアや知識があって、

あとは出力するだけだ、

という甘い期待をもって手を出すのだが、

実際に書き始めると、そうはいかない。



・頭の中にあるのは、未整理の、

あるいは、あいまいな情報の断片だからである。



・実際に体系立った文章にしようとすると、

それらの情報を修正し、アップデートし、

抜け落ちた未知の事実を掘り起こさなければならない。



・だから、書くことは、学ぶことに他ならない。



・本書の執筆についていえば、

その過程で新たに、

ロシア海軍の部内誌「海軍論集」の購読契約を結び、

カムチャッカ半島のルィバチー基地を撮影した、

衛星画像を購入した。



・冷戦期に書かれたものも含めて、

数多くの研究書や研究論文にもあたった。



・書くという行為は、孤独なものである。

それだけに書き手の限界や思い込みによる間違いによって、

書かれた文章には、なんらかの歪みが出る。



・海は、

国家の戦力投射能力を著しく制約する。



・敵が待ち構える、

海の向こうに兵力を送り込み、

兵站を行うのは、至難の業である。

かつて、ソ連といえども

千島列島上陸作戦くらいまでが、限度であった。



・日ソ間に、陸上国境が存在しなくなったことで、

ソ連の地上戦力に対する脅威は、

近代史上で最も低下した。



・これは、ソ連から見ても同じである。

ソ連にとっての最重要戦略正面は、

欧州であり続けてきた。



・だが、極東にも

日本という有力な軍事大国が存在したことで、

軍事力を東西に分散せざるを得ないという宿命を抱えていた。



★コメント

小泉さんの独自の視点がおもしろい。

見方を変えることで、無乾燥なデータが、

ダイヤモンドになる。


 

 



 

 



 

 


 

 



◆谷本真由美『外籠もりのススメ』を読む(その2)

(ペンネーム・めいろま)



副題

→「世界のどこでも生きられる」



★要旨



・ワタシの場合も、外国に行った理由は単純である。

ハードロックやヘビーメタルの趣味を極めるため。



・まず、それには、英語のスキルアップをしなければならない。



・なぜならメタルの歌詞というのは、

「ファックファックユービッチ」

「お前の脳は腐った内臓」

「俺は今から絨毯爆撃で、ビール飲んで、どんじゃらほい」

といった、

大変難解な英語だからである。



・教えてくれる人がいないから、現地に行こうと思ったわけ。



・日本人に生まれたってのは、実は宝くじに当たったようなもの。



・個性的すぎて、日本に合わなきゃ、海外逃亡すべし。

ダメなら、日本に戻ればいいわけ。



・世界を制覇するのは、

武器やスキルではなく、「ベシャリ」なの。

しゃべる力。



・長年世界のさまざまな場所に、

戦争しかけて土地を分捕り、

植民地支配をやってきた超極悪二枚舌国家イギリスさんも、

管理職やエリートの人々は、

この「ヨイショ芸」「しゃべり芸」が異様にうまい。



・シェイクスピアを輩出している国だから、

語彙が豊富なのもあるが、

「ま~お前、そんなこと、絶対思ってないだろう!」なことを

延々と語り、部下や海外オフショア先の「ソルジャー」を

うまく操る。



・イギリスにとっては、これはもうお家芸である。



・ヨイショがうまい奴は、どこに行ってもお呼びがかかる。

(救いようのない変態でも)



・グローバル人材は、ヨイショが異様に上手い。



・要するに、世界で活躍するには、

男の場合は「男芸者」、

女の場合はすばり、「芸者」になれっつーこと。



・ワタクシが、海外で初めて働いたのは、

ワシントンDCのK通りというところにある、ロビイスト。

ロビイストとは、

「客から金もらって、議員や学者に根回ししたり、

さまざまな黒い広報をやって、世論を操る真っ黒な仕事。

総会屋+悪徳広告代理店÷7」

のこと。



・この会社の偉い方々は、

元大使とか軍の高官とか、学者とか錚々たるメンバー。

彼らは、典型的な「褒めて伸ばす系」の皆さんだった。



・「褒めて褒めて褒めまくり」を

何百回もやっておると、

言われたほうのバカもだんだん気分がよくなる。

勘違いして、仕事を真面目にやってしまう。



・全世界、褒められてヨイショされて、

嫌な気分になる人間というのは、おりません。



・人間なんて所詮単純で、

世界中どこ行っても似たようなもの。

そういうわけで、

グローバルに働きたい方は、

ヨイショすることを学びましょう。



★コメント

建前なしの、歯に着せぬ、めいろまさんの

進言は身に染みるものがある。

学びつくしたい。



 

 


 

 



 

 



◆鱸一成『詐欺師×スパイ×ジェントルマン』を読む

(すずき・かずなり著)



副題

→「パトリシア・ハイスミスとジョン・ル・カレの作品を読み解く」



★要旨



・パトリシア・ハイスミスは、

22冊の長編小説と9冊の短編小説集を公刊した。

彼女は、

サスペンス小説の大家として評価されている。



・ジョン・ル・カレは、

26冊の長編小説を公刊した。

デビュー3作目の

『寒い国から帰ってきたスパイ』が

世界的ベストセラーになった。



・ジョンルカレの作品は、

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』

『スクールボーイ閣下』

『スマイリーと仲間たち』

のいわゆる「スマイリー三部作」をまず読んだが、

正直なところ、

当時の筆者の手におえるものではなかった。



・ルカレ作品の場合は、

救いようのない世界の中で、

登場人物たちを作者が何とか救い出そうとしていた。



・彼が描く作品のベースには、

ヒューマニズムがあり、

そのことが筆者をほっとさせてくれたのだ。



・パトリシアハイスミスと、

ジョンルカレの作品について書くことは、

2人の作品を読むと同じくらい楽しかった。



・これまで筆者は、

日記だったり、勤め先での報告書だったり、

あまたの文章を書き続けてきたが、

それらはルーティンであり、

書いていて楽しいと感じたことは一度もなかった。



・スマイリーは、オックスフォードの学生時代、

「17世紀ドイツ文化の研究という未開拓な分野に、

その生涯を捧げる覚悟でいた」

のだが、

両大戦間期の激動のヨーロッパで夢をあきらめて、

スパイの職に就き、

老いてなおホワイトカラー層の一員として働き続けた。



・彼は冷戦時代の申し子であり、

まじめに働く人々の代表だ。



・詐欺師とスパイは、どこか似ている。



・詐欺師もスパイも

まず相手を信用させないと仕事は始まらない。

だから詐欺師もスパイも、

リプリーやスマイリーのように、

紳士でなければ務まらないのかもしれない。



・作者ジョンルカレは、

仕事に没頭するスマイリーに託して、

仕事はなぜ大切なのか、

人はなぜまじめに働くのか、

組織に仕え成果を出すとか成功するとはどういうことか、

を問おうとしていた。



・ホワイトカラー化の進行とはまた、

事務仕事のルーティン化でもある。



・ホワイトカラーの職場は、

膨大な書類の山に囲まれた文書の世界だ。



・スマイリーは補佐役のギラムに命じて、

サーカスの文書保管庫から

過去のファイルを持ち出させて

真相究明のため膨大な文書に目を通すが、

彼の諜報技術をもってしても、

真相とか真実にたどり着くの容易ではない。



・山のように積まれた書類だから、

倉庫に眠るように保管されているファイルだから、

組織に不都合な書類がいつのまにか改ざんされていたり、

紛失してしまう事態が生じる。



・スマイリーは、

干し草の中の針を見つけ出すことに没頭していた。




★コメント

スパイ小説のなかから、

いろいろと教訓をつかみとる作業は楽しい。


 

 



 

 


