大野純司のブログ -47ページ目

なぜハワイに引っ越して、なぜ通訳をするようになったか

 日本のバブル最盛期、私は東京のある教会で、宣教師の下で働いていました。とても成功しましたが、私の心の中には、これでいいのだろうかという気持ちが見え隠れしていました。都会の若い人が好みそうな現代風の讃美歌を多用し、有名な講師を次から次へと招いて、多くの人が集まって来ましたが、これはまるでエンターテイメントじゃないかと思いました。もