photo=rehearsal for next performance 2019 

 

 

 

stage info. 櫻井郁也ダンスソロ公演情報(公式webサイト)

11/9(土)〜10(日)新作公演決定

近日くわしいご案内の発表をいたします。

これまでの公演写真・記録

リハーサルなどの写真

 

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス 参加要項 

(からだづくり、コンテンポラリー、舞踏、オイリュトミー)

※8/25単発ワークショップあり(ご案内)

 

8月15日は終戦の日と教わった。敗戦の日とも教わった。この日本なるクニが生まれ直そうとした日が、この日なのではないかと思うこともある。この夏の一日を、ふだんとすこし異なる長さで過ごしてしまう。ことしの8月15日はたまたま仕事も稽古もなかった。台風ということもあって数年ぶりに家に居ることができた。沢山のことを思い出し、思い直した。とりわけ、明治生まれの祖母の呟きが思い出された。

酒気を帯びるたび戦争のことばかり話していた祖母の声の記憶がある。大阪大空襲で焼け出された祖母は、亡くなる直前まで、しょっちゅう戦時中のこと、いや、世の中が急速に変わっていってしまったこと、とりわけ、なにひとつさからうことさえできなかったこと、あっというまにオソロシイことになってしまったこと、を呟き嘆きつづけていた。空襲の記憶を語る語りそのものがどうにも目眩が起きるほど恐ろしかったのだが、それを語る祖母は、この日本という国の当時の状態に対して、なのだろうか、あるいはもっと彼女に身近で具体的なことごとに対して、だったのだろうか、あるいはしばしば力がなかったなさすぎたと言ったことそのことに対して、だったのだろうか、底はかとない、やるせない怒りを心に隠していたように、いま僕は思えてならない。小さな声なのに、話しているとソコハカトナイ怒気を帯びてゆくのが常だった。誰だ。あんなふうにしたのは誰だ。そんな感じのことを言い出すと、たちが悪かった。それが日常にすぎて、きくのが苦でもあったが、今思えばそれこそ必要なことだった。

世間では戦争の記憶が風化するなどと言われていたが、祖母は老齢になればなるほど当時の記憶が蘇るらしく、年々その呟きは激しくなり、ときにおそろしいと思うこともあった。あの戦争を起こした奴は誰だ。そんな、怒気を帯びた語り口のなかに、もうひとこと、本当に戦争が終わったとはどうも思えないわ、と言ったことがあった。あのひとことが、いまも記憶に引っかかっている。あれはどういう意味だったのか、もっと訊いておけば良かったのにと、いまごろになって思う。

本当に戦争というものは、あのとき終わったのだろうか。実のところ、戦争を知らないはずの僕でさえ、ふと思うことがある。デモクラシーのなかで、大正の自由思想の時代から、なぜ急速にファシズムが生まれ、ごく短期間に、あの戦争に反対できない状況が、いかに準備されていったのか。ひとびとの心理が、どう変遷したのか。ひとびとは、ひとりひとり、でいることが、どのように可能だったのだろうか困難だったのだろうか。わからないことが沢山ある。不思議で恐ろしくもある。いま、いまの世が、当時の流れに重なる点も、あるのではないか。あるように、僕は感じる。いかがか。

 

 

 

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「弔いの火  こどもたちのための70年目の8月9日 ナガサキ -」 

という作品からの写真です。

上演は、201589日、長崎・大村・松原小学校校庭にて。(当時の記事 

(ダンス=櫻井郁也、美術=瀧澤潔、主催=松原の救護列車を伝える会)

 

いつか再演したい作品の一つです。

この公演を主催してくださった「松原の救護列車を伝える会」の方々は今年も語り継ぎの活動を続けていらっしゃいます。

きょうは8月15日。

1年間の中でも特別にタマシイのことを思う日です。同時に、時の流れについて思う日でもあります。

世相が変わってゆく。政治や価値観が変わってゆく。世代も変わってゆく。

さまざまなものが1年また1年と変わってイることを、特に感じる日です。

変わってゆく様々なものに流されず、思いを変えずにいることができるのは、人間の個々の意思の力だと思います。

つらぬくこと、変わらないこと、行いの継続、ということ。

僕自身にとっても、それらは重要なテーマと考えています。

 

【次回公演】

119(土)〜10 (日)

櫻井郁也ダンスソロ新作公演2019

会場: plan-B (東京・中野)

Next Performance 9th and 10th November 2019 at plan-B Tokyo,Japan. 

 櫻井郁也ダンスソロ公演情報(Stage information)

※月末までには詳細のご案内を始めたく進めております。

 

【レッスン】

櫻井郁也ダンスクラス・オイリュトミークラス 参加要項 

※8/25単発ワークショップあり(ご案内)

 

 
 
 

 

七夕のあくる日だったから、ひと月ちかく前になるが、六本木でひらかれている塩田千春さんの展覧会に行った。力をもらった。

この人の作品にはじめて出会ったのはドイツのアーヘンという街だった。僕は振付家の仲野恵子さんに誘われて、その街のルードヴィヒフォーラムという劇場で行なわれるダンス公演に出演していた。2000年のことだった。

アーヘンは世界遺産の絢爛たる教会や温泉がある華やかな街で、デュッセルドルフからも近い。すこし電車に乗るとベルギーだ。稽古や舞台設営を含めけっこうな日数をそこで過ごしたが、とても良い環境だった。ルードヴィヒフォーラムは、地下に僕らを受け入れてくれた劇場があって、地上は美術館になっていた。リハーサルの合間に劇場から抜け出して、美術館をのぞきにいった。