◆近衛龍春『毛利は残った』を読み解く



★要旨



・毛利120万石の当主、毛利輝元は、

徳川家康と友好の誓書を交わしながらも、

反家康の武将たちに担がれ、

あろうことか西軍の総大将になってしまった。



・だが、自ら出陣することもなく、

家康率いる東軍に関ヶ原の戦いで敗れ、

総大将の責任を問われる。



・その敗軍の将を待ち受けていたのは、

苛烈ともいえる減封処分だった。

4分の1に減封された毛利は、

破綻寸前に追い込まれる。



・毛利家は、中国8ヶ国で120万石とされたが、

豊臣秀吉が太閤検地と称して行った厳しい実地検地を

毛利領すべてには実施していない。



・本能寺の変後に

追撃をかけなかったことへの配慮と、

小早川隆景への遠慮のため、

差し出し検地を認めていたので、

実質石高は200万石を優に超える。



・伊賀、甲賀の忍びを多数抱える家康は、

上方から関東への連絡網を整備しているので、

5日ほどで報せが届けられるが、

毛利輝元にとっては東国は敵地でもあるので、

関ヶ原の戦い前後、情報をつかむのが遅かった。



・毛利家は、「世鬼衆」という、

忍びの集団を配下に置くが、

このころの活躍はあまりない。



・9月、田辺城で籠城していた細川幽斎は、

後陽成天皇の勅使らの説得を受けて開城した。

天皇が戦の仲介を行った理由は、

「幽斎が討死すれば、本朝の神道の奥義、和歌の秘密が永く絶え、

神国の掟も虚しくなる。古今の伝授を禁裏に残さねばならぬ」

と心を痛められたからだという。



・西軍総大将だった毛利輝元は、

安芸、備後、備中、出雲、隠岐、石見の

6ヶ国を没収された。

残ったのは、周防、長門の2ヶ国であった。

石高は、約29万石。



・輝元は、家臣に頭を下げた。


「まずは、生きる最低の暮らしを確保し、

そこから積み上げて這い上がるしかない」



・徳川家は、関ヶ原後、さまざまな嫌がらせをした。

輝元は、逆に反発心が湧いた。


「毛利を潰さんとの画策であろうが、

こうなれば、絶対に生き残ってみせる。

石にかじりついても絶対に毛利は潰さん。

それが、儂にできる唯一の戦いじゃ。

この戦いには決して負けぬ。

追い詰められた武士の意地と力を見せつけてくれる」



・存続するためには、

どんな苦労も犠牲も厭わない。

毛利輝元は、両目を見開き、固く決意した。



・輝元は、江戸下りに伴い、雄大な富士山を見た。

(日本一の山を見ぬ武家は、天下を取れぬと申すが、まことかの)



・源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、

みな東海から関東出身者ばかりで、

間近ではなくとも富士山を目にしてきた者ばかり。

富士信仰というものがあるが、

なるほど肖りたい気持は判らないでもない。

(西の者は東の者に比べて、しぶとさがないのかの)



・天竜川、大井川、富士川、

箱根の難所を通らなければならない。

(家康は、毎度、かような苦労をおくびにも出さずに

上洛していたのか)

改めて、家康の胆力のようなものを

思い知らされたような気がした。



・僧侶、玄策西堂は、輝元に伝えた。


「これよりは何事も長く生きた方が勝ちでしょう。

亡き毛利元就公は、生きるためには必死で、

しぶとく、ときには阿漕に、ときには臆病に、

あるいは慎重に、それでいて腰を上げれば、

自ら先に立って、やれることは全てなされました。

お屋形様は嫡孫、なんのできぬことがございましょうか」




★コメント

毛利輝元と毛利家の執念を垣間見た。

学びたい。


 

 



 

 

◆岡倉古志郎『死の商人。戦争と兵器の歴史』を読む



★要旨



・J・P・モルガンが

インチキなカービン銃を種にボロもうけをした数年後、

日本でも鉄砲商売で大もうけをした男がいた。

その名を大倉喜八郎といい、

後の大倉財閥の始祖である。



・18歳の喜八郎は麻布飯倉の鰹節屋に奉公、

三年後には主人から養子に見こまれたがこれをことわり、

21歳のとき上野で塩物店をひらいて独立した。



・明治維新の動乱の時機に銃砲店をひらいたことが、

「死の商人」としての大倉喜八郎の成功のきっかけになったのである。



・戦争をするには武器が必要だ。

それを調達するのは、

昔から「死の商人」と言われる武器商人だった。



・彼らは戦争の危機を煽り、国防の必要を訴えるとともに、

「愛国者」として政治家に取り入った。



・名作『風と共に去りぬ』に出てくる、

バトラーは、「金もうけ」の点にかけても、

徹底した「哲学」と「モラル」の持ちぬしである。



→「俺は、金もうけのためなら、北軍、南軍、

どっちにでもいい、

うんと金をはずむ方に武器弾薬を売るのだ」。



・この「哲学」をたくましく実践することによって、バトラーのふところは、

戦争とともに肥ってきたのであった。



・バトラーの物差しは「資本主義」の物差しだったが、

アトランタ市の人々のそれは「封建主義」のそれだった。

そして、南北戦争を境界線にして、時代は、

「封建主義」の没落、

「資本主義」の発展を容赦なく切りひらきつつあったからである。



・「死の商人」としてのバトラーの「哲学」は、

「資本主義」の物差しにピッタリかなっていたのである。



・南北戦争中活躍した数百人の「バトラーたち」が

大手をふって利益をむさぼる絶好の判例になったことはいうまでもない。



・南北戦争の最中、怪しげな武器をつくって売ったり、

ヨーロッパから中古の武器を輸入したりして

暴利を収めた「死の商人」はかなりの数にのぼった。



・これらの「死の商人」どもが政府の官吏、軍人をだましたり、

買収したりして、わが物顔にふるまったことは、

モルガンを「裁判」した委員会のいきさつからも分る。 




・だから、モルガン事件の判決に腹を立てたリンカーンは叫んだ、

「こういう貪慾なビジネスマンどもは、その悪魔のような頭のどまん中をブチ抜いてやる必要がある!」。 



・だが、かれらは頭をブチ抜かれるどころか、

ますます肥えふとって戦争から抜け出した。



・モルガン財閥、デュポン財閥など現代アメリカの独占資本は、

実に、この戦争のなかから芽生えたものであった。



★コメント

あらためて、

戦争と軍需の歴史の凄みを感じた。