天国は本当にある
2カ月ほど前に臨死体験のブログを書いた後、友人からいくつかの情報をもらいました。まず、プルーフ・オブ・ヘブン(天国の証拠)ですが、アンビリーバボーで取り上げられたそうです。私は、この番組があることは知っていますが、ハワイに住んでいますので、見ることはほとんどなく、取り上げられたことは知りませんでした。リンクは、https://www.youtube.com/watch?v=z-gN-rcTmB8 です。
Heaven Is For Realは、日本語訳が出版されているそうです。「天国は本当にある」という題です。この情報をくれた友人は、私に、日本語訳ではなく、英語の原本を送ってくれました。私は映画を見てはいましたが、普通、本と映画を両方見た人は、本の方が良かったと言う人の方が多いと思いますし、せっかく送ってもらったので、読んでみることにしました。
読んでみて、映画を見たときよりもずっと心に残ったことがありました。それは、主人公のコルトン君が、天国で、流産して生まれて来なかったお姉さんに会ったと言う話です。去年のブログ、家内が7回目の手術をした でも書きましたが、家内の2回目の手術は子宮外妊娠の摘出手術でした。私は、胎児はもちろん命だと思っていましたし、日本でも米国でも、正当な理由なしに堕胎する方が多いことを悲しく思います。日本人もアメリカ人も、命の大切さ、神聖さと言うことは、みな信じていると思うのですが、自分の都合で赤ちゃんを中絶しまう人が多いのは、どうしてなのでしょう。
話をもとに戻しますが、私は、天国でこの摘出した子に会えると言うことは、考えたことがありませんでした。命ではあっても、人格を持ったひとりの人間とはとらえてなかったのです。しかし、この映画を見て、またさらに本を読んで、天国に行く楽しみが一つ増えました。お父さんがコルトン君に、天国で誰がお姉さんのお父さんになったのか聞いたところ、コルトン君は神様だと答えたそうです。もし子宮外妊娠した子に天国で会うことができるとすれば、その子は私たちの3人の息子たちよりずっといい子に育っていることでしょう。
実は、15年以上も前のことですが、あるとき、教会の事務所で少人数の小さな礼拝をしていたときに、身体障害者のお子さんを産んだ方の話をしたことがありました。社会で厄介者扱いされがちな障害者のお子さんが、その家庭の中でまるで天使のような存在になり、家庭をすごく豊かなものにしてくれたと言う話です。障害がある可能性が高いと知っていながら命の大切さを信じて産んだわけですが、本当に産んで良かったそうです。
その話をしながら、私は家内が中絶しなければいけなくなった第二子のことを思い出して、涙が止まりませんでした。日本人はあまり感情を表に現しませんが、その中でも私は感情表現が乏しく、お前は表そうにも元々感情自体がないなどとよくからかわれます。泣いたのは、悲しいとか寂しいとかいう気持からではなく、私たち人間はいろいろなことで一喜一憂しますが、神はすべてをご存知で、その摂理に任せていれば大丈夫だと言う安堵感に包まれたからでした。
先日、私は日本に帰省して、母が通っている教会でコルトン君がお姉さんにあった話をし、中絶しなければいけなかった胎児に将来天国で会えるかもしれない希望について話をしました。今年91歳の母もその話を聞いていましたが、実は母にも同じような経験があります。後妻として嫁いできた母にとって、私は先妻の子でした。実際、少ない額ですが、相続のトラブルを避けるために、去年養子縁組をしたばかりです。
私が高校生の頃、アメリカ留学のためにパスポートを取ろうと思って、戸籍抄本を取りに行きました。私は、自分は一人っ子で、母は実の母だと思っていたのですが、抄本には、私が次男になっており、母は知らない人でした。両親には、何か私に言いたくない事情があるのだろうと思って、特に気にはしませんでした。親が私を愛してくれていることはよく分かっていましたので、ショックを受けるなどと言うことはありませんでした。
それから間もなく、牧師を通して、母から話があると言われました。何事かと思いきや、私が知らなかった生い立ちに関する話でした。私の父は、私がまだ赤ちゃんの時に離婚し、母が私の兄を引き取り、父が私を引き取りました。普通なら母親の方が赤ちゃんを引き取ると思いますが、私の兄は小児麻痺だったので、裕福な家系の母親が兄を引き取ったのでしょう。
母は、妊娠したことがあったそうですが、私よりも自分の子をえこひいきするようになってはいけないと言う理由で中絶したそうです。中絶には賛成できませんが、私のことを思ってしてくれたことには感謝しました。私が母のことを尊敬するようになったのは、その時からでした。教会で私の話を聞きながら、母は中絶した自分の赤ちゃんに会えるかもしれないと、考えていたのかもしれません。
この話には落ちがあります。牧師と母が私の生い立ちについて話してくれたのは、日曜日の礼拝の後だったのですが、その日の朝の礼拝前、私がたまたま教会の事務室にいたときに、電話がかかってきました。周りに誰もいなかったので、私が出たところ、牧師さんはいらっしゃいますかと聞かれました。今は電話に出られませんと答えたところ、そうですかと言って、すぐに切られてしまいました。ところが、その声が私の父の声にそっくりだったのです。父が教会に電話してくることなんてないし、変だなと思っていたのですが、まだ話すのは早すぎると思った父が、話をするのを止めようとして電話したのでした。その電話に私が出たので、父も驚いたことでしょう。
カワイアハオ教会へようこそ
私が結婚式の司式をしているカワイアハオ教会から、式を挙げる皆さんへの御挨拶のパンフレットを書いてくれと頼まれました。以下にご紹介します。まだ承認されてないので、これから変わるかもしれませんが、皆さんからの御意見があればそれも参考にさせていただきたいと思い、先にアップすることにしました。ちょっと長いですが、お読みになって何かご感想やご意見がございましたら、遠慮なくコメントしてください。
「カワイアハオ教会へようこそ…。」カワイアハオ教会での結婚式は、このご挨拶から始まります。お二人の最も大切な日に私たちが参加できて本当に光栄です。紙面で失礼ですが、皆さんにご挨拶し、この日が、思い出に残る式だけでなく、それ以上のものになることを願っています。
多くの方は、一生に何度か仕事を変えます。またほとんどの人は、教育や仕事のために何度も引っ越しをします。しかし、結婚の誓いは、一生に一度の約束なのです。それでは結婚式でよく使われる聖書の言葉を読みながら、お二人が今日結ばれた関係について聖書がどう教えているか、見てみましょう。
その一つは創世記2章24節です。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」「こういうわけで」とありますので、その前に何かあるはずです。2章23節で、アダムはこう言っています。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう。まさに、男から取られたものだから。」これは、日本語で読んでもよく意味が分かりません。
原語のヘブライ語では、男はイシュ、女はイシャーです。「アー」と言うのは、名詞の女性形です。アダムは、イブは男の女性形で、二人で一つのペアになると言っているのです。つまり、男性と女性が一つになって、夫婦になるということなのです。
ちょっとここで日本人カップルに警告!日本人は「父母」と子供が「離れる」のが苦手のようで、特に新郎のお母さんはこれが難しいようです。また、カップルも、結婚してからも親に甘える傾向が強いようです。夫は、自分の家族とご両親の家族を区別し、妻との新しい家族の責任者とならなければなりません。妻と一つになるためには、まずご両親を離れなければならないのです。
もう一つの有名な聖書の言葉は、ちょっと長くて、使徒パウロがエペソの教会に宛てた手紙の5章にあります。その中でも特に大切で、またよく誤解されている個所を見てみましょう。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エペソ人への手紙5章22-25節)
最も誤解され、誤用されているのは、夫が妻の頭であるという事実です。さて、この権威はなぜ夫に与えられたのでしょうか。これは、アダムとイブが、この木の実を食べてはいけないという神様が与えた唯一の規則を守らなかった時に、神が二人に言われた言葉の中に出てきます。「女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。』」(創世記3章16節)残念ながら、多くの男性は、この言葉を自分の有利になるように乱用しています。
確かにこの言葉は、夫が妻の頭であることを明言しています。しかし、ここで忘れてはならないことは、これが、いわば神の人間の罪に対する刑罰の一部であるということです。悪いことをした結果施行されることは、それが必要であるからなされるのです。それは単なる罰や呪いではありません。罪が人間の生活の中に入ってきた今、秩序を守るために、それまではなかった権威と言うものが必要になったのです。これは必要悪でした。もう少し説明してみましょう。
お二人の家の中で小さなお子さんが走り回るようになる日は、そう遠くはないでしょう。生まれたときには天使のように思えても、すべての人間の中には罪の資質があることに気付かれる時が来ると思います。ですから、子供にはしつけが必要です。
あるとき、医学的理由で、興奮することが非常に危険であるという女の子に会ったことがあります。ご両親は、医師に、どんなことがあってもその子を興奮させてはいけないと言われたそうです。そのため、ご両親はこの子をしつけることを避け、いつも自分の好き勝手なことをさせたのです。私は、この子ほどみじめな子に会ったことはないと思います。
もし私がこの子の親だったら、命が危ないと言われても、しつけをしたと思います。そうすれば、たとえ短い人生であったとしても、もっと幸せになれたと思うからです。また、適切なしつけをしていれば、彼女のように何事にも不満でいつもイライラしているような子供には育たなかったと思います。
子供たちに権威が必要であるように、私たち大人にも必要です。上司のいない会社や、警察のない社会を想像することができるでしょうか。同様に、社会の基本となる家族にも、適切な権威が与えられている夫の存在が必要なのです。
警察や裁判所のように、人間の罪に対処しなければならない組織ほど、強い権威が与えられていることに気づかれると思います。つまり、夫であり父親である男性は、家族が間違った行動を取ってしまったときにのみ、それに対処するために権威を用いなくてはなりません。愛と秩序のある家庭であれば、このような権威を厳しく用いなければならないことは、ほとんどありません。レディー・ファーストというような思想が西洋ではぐくまれた背景には、このような思想があると思われます。
しかし、夫は、家庭の秩序を守るためではなく、自分の思い通りにするためにこの権威を使ってしまうことがよくあります。聖書に戻りますが、キリストは、自分の欲しいものを手に入れるためにその権威を使うようなことはしませんでした。それどころか、私たちのために自分の命を与えたと書いてあります。どう言う意味でしょうか。
私たちには、みな罪があります。日本の方は、自分に罪があると言われると、不愉快に感じる方が多いようです。これは、私たちがみな犯罪者であると言っているわけではありません。仏教でも教えられているように、私たちには皆、煩悩や業があります。完璧な人は一人もいないということです。
しかし、キリストは、私たちにその罪の罰を求めるのではなく、自分が十字架にかかって、身代わりになって死んだのです。自分の意思に反して殺されたと思っていらっしゃる方が多いようですが、そうではありません。私たちの罪の代価を払うために、自ら死なれたのです。裁判官が、被告人に罰金を言い渡して、ローブを脱いで自分でその罰金を支払うようなものです。イエスは、裁判官として正義を守るだけではなく、人を赦す方でもあるのです。同様に、この聖書の言葉は、キリストが私たちのために死んだのと同じように、自分の妻のために死ねるようでなければならないと書いているのです。
私たちは、このカワイアハオでのお二人の人生の始まりが、ただ人生の良い想い出にとどまることなく、残りの生涯、夫婦としての歩みの助けになることを願っています。お二人のリムジンが教会を出るときに、私たちの縁が切れるわけではありません。もし、将来何か人生の悩みや疑問が湧いたときには、遠慮なくご連絡ください。お二人の末長い幸せな結婚の一端を担えれば幸いです。
臨死体験
最近、アメリカで、宗教的な映画が3本封切られました。一度にこれだけ多くの宗教色深い映画が封切られるのは、最近では珍しいことです。その一つは「ノア」。これは日本でも宣伝されていますね。実は、この映画はアメリカではそれほど評判が良くなかったようです。聖書を忠実に再現したというふれこみだったのですが、実際に見た人の話によると、全くのハリウッド風の映画で、がっかりしたという人がほとんどでした。聖書の話を変えただけでなく、それを聖書通りだと宣伝したことに怒っている人も多かったようです。
「ノア」の後に封切られたのがGod is not dead(神は死んでいない)でした。有名なニーチェの「神は死んだ」哲学を教えていた大学教授と、その授業を取ったクリスチャン学生の話です。そして最後はHeaven is for real(天国は本当にある)で、臨死体験をした坊やの実話に基づいた映画です。私は、家族とHeaven is for realを見に行きました。