二階建ての家ほどもあるような巨大なドレスが高い天井から吊るされていて、そこから水が滴り落ちて雨のような音をたてていた。息をのんで立ち尽くした。しかし観たことも感想も誰にも言いたくない、と何故か思った。見るべきものが、いま目の前にある。と思った。しかし反面、見てはならないものを見ているのではないか、そんな気持ちも湧いた。ぐらついた。あの心の揺れを、とてもよくおぼえている。この作品の作者が塩田千春さんだった。

19年たって東京で観た今回の展示は、大規模なものだった。スケールの大きいインスタレーションが大半だったが、それらはいくら大きくても繊細で密度と熱があふれていて、血の通った作品だと思った。ひりひりした感覚におそわれた。心臓に近づいてゆくような錯覚を得た。

旅、という言葉がキャプションのどこかにあった。その言葉がこの人の作品と僕をすこし近づけてくれたように感じた。

旅行が好きなわけではない。だけど、いつも旅の途中に居る感覚がある。僕は18から東京に居る。この街が好きで長く暮してきた。だが、実は旅の途中なのかもしれない、そう思うことが正直たまにある。

ここはどこか、わたしはどこからここにきて、どこにいくのか。時折そんなことを思う。旅。わたしは旅をしている。

踊りをしてきたなかで、トルコの旋回舞踊セマーをほんのすこし学んだ時に、旅、という言葉を教えられた。そんな記憶もある。彼らによると、踊りの追求は魂の旅だというのだ。身体を音と運動に委ねきって行くところまで行けば、カラダはこの世この場に在ったままでも心は別世界への旅に出るという。不思議なことではないと思う。ココと彼方は僕らの身体で接している、僕はそう思う。

ダンスの練習をしているとき旅のような気分を体験することがある。普段とは別の感覚世界に居る気分である。塩田さんの作品の前にいるとなぜかその感じを思い出してしまう。理由はわからない。だが、おもえば、この人の作品から僕はとても大切な旅をもらっている。旅するなかで味わう切なさに限りなく近い感覚を、僕はこの人の美術からなぜか感じる。この日も感じた。

 

 

 

 写真は同展にて撮影。

 

 

 

 

 

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「僕はここにいる。

 僕はあちら側にはいない。

 ここにいる。

 ここにいる。

 ここにいる。

 ここにいるのだ。

 ここにいるのが僕だ。

 ああ、

 しかし、

 どうして、

 僕は僕にそれを叫ばねばならないのか。」

 

という、原民喜の鎮魂歌にある一文の、この部分の文字の一々が、なかなか網膜から消えない。文意から離れて、死者からの手紙のように、この文字の一々が、おそろしく、消えない。

長崎70年忌に献舞させていただいたときにも思ったが、原爆は過去のことではないのではないか。僕らは原爆という出来事から逃れることはできないのではないか。いくら時が経っても、僕らの存在場から消すことが出来ないものが原爆なのではないか。これを克服しない限り、人は人を心から信頼することが出来ないのではないか。ふと、そんなことを思う。

直接の被爆体験がない僕の、戦争体験もない僕の、それらが風化してゆくと言われている中を暮らしてきた僕の、内心の一点に、深く打ち込まれて抜けない杭のようなものが確かにある。なぜか。なにかが祖先から遺伝して残留しているように感じてならない。なぜか。もしかして、僕らの存在は原爆から始まり直したのではないか。とさえ妄想する。なぜか。

なぜか。と、思う、思いつづける。

忘れてはならないと語り継がれつつも忘れなければ逃れることが出来ないような痛覚、しかし忘却というものが招き入れるかもしれない、もっと恐ろしい何かの予感。を、いまのいま感じる。

生の側に、いる。そのことのもつ重さ。しかし原爆をたしかにけいけんした人間の子孫であるワタクシタチニッポンジンがいま立っているここの、この収束しない放射能禍。たとえばそのようなことごとを始まりとして迷路そのものとしか言いようのない現在此処を皮膚に感覚するとき、上掲の一文の文字の一々が、パッツンと網膜にたちあがってきて、仕方がない。

「ああ、」

「しかし、」

「どうして、」

という三つの言葉は、特に突き刺さるのだ。網膜から脳みそに、脳みそから心臓に向かって、何度も何度も、来る。ああ、しかし、どうして。ああ、しかし、どうして、、、。

「原爆」をへて生まれた一人一人への圧倒的な問いが、この一文のなかには広がっているように思えてならない。

はちがつむいか。はちがつここのか。

原爆忌というのは、ある意味、私たちがなぜここにあり、いまどこに行こうとしているのか、ということを思考するための、生に対する思考を思考停止しないための、毎年毎年に巡り来る「起点」なのではないかとも思えてくる。

 

 

 

stage 櫻井郁也ダンスソロ公演情報(櫻井郁也/十字舎房webサイト)

次回=11/9〜10に決定。近日、詳細を発表します。

 

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たやすく言葉にしてはならない言葉、

しかし、

さがしつづけねばならない言葉、

というような言葉が、

どこかに、まだアルにちがいない、、、、、。

地上のどこか、

あるいは、

肉体のどこか、

あるいは、

すでにここにはないなにかの、

どこかに、、、。
 

 

(Text and Photo=from notes for ”3.11SILENT” 2011. )



上のテキストや図像は震災直後のものだ。8年たっているが、僕にとってはまだまだ進行中の思考断片である。

 


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