【400文字作文】 Another, mother

誕生日に母が譲ってくれたイタリア製のバ
ッグに、そのメモは隠れていた。
シバタという男の名前と電話番号が書かれ
たこのメモは何度も開かれ、閉じられ、しわ
くちゃで今にも破れそうで、その紙のもろさ
としぶとさが、シバタという男そのもののよ
うで、私はシバタを可哀想だと思った。
母が、このバッグをお父さんに買って貰っ
たのは二十八才の時だったのよ。と私に話し
てくれたのは、私が大学生の時だった。じゃ
あ私が二十八才になったら頂戴ね。と母に言
ったことを母は覚えていてくれた。私が何気
なく言ったことを母はよく覚えている……。
ねぇ。と台所にいた母に声を掛けた。母は
いつものように微笑みながら、ん?と応え、
なによ。と言った。
母に何も言えなかった私は部屋に戻り、く
しゃくしゃになっているメモを、ゆっくり開
いた。シバタという男の名前が私の手の汗で
滲んで、消えそうになっていた。
【400文字作文】彼のつまさき 彼女のかかと

五十人も入れば身動きができなくなりそう
な小さい箱だが、その日の客は二十人程度で
ライブは全く盛り上がっていなかった。
客を煽ろうと、声を張り上げていたヴォー
カルが、ぽたぽたと垂らす汗だけが印象に残っ
ている。
彼らにとっても客にとっても残酷だったラ
イブは終わり、フロアでは何も見ていなかっ
たかのように、客や演奏を終えたバンドマン
が笑いながら酒を飲んでいる。
その雰囲気に苛立ちながらステージの方を
見ると、安物の画用紙みたいな緞帳とステー
ジのすき間から、黒いパンプスと茶色いスニ
ーカーが見えた。
だろ・うん・てるよ、と低い声がして、だっ
て・でしょう・くて・もぉ、と甘えるような
女の声が聞こえてきた。
茶色いスニーカーが黒いパンプスに近づく
と、黒いパンプスのかかとが少し、浮いた。
二人の靴も、キスをしているようだった。
【400文字作文】ど根性ダイコンの憂鬱

私は、ただのダイコンです。ですが「ど根
性ダイコン」と呼ばれて何年か経ちます。
偶然、脆いアスファルトの隙間に産まれた
だけなんです。
なのにヒトは私を珍しそうに眺め、写真を
撮り、勝手に物語を作るんです。
私みたいなただのダイコンに手を合わせ、
涙を流す老女も入れ歯、私という材料で金を
儲け、女のふくらはぎのような、美しいキュ
ーリを買った奴もいるようです。
繰り返します。私はただのダイコンです。
特別な能力も無ければ、子孫を残すために
有利な土すらそばに有りません。
畑で産まれ育つ大多数のダイコンより、ち
ょっと不利な環境と条件に産まれただけなん
です。なのに何故ヒトは私を笑い、涙し、忘
れるのか。
あ、そういえば先日、乞食が私を見て、舌
なめずりをしてくれました。
旨味が出るほど、嬉しかったです。