東北地方でのボランティア活動
私たちの教会のネットワークは、日本にも広がっているのですが、今年3月15日から、東北地方でボランティア活動を始め、今も主に石巻で活動を続けています。私は、仕事でよく日本に出張するので、そのたびにボランティア活動をしようと思っていたのですが、なかなか日程が合わず、やっと今月、短い期間でしたが、石巻に行くことができました。
このグループは、かなり被害が大きかった海沿いの地域に近いところにある家を買って、それを直してベースとして使っています。しかし、まだお風呂が使えませんし、近くに銭湯がないので、一番近い銭湯(と言っても車で30分くらいですが)の近くの道場を借りて、寝泊りだけはそこでしています。もうすぐ、すぐ近くの銭湯が再開すると言うことですので、そうなれば、かなり便利になります。
活動は、基本的に二種類あります。一つは、物理的なもので、家の解体、解体した家やその他のごみ処理、道路の両脇の下水掃除などです。私たちも下水溝の掃除をしたのですが、海岸から数十メートルのところでしたので、被害が大きくて、ほとんどの家はまだ誰も住んでいません。しかし、高いところには人が住んでおり、下水はもちろん高いところから低いところに流れていきますから、低地の下水が詰まっていたのでは困るのでしょう。
作業は単純で、まず大きな石のふたを開けて、中の泥(と言っても、もうかなり乾いていますが)を袋に詰めて積み上げておき、後でまとめてそれらを捨てに行くというものです。泥には、どうやって溝の中に入ったのだろうと思うような大きな瓦や壁のかけらなどが混じっています。もちろんガラスの破片もありますので、泥の袋を持つときには気をつけなければなりません。水分を含んだ泥は重く、石のふたはもっと重いので、普段何の運動もしていない私にとっては大変でした。
もう一つは精神的なサポートです。と言っても、私たちはみな素人で、心理学者や精神科の先生ではありませんので、カウンセリングをしたりするわけではなく、皆さんの励ましになるのではないかと思うような催し物をしたり、ただ話し相手になったりするだけです。今回は、近所の団地の子供たちを集めてかき氷を作ってあげたり、ゲームをして賞品を上げたりしました。また、土曜日は、金曜日に仕事が終わってから一晩中バンをドライブして駆けつけた大阪のボランティアたちの手も借りて、空地で200食ほどの焼きそばを作り、近所の人たちを招きました。
このグループは、常駐の人は二人ですが、それ以外にも入れ替わり立ち代り、ボランティアが出入りしています。私がいた4日間も、たまたま石巻駅で出会った人が二人ほど加わりました。私たちにできたことは、数十メートルの溝掃除と、解体した家の瓦礫と近所の池の周りの瓦礫の除去くらいでしたが、少しずつやっていくよりほか、方法はありません。英語でよく使われる表現で、「象をどうやって食べるか」と言う質問があるのですが、答は「一口ずつ」です。
今回、一緒に行ったある女性がいろいろな人と話して思ったそうですが、以前よりも泣く人が増えたと言っていました。「どうしてらっしゃいますか」と聞いただけで、号泣する人が多いと言うのです。以前はそんなことはなかったそうですが、なぜかはよく分かりません。ボランティアの人たちとだんだん仲良くなってきて、抵抗なく感情を表せるようになったのかもしれません。いつまで経っても生活に見通しがつかないので悲観的になっているのかもしれません。あるいは、今まで押さえていた自分の感情を直視することができるようになったのかもしれません。ある近所の方は、行方不明になったお母さんのお葬式を数日前にしたばかりだそうです。やっと、精神的にも収拾をつける時期が来たのでしょうか。
私の知り合いが、石巻で不動産業をしています。彼女は、地震の直後、入居者の安否を確認するために物件を回り始めました。その途中で、彼女は津波に遭ったのです。500メートルほど泳いで、実家にたどり着き、2階で一晩過ごしたそうです。一晩中、助けを求める悲鳴が聞こえていたそうです。
彼女が、ちょっと厳しいことを言っていました。このような大惨事のときには、善と悪の差がはっきりと出ると言うことです。入居者のことなどほったらかしている不動産業者もあれば、彼女のように命を賭けて守った人もいます。一生懸命復旧作業をしているボランティアもいれば、支給されたお金で一日中パチンコをしている人もいるようです。平和なときにはみんな良い人でも、いざとなったら本性が出るということかもしれませんね。
ネパールから帰って来た宣教師の息子
ある日、私たちの教団のある面識のない元宣教師から、突然メールが来ました。彼の息子さんがハワイ大学で日本語を専攻しているのですが、寮の申し込みが遅れて住むところがないので、どこか住めるところがあれば紹介して欲しいと言う内容でした。私のうちは、すでに5人家族以外に4人の人が住んでおり、空き部屋はありませんでしたので、泊めてあげることはできませんでしたが、三男も、ハワイ大学で、専攻はしていませんが日本語を取っていますので、もしかしたらお互いの顔くらいは知っているかもしれないと思い、秋期の授業が始まる前の週末に彼を招待しました。
二人はそれまで会ったことはありませんでしたが、すっかり息が合ったようで、すぐに仲良くなりました。彼は、大学の近くのホステルに泊まっていたのですが、もうすぐ害虫駆除の薬を撒くので、一度出なければいけないと言うことでした。しかし、住むところが見つからないので、結局私たちの家の居間に見つかるまで寝泊りすることになったのです。
彼は、13歳から18歳までネパールに住んでいました。この裕福なアメリカで育った少年がネパールのような貧しい国に行くのは、さぞかし大変だっただろうと思いきや、彼が言うには、アメリカに戻ってきたときのほうが順応するのに戸惑ったそうです。いわゆるリバース・カルチャー・ショックです。 ネパールでは、政治の混乱で外出禁止令が出、軍に見つかったら撃たれるかもしれない中を学校に通ったこともあり、プロパンガスが手に入らなくて、標高の高いネパールで、暖房や料理ができなくなったりしたこともあるそうです。いろいろ苦労をしたようですが、まだ若かったので、順応性があったのでしょう。
しかし、ある程度大人になって米国に帰ってみると、そこで待っていたのは決して心地よい楽しい生活ではありませんでした。自分の周りの若い人たちが、物事にあまりにも無関心で受身なのが、とてもショックだったようです。ご両親と一緒にネパールのために尽くしてきた彼には、いったいアメリカの若者は何のために生きているのか、と疑問が沸いて来るのだそうです。目的のない人生ほど、つまらないものはありません。
それにしても彼、このままじゃ、ずっとうちの居間に居候しそうな雰囲気です。
レイプの犠牲者
半年ほど前、家内が数年前働いていた店の上司から電話がありました。妹夫婦がアメリカ本土から引っ越してきたのだが、当てにしていたところに住めなくなったので、しばらく泊めてあげてくれないかというのです。妹さんのご主人は、建築労働者でしたが、不況で解雇され、妹さんの里のハワイに引っ越してきたわけです。今、アメリカの建築業は失業率がほかのどの業界よりも高いので、仕事が見つかるまでには相当かかるでしょう。妹さんは一見普通の人でしたので、なぜ働かないのかなと思っていました。お姉さんの店で働こうと思えば、雇ってもらえるはずだと思っていたのですが、こちらから根掘り葉掘り聞くことはしませんでした。
ある日、二人をバーベキューに招いてあげて、一緒に食事をしていたら、妹さんが身の上話を始めました。以前、レイプされてから、不安発作で、外に一人で出ることができないのだそうです。誰か知っている人がそばにいないと、不安で仕方がないのです。知らない人の中にいると、自分は大丈夫なのだろうかという不安ばかりがつのって、まともに会話をすることもできません。教会の礼拝にも、出たい気持ちはあるのですが、今はまだ難しいと言うことでした。もちろん仕事などできる状態ではありません。
レイプ自体は、気を失って、何も覚えていないそうですが、心に相当深い傷を残してしまいました。今、精神病医の指示で、少しずつ知っている人から離れた場所に行ったり、それほど良く知らない人と一緒にいたりする訓練をしています。3年ほど前ガンになり、もう数年しか持たないかもしれないと言われたのが治ったので、残りの人生を有意義に生きたいと思って、一生懸命がんばっているのだそうです。
ほんのつかの間の楽しみのために彼女の人生を狂わせてしまった犯人は、彼女が長い間どれほど苦しんでいるのか、きっと知らないでいるのでしょう。しかし、同時に、そんな犯人を恨む気持ちは、彼女を被害者意識に閉じ込めてしまいます。被害者でありながら、被害者としての自分にとどまる限り、痛みは続くだけだというジレンマがあります。でも、彼女のポジティブな態度を見ていると、この不安を克服できる日は、そう遠くないような気もします。心から応援をしたい気持ちです。