実は、ハワイのあるミッション系の高校の先生から、生徒とこの映画を見に行くので、その後、生徒たちにこの映画について話をして欲しいと頼まれていたのです。頼まれて間もなく、里の松山に帰省したのですが、母の教会の信徒さんがまだキリスト教を信じていない父に贈った、プルーフ・オブ・ヘブン(天国の証拠)と言う臨死体験の本が、家に置いてありました。ハーバード医大病院の脳神経外科医エベン・アレグザンダーが本人の臨死体験を語った本です。
それを読んだ後、ほかに暇を潰せそうな本がないかと母の本棚を探したところ、「天国での90分」(ドン・パイパー著)という本が目に止まりましたので、これも読みました。そんな話を友人にしたところ、彼がジャン-ジャック・シャルボニエ著の「あの世が存在する七つの理由」と言う本をプレゼントしてくれました。これは、臨死体験のみを扱った本ではありませんが、参考になりました。と言うわけで、あっという間に「臨死体験もの知り博士」になってしまいました。
私は、臨死体験には元々興味を持っていました。私がクリスチャンになりかけていた高校生のころ、教会で、臨死体験をしたおばさんの話を聞きました。当時は、それほど医学が進んでいなかったので、蘇生する人も今に比べると少なく、臨死体験なんて聞いたこともありませんでした。死んでいた間も意識があり、白いトンネルのような所にいて、すごく幸せだったそうです。この話は、当時科学で説明できないものなどこの世に存在しないと思っていた私にとっては驚きでしたが、家に帰って母にその話をしたところ、母の反応はそれにも増して驚きでした。当時、母は市内の公立病院の看護婦長をしていたのですが、特に驚いた様子もなく、「ああ、そう言う話は良く聞くね」と一言であしらわれたのです。
看護婦をしていた母が「そう言う話」を良く耳にするのは当たり前かもしれませんが、そんな奇怪な話があるなら、なぜ早く教えてくれなかったんだと思いました。このようにして、私の唯物論的世界観は崩れ去って行き、超自然を含んだ世界観を再構築しなければならなくなったわけです。日本人は、昔の私のように超自然的なものを信じていない人が多いようですが、ちょっとチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
「天国での90分」は、もう古い本で、たぶん購入することは不可能だと思いますが、ほかの二つは新しい本ですので、問題なく買えると思います。私のお勧めはプルーフ・オブ・ヘブンです。最後に「落ち」があるのですが、それは読んでからのお楽しみと言うことにしておきましょう。ただちょっと気になったのは、「訳者あとがき」です。キリスト教会がこのような現象に反対しているという印象を与えるあとがきですが、私はそのような意見を聞いたことはありません。実際、「天国での90分」はキリスト教系の出版社から出されており、体験者本人も牧師です。Heaven is for realの体験者も牧師の息子で、牧師である父が書いた本に基づいて作られた映画です。
「あの世が存在する七つの理由」も、決して反キリスト教と言うものではありませんが、この本は、題が示す通り、多くのトピックを網羅しているので、ちょっとこんがらがるような気がします。たくさんのことが書いてあればある程、これはちょっとどうかなと思えるものも中にはあります。また、本人も、いろいろある現象には良くないものもあるので気をつけるようにとは書いてあるのですが、善悪をどう見分けるのかについてはほとんど書いてありません。私の意見では、彼が肯定的に書いているものの中にも、危険なもの、あるいはそれ自体がそれほど危険でなくても、変な方向に走ってしまいそうなものを感じました。何事にも言えることですが、現象自体を求めることは危険だと思います。求めるべきは、その背後にある天国、超自然の世界、神の国ではないでしょうか。
「臨死体験」と言う言葉は、ちょっと誤解を招く表現です。と言うのは、この体験は、通常、死んでから蘇生されるまでの間に経験するもので、瀕死の状態で体験するものではないからです。しかし、Heaven is for realは、まさに瀕死の状態にあった男の子が経験したという意味では、ユニークです。ノアと違って、低予算の映画でしたが、かなりの人気でした。このような宗教的な映画は、日本では上映されることはないと思いますが、上映されなくてもDVDになることはありますので、もし見つけたら、買ってみてください。