ラフー族(続き)
去年の今頃、ラフー族 というブログを書きました。タイとミャンマーの国境の町、メーソットからドライブして1時間くらいの山奥にあるラフー族の村に宣教に行った時のブログなのですが、4人の女の子が長男の嫁ととても仲良くなって、村を出るときに泣き出してしまった話です。
今年は、その嫁が妊娠して来月には長女が生まれる予定だし、3男は5月に大学を卒業して6月から働き始めたばかりで、休暇が取れないので、みんなでタイに行くのは無理だと思っていました。ところが、去年一緒に行ったNさんが自分ひとりでも行くと言うし、嫁も、行ける人だけでも行けばいいと言うので、去年肩の怪我をして行けなかった家内と、次男と、Nさんとで行くことにしました。残念ながら、Nさんはお母さんが病気で入院されたので行けなくなり、家族3人だけでメーソットに2週間ほど滞在し、その後、カンボジアのシエムリアプで宣教師をしている友人を4-5日訪ねることにしました。
嫁は、仲良くなった女の子たちに、ささやかなクリスマス・プレゼントと去年一緒に撮った写真を用意して、4人を見つけて渡すよう、私に託しました。その地域には、ラフー族の村が四つあり、4人がどの村の子であるかも知りませんし、分かっていたのはその子たちの顔と名前だけでしたので、正直、見つけることができるかどうか自信がありませんでした。
そして大晦日の今日、地元の牧師さんに案内してもらって、その村に行ってみました。4人のうち一人は、その村の子で、間もなく見つけることができ、無事プレゼントと写真を渡すことができました。ところが、後の3人は、教会が運営している孤児院の女の子だと言うことが分かり、そこに行ったのですが、大晦日で、孤児たちはほぼ全員親戚の家に帰っていると言うことでした。仕方なく、孤児院の方に女の子たちの写真とプレゼントを預けました。
会うことができなかったことも残念でしたが、その孤児院の貧しさには驚きました。今年は、メーソットの孤児院のペンキ塗りをしたので、タイの孤児院がどんなところかは見当がついていたつもりでしたが、雲泥の差でした。真中に食事や礼拝に使うテラスがあり(テーブルや椅子は見当たりませんでしたが)、その両側に女の子たちの部屋と、男の子たちの部屋があります。写真を見ていただければ分かると思いますが、真ん中に一つ電球が垂れ下がっているだけの昼間でも暗い小さな部屋に、女の子は18人、男の子は19人が住んでいます。床は冷たいコンクリートで、アメリカなら、部屋というよりは物置として使っている地下室という感じです。ひしめき合っているので、一人が風邪をひくと、全員にうつってしまうと言うことでした。しかも、山の中の何もないところにポツンとあるので、とても寂しい感じです。働いている人たちがとても暖かそうな人たちなので、それだけが救いでした。
でも、去年のブログを読んでいただければ分かると思いますが、ラフー族の家族に育てられるよりは、まだこの孤児院の方が幸せかもしれません。ラフー族の女の子たちは、生理が始まる前からフリーセックスにふけっているので、この子たちも、もうそろそろ誰がお父さんかもわからない子供を妊娠していてもおかしくない年頃です。実は、早くまたメーソットに行ってどうにかしないと、この子たちも妊娠してしまって、手遅れになるかもしれないと、嫁と話していたところでした。
この子たちにとって、部屋の大きさや食事の質よりも、育ててくれる人の愛情の方が、ずっと大切でしょう。去年のブログに、この子たちは自分とそう歳の変わらないお母さんから受けることのできない愛を嫁に感じて泣いたのかもしれないと書きましたが、彼女たちにはお母さんはいなかったのです。嫁も、自分自身が妊娠したので今年はメーソットに行けないけれど、この子たちのことを思って残りの家族に行くように説得し、ささやかなギフトを託したのだと言うことがこの子たちに伝わることを願っています。
本当の自分とは
感情を表すと、それが拒絶されるのが怖いと感じることはよくあります。好きな人に愛情告白しても断られることが怖いと言うのは、誰にでもある恐れで、仕方がないことですが、日常生活の中でこのような怖れをいつも感じている場合は、何が問題なのかを考えてみる必要があるかもしれません。
心理学者は、マッピングと言うのをやるそうです。マッピングと言うのは、英語のマップ、つまり地図と言う言葉から来ていますが、仲間同士で話し合って、自分のマップが他の人のマップとずれていないかを確認し合うのです。つまり、自分でこれが普通だと思っていることが、実はほかの人から見ると普通ではないかもしれません。カウンセラーの仕事というのは、通常一人でやりますが、知らないうちに自分の感じ方の地図がほかの人とずれているかもしれないので、確認し合うわけです。
自分の感じ方がおかしいと言われることを恐れていたのでは、マッピングはできません。また、おかしいと言われることは、自分が受容されていないことでもありません。自分の感じ方が否定されることと、自分自身が否定されることとは、別なのです。とは言うものの、多くの人は、自分の感情こそ自分自身だと感じるでしょう。しかし、これは間違いです。感情なら動物でもあります。人間としての自分の本質は、自分がどう感じるかではなく、どう感じるかに関わりなく、どう意思決定をするかなのです。なぜでしょうか。
「感情を抑える」と言う言葉は良く使われますが、必ずしも同じ意味で使われてはいないようです。例えば、誰かに対して強い憎しみを感じて、その人に何らかの危害を与えたいと思う場合に、その感情を抑えようとします。「感情を抑える」と言っても、実際には、二つの全く異なることをしていると思います。まず、感情自体を鎮めようとすることですが、これは、なかなかうまく行きません。考えたくもないことにずっと神経を集中させなければならないわけで、逆効果になることも多々あります。
もう一つ私たちがすることは、感情自体を鎮めることではなく、自分の意思決定が感情によって左右されないようにすることです。つまり、憎しみを感じても相手に報復したり罰したりしないと言うことです。逆上したときに、何かしたり言ったりする前に心の中で10まで数えたりするのも、感情を抑えるためだと思っているかもしれませんが、10まで数えること自体が感情に左右されない決断であり、数えた後に何をするか、冷静な決断をしようとしているのです。これはできることですし、またしなければなりません。
つまり、感情自体を鎮めることは無理ですが、感情が自分の行動に影響を与えないようにすることは可能です。私は四国で育ったせいか、納豆が嫌いです。好きになることは無理ですが、嫌いでも食べることはできるのと同じです。と言っても、食べなければいけない理由がないので、食べませんけど…。
自分の感じ方は、自分の性格や育ってきた環境によって異なります。私が、納豆が嫌いなのも、自分の育った環境の中で接したことがなかったからです。もちろん、性格にも良い性格と良くない性格があり、それは、全部とは言いませんが、自分の責任ではありません。しかし、自分の性格や環境によって自分が物事に対してどのような感じ方をするようになったかに関わりなく、それに対してどのような意思決定をするかによって、自分の人格が決まるのです。それが、性格と人格の違いで、人格に関しては、個人が全責任を持ちます。長くなりましたが、本当のあなたは、あなたの性格ではなく、人格なのです。
一つの例をあげてみましょう。奥さんも子供もいる中年男性が、若い絶世の美女に出会ったとします。心臓は胸から飛び出そうになるし、口からはよだれが垂れています。これは感情です。しかし、もう一人の自分がいて、この自分はもう一人の自分を嘲笑っています。「お前、いい歳して何やってんのよ。いい加減にしろ!」さて、どちらが本当の自分でしょうか。ほとんどの男性は、感情的にはこの美女に対して同じ気持ちを持ちますが、どう対処するかは人によって異なります。この例のように、「いい加減にしろ」と思う人もいれば、「この娘をどうやってしとめようか」と企む人もいます。つまり、もう一人の自分がこの普遍的な男性の感情にどのように対処するかを決め、それがその人の個人としての価値を決めるのです。本当の自分とは、男ならだれでも感じる感情ではなく、人によって異なる意思決定に反映されるのです。
話をもとに戻しますが、自分の感情を表して、人がそれを否定したとしても、必ずしも自分の感じ方がおかしいと言うわけではありません。相手の方がおかしいのかもしれません。しかし、自分が表した感情に対して多くの人が否定的な態度を示すことが多い場合は、マッピングをする必要があります。
まず大切なことは、謙虚な姿勢を持つことです。マッピングをする心理学者のように、自分は「普通」の範囲から少しずれているのかもしれないと言う可能性を、謙遜に認めることです。これは、自分の感情が本当の自分ではなく、DNAに基づいた性格や環境の産物に過ぎないと言うことを理解すれば、少しは楽にできるようになるかもしれません。「自分のフィーリングは変かもしれないが、これが自分のありのままの姿であり、それを否定する人は自分を否定するのだ」と言うような高慢な考え方を持っていたのでは、進歩はありません。
ところで、ちょっと脱線しますが、性格がDNAに基づいているにもかかわらず、それが本当の自分ではないと言うのはどう言うことか、と思うかもしれません。調査によると、生まれてすぐに離ればなれになって、異なった環境で育った一卵性双生児でも、性格はよく似ているそうです。これは、性格が、ある程度DNAによって決まることを示しています。しかし、同じようにDNAで決まる背の高さや肌の色が人間の本質でないのと同じように、性格もその人の本質ではありません。霊長類と言う言葉ありますが、人間には、DNAでは説明できない霊的な、スピリチュアルな部分があります。それこそが本当のあなたです。
本題に戻って、次にしなければならないことは、何がずれているのかを知ることです。全く気付いてさえいないこともよくありますし、あるいは、例えば自分に悲観的な傾向があると言うことは気付いていても、被害者意識が強い傾向については気付いていないと言うようなこともよくあります。これは、心理学者に聞かなくても、謙虚な姿勢を持つと、普段の生活の中で気がつくものです。心当たりがあれば、信頼できる人に、自分にそのような傾向があるかどうか、聞いてみるのもいいでしょう。「そんなことないわよ」としか言ってくれない人も多いので、正直に言ってくれる人に聞かないといけません。
次に、自分の感じ方がずれていることが分かった場合、自分の感じ方に基づいた決断をしないように心掛けなければなりません。自分の決断が、自分の感情に左右されたものでないかどうか、実行する前に吟味することです。そのためには、例えば、悲観的な人の場合、これは大変難しいことですが、もう駄目だと感じても、その感情に基づかない意思決定をすることができると言う可能性とその必要性を、少なくとも理解することが肝心です。悲観的な人には多いことですが、自分にはどうしようもないと思っている限り、改善されることはありません。
最後の段階は、これらが身について、自分の感じ方のずれを知識として理解するだけでなく、感じ方自体が修正される段階です。これには非常に長い時間がかかり、生きている間に完全には達成できないことがほとんどでしょう。さきほど、「性格にも良い性格と良くない性格があり、それは、全部とは言いませんが、自分の責任ではありません」と書きましたが、ある程度責任がある理由は、人間にこの修正する能力があるからです。
性格は、自分のDNAや環境によって決まりますが、それだけなら自分には責任がありません。しかし、自分の感情が置かれている環境の中で、一番大きなものは、実は自分自身です。これには、いろいろな意味があります。例えば、悪い友達を作ると、悪い環境になりますが、もともと、悪い友達を作ったのは自分の意思かもしれません。
もう一つ、それほど明確でない例をあげましょう。ごく普通の人と結婚したとします。その人と結婚できてラッキーだと考える人と、こんな人と結婚するんじゃなかったと考える人がいます。それによって、結婚生活は随分変わります。と言うことは、自分の環境が変わると言うことです。
ではもうちょっと話を進めましょう。ラッキーだと感じるか感じないかは、自分にはコントロールできないでしょう。しかし、ラッキーだと考えるべきであるかどうかは、感情ではなく、その人の考え方と意思で決まります。ラッキーだと考えるべきであり、その考えに基づいた行動をとるべきだと思っている人は、仮にラッキーだと感じることができなかったとしても、その結婚が改善されるはずです。そうすれば、自分の環境も変わるのです。そして、結婚生活がよくなってくると、本当にラッキーだと感じることができるようになるかもしれないのです。多くの人は、感情が先にあって、それによって行動が決まると思っていますが、逆もまたしかりなのです。ここまで読んで、私は感情を大切にしていないと感じる人もいるかもしれませんが、このようにして育まれた人の感情ほどすばらしいものはありませんし、逆にゆがんだ人格によって破壊された感情ほど醜いものはありません。
小さいころからこう言うことに心掛けてきた人は、良い人格が構成されていくだけでなく、性格もその影響を受けて良くなります。しかし、今これを読んでいる人は、たぶん全員大人だと思います。今から始めても、自分の性格や感じ方が全く変わると言うことは、あまり期待しない方がいいでしょう。それは、私が今から納豆を食べ始めて好きになれるかどうかという問題と同じようなものです。私は、二十歳の時に、それまで嫌いだった寿司を食べ始めて好きになりましたが、この歳で納豆を好きなるのは、もう無理かもしれません。しかし、慣れることはできるでしょう。
自分の感じ方がそれほど改善されなかったとしても、自分の人生は大きく改善されます。先程の例のように、この人と結婚できてラッキーだと考えるべきであり、その考えに基づいた行動をとるべきだと決めた人の結婚生活は、こんな人と結婚するんじゃなかったと思う人の生活とは、雲泥の差があるはずです。今日は、残りの人生の最初の日です。今日から始められては、いかがでしょうか。
万葉集の権威、中西進先生とのインタビュー
もう5年前になりますが、神が日本に残した指紋 と言うブログを書きました。そこで紹介されている同名のDVDの作成にあたって、万葉集の研究で有名な中西進先生とのインタビューを、当時先生が学長をしておられた京都市立芸術大学で、通訳したことがあります。そのインタビューは、DVDにも出てきますが、使わなかった映像の中に、非常に興味深いコメントがありました。
古典を読むときには、今の日本人の常識で解釈してはいけませんと前置きをして、先生は、万葉集の柿本人麻呂の歌を紹介してくれました。柿本人麻呂が石見の国に妻を残して上京する時に歌ったものです。当時、妻との別れを切々と歌ったものは珍しかったそうですが、その中に以下のような一節が出てきます。
朝羽振(はふ)る 風こそ来寄せ 夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ
これは、日本海に朝夕吹く風と波を描写したものですが、先生は、この「羽振る」と言う言葉に注目しました。「羽を振る」と書いてあります。そして、インタビューに伺っていた私たちをハッと驚かせることを言われたのです。「これはイオの神のことを言っています。」
イオの神は、ハワイ人でさえほとんど忘れてしまったハワイの太古の創造神の名前で、先生をインタビューしたハワイのダニエル・キカワ博士も、発見するまでに何百もの古書を読まなければならないほどでした。そのハワイの神の名前を、日本の万葉集の専門家が知っていたと言うのは、まさに驚きでした。イオの神のシンボルは鷹なのですが、先生によると、朝夕風を起こし、波を立てるのは、イオの神がその羽を振るからであると言うのです。これは、この世界を創造したイオが、自然界のすべてを支配しておられると言う意味なのでしょうか。
ブログ、リリウオカラニ女王の祈り にも書きましたが、このハワイの神イオは、ミャンマーのカレン族はイワと呼んでおり、ヘブライ語で書かれている旧約聖書のヤーあるいはヤーウェがその語源であると思われます。果たしてこの神は、中西先生の言われるように、日本にも伝わっていたのでしょうか。
古事記は、最初はとても崇高な感じがしますが、ほとんどは非常に人間的で、私も最初に読んだ時には、こんな発言していいのかどうか分かりませんけれど、その下品さに驚きました。私は、このイオが、古事記の最初に出てくる創造の神、天の御中主の神なのではないかと思いました。中西先生は、インタビューの中で、天の御中主の神は中国に伝わったキリスト教である景教が日本に伝わったものだと言われました。と言うことは、いずれにしろ聖書の神だと言うことになります。天の御中主の神が、古事記のその後出て来るストリップを踊ったり用を足したりする、ちょっと日本人として恥ずかしくなるような神々ではなく、目には見えない創造主であることには、間違いがなさそうです。
