大野純司のブログ -55ページ目

いなくなった猫、帰ってきた猫、死んでしまった猫

 もう8年くらい前でしょうか。知り合いが、家の近くで、生まれたばかりの黒猫を3匹見つけ、飼ってくれる人を探してくれないかと言って、私の家に持ってきました。断れないで、早速、猫用の哺乳瓶を買って来てミルクをあげながら、飼ってくれる人を探しましたが、結局見つかりませんでした。仕方なく、動物愛護協会に持って行って、引き取ってもらおうと思ったのですが、こんな子猫を世話するだけの人手がないので、もう少し育ててから持ってきてくれと言われました。ここまで読むと後は見当がつくと思いますが、育てているうちに情が移ってしまって、子供たちにねだられて飼うことになったのです。

 2匹のメスは避妊手術をしたのですが、オスは去勢しなかったせいか、大きくなって、オスがメスと仲良くしようとしても、ぜんぜん取り合ってくれません。それが理由かどうかはわかりませんが、ある日突然、オス猫はいなくなりました。猫は帰巣本能がないらしいので、誰かに抱かれてちょっと遠くまで連れて行かれたりすると、帰って来ることができないそうです。もしかしたら、事故で死んだのかもしれません。

 それから数年後、太っている方のメス猫がいなくなりました。またかと思いましたが、なすすべもありません。ところが、いなくなってから2年ほど経って、動物愛護協会から連絡があり、うちの猫が見つかったと言うのです。誰かが届けたので、避妊手術をしようとしたところ、もうしてあったので、もともと協会で手術をした猫ではないかと考えたそうです。だとすると、買主などの情報の入っているチップが体のどこかにあるはずなので、それを探して情報を読み取り、うちに連絡が来たというわけです。

 犬と違って、猫は2年も別れていた飼主を覚えているかどうか疑問だったのですが、引き取りに行くと、以前以上にフレンドリーでした。私たちを覚えていたから喜んだのか、それとも長いのら猫生活の中で、人と仲良くして餌をもらう術を学んだのかは、よく分かりません。戻ってきたときは痩せている姉妹の猫と同じくらいの体重でしたが、あっという間にもとの太った体形に戻ってしまいました。

 3匹目の痩せ猫は、どういうわけか私が気に入っていたようで、私がよくいたずらをするにもかかわらず、忍耐していつもそばにいてくれました。最初にもらったときは、家内と犬と3匹の猫でダブルベッドに寝ていたものですが、いつの間にか猫たちはお互いの仲が疎遠になり、いつも私たちと寝ていたのは、犬とこの痩せ猫でした。背中に、周りより色がちょっと薄い斑点が一つあるので、ドット(点)と言う名前にしました。アメリカの漫画にガーフィールドと言う猫がいますが、わたしは、それに似たちょっとふてくされたようなドットの表情が好きでした。

 ところがこのドット、あまり元気がなくなったので、動物病院に連れて行ったところ、白血病だと言われました。猫は、もうだめだと思うと隠れてしまうので、そうなると一人で長い間苦しんで死ぬことになるから、そろそろ危ないと思ったら、病院に連れてきて安楽死させなさいと言われました。そう言われた翌日、早速ドットがいなくなりました。いなくなった翌日、長男が探してやっと見つけたので、もうこれは連れて行ったほうがいいということになり、その翌日家族6人と、一緒に1年ほど住んでいた男性と一緒に、ドットを連れて行きました。

 みんなで小さな部屋に入って、看護婦さんがドットに注射をしました。痛がる様子もなく、じっとしていたのですが、数秒後、体がぐったりして、死んでしまいました。みんな泣いていました。

 小さいときから育てたせいか、3匹とも私たちを親だと思っていたようで、何をしても怒りませんでした。私は、よくしっぽを引っ張ったり、嫌がるのにひっくり返してお腹をなでたりしていたのですが、そのうち、自分たちの方からひっくり返って、お腹をなでて欲しいと言うそぶりをするようになりました。特にドットは家内をお母さんだと思っていたようで、大人になってもときどき寝ている家内のそばに座って、おっぱいを吸うまねをしていました。

 残念だったのは、ドットに、これから自分に起ころうとしていることを知らせることができなかったことです。今までのことを感謝しようと思っても、慰めようと思っても、別れを告げようと思っても、本人は何も知らないうちに、命が消えてしまいました。私たち人間は、死が近いことを知ることができます。しかし、どうでしょうか。分かっているのは、自分が死ぬと言うことだけで、それ以後のことは、猫と同じで、実はなにも分かっていないのではないでしょうか。私たちがドットに起ころうとしていたことを知らせたかったのと同じように、私たちの主である神も、死後、私たちに何が起きるかを知ってもらいたいと願っているのではないかと思わされました。

前科一犯のお母さん

 知り合いの知り合いの知り合いがハワイに引っ越すということで、うちに住めないかという問い合わせがありました。ところが、そのメールが私の古いアドレスに届いたため、気がつくのが遅く、結局話が決まったのは引っ越す三日前のことでした。本土から引っ越して来たのは、お母さんと高校生の娘さんの母子家庭です。大きな部屋へ案内しようとしたところ、部屋代に払えるお金がないし、小さな部屋で十分だと言われ、二人は家の中で一番小さな寝室のダブルベッドで寝るようになりました。元看護婦さんだったお母さんは、ハワイ大学で民族植物学、と言うと難しいですが、簡単に言うと、薬草の勉強をするために引っ越してきたのです。

 このお母さんは、とてもいい人で、あっという間に家族の人気者になりました。自分の娘もうちの息子たちも、よく褒めたり、励ましたり、助けたりして、いつも会話の中心になりました。いつもは嫌がる犬の散歩も、彼女が一緒に行こうというと、みんな喜んでついて行くのです。今まで、短期の人もいれると何十人と言う人がうちに住んだと思いますが、こんなにいい人は初めてかもしれないと思うくらいでした。(今まで泊まった方、ごめんなさい。)

 ところが、彼女に関しては、もう一つ「初めて」のことがありました。少なくても、今までうちに住んだ人の中で、私たちの知っている限り、重犯罪で有罪になって刑務所に入ったことのある人は、彼女が初めてです(隠していた人はいるかもしれません)。彼女は、何の不自由もない中流階級に育ち、ごく普通の生活をしていましたが、7年前、コカインやクラック(高純度のコカイン)を常用していて、娘さんの扶養権を失い、ホームレスになり、挙句の果てに麻薬所持で刑務所に入ったという前科者だったのです。

 信仰を持って、人生が変わった人はたくさん知っています。自分もその一人だし、周りにはそういう人がたくさんいますが、そこまでどん底に落ちてからこんなに素晴らしく再生した人と一緒に住むのは、今回が初めてです。「すごい」の一言。ホームレス・シェルターで働いている次男にとっても、大きな励ましです。

 「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」(新約聖書コロサイ人への手紙3910節)

ロッキー山脈の山火事

日本で地震があって間もなく、私は、米連邦緊急事態管理局の緊急救援のボランティアの免許を取りました。私の教団がちょうどその時期にトレーニングをすることになっていたのですが、日本でも通用する資格だと言うことでしたので、取ることにしたのです。その後、時々災害があると連絡が来るのですが、何しろ話が急に来ますし、行き先が米国本土で遠いので、実際に行くことは無理でした。

ところが、今回、ニュー・メキシコ州の山火事の被害者のケアのために行かないかと言う話がありました。他の災害と違って、山火事の被害はだんだんと広がりますので、連絡から実際に行くまでにかなりの時間的余裕がありました。また、ちょうど私の仕事の予定もかなり暇でしたので、ほかの人に仕事を頼んで、一週間あまり、ルイドソと言う小さな町に行ってきました。被害が一番大きかった地域に、教会があり、そこに何十人かのボランティアが泊まっていました。

私が着いたときにはもう火はほとんど消火されており、私の仕事の一つは、被害者の方を見つけて、物理的感情的問題の相談に乗ってあげることでした。かなりの人が火災保険に入っていないのには驚きました。ローンの支払いが終わって、小額の年金生活をしているような世帯では、保険料を払うのも大変なのでしょう。亡くなった方はいませんでしたので、正直言って、「家が燃えても、保険で建て直してもらえばそれで済む話だ」くらいに思っていたのですが、それどころではありませんでした。年一回の保険料の支払いを忘れていて、保険が下りるかどうか分からないと心配していた夫婦もいました。

また、間接的な被害も多く、ある夫婦は、大家さんの家が焼けてしまって、自分たちが借りていたトレーラーハウス(移動住宅)を出ることになりました。そこで、中古のトレーラーハウスを買おうとしたところ、ただであげると言われたのです。そのトレーラーハウスを売りに出していた夫婦は、二人で祈った結果、あげることにしたと言うのです。

被害者の世話をするに当たって、一番助けになったのは、地元でレストランを経営している夫婦でした。小さな町ですから、ほとんどの人を知っていて、私たちに被害者の連絡先を教えてくれました。レストランの倉庫に寄付された食料や寝具を積み上げて必要な人に配り、店のメニューには、「困っている人はただで食べ放題!神様の祝福がありますように」と書いてありました。焼けた家の後片付けにかかる費用も、業者と交渉して割り引いてもらい、火災保険のない人の費用は寄付金でまかなっていました。夫婦二人だけで、よくこれだけのことができるものだと、感心しました。

もう一つの仕事は、サマリタンズ・パースと言う団体の仕事を手伝うことでした。この団体は、東北でも活動しましたので、ご存知の方も多いでしょう。実際、東北に行ったという人にも、何人かお会いしました。いろいろなことをしてくれる団体ですが、私が助けたのは、焼けた家を片付ける準備です。焼け残った大きな金属製のものをまず取り払い、残った灰の中にうずもれている思い出深いものを探す作業です。もちろん、金属や陶器でないと焼け残っていません。見つけて欲しいと言う要望が一番多いのは指輪です。

私は、この作業を二日しましたが、1日目の家は、もうご主人を亡くした老婦人の家でした。婚約指輪と結婚指輪を探してほしいと言うことでしたが、見事見つけることができました。焼けてすすだらけでしたが、熔けてはいませんでした。身体全体を守るオーバーオールを着て、普通のマスクではなく、ガスマスクのようなものをしての作業ですので、暑くて大変でしたが、報われました。

二日目は、あるご老人の家でしたが、その娘さんも手伝いに来ていました。その方が何と、私のハワイの家から車で5分くらいのところに住んでいる人だったのです。それだけでなく、その方の職場は家から歩いて10分くらいのところで、三男の親友のアルバイト先でした。ハワイに帰ってから、その方の職場を訪ねて話をしましたが、いろんな人に助けてもらって、まるで天使に囲まれているようだったと話していました。自分が退職したら、そこでお父さんと一緒に住もうと思っていたそうです。失ったものも多かったけれど、得たものも多かった、そして何が本当に大切かと言うことを教えてくれた経験だったと話しておられました。

振り返ってみて思ったことですが、結局、国や州の政府のお役人には全く出会いませんでした。実際に現場で働いていた人たちは、地元の人や私たちを含め、ほぼ全員ボランティアの人たちでした。結局は、何事も私たち個人の力の集大成なのだなと実感させられた旅でした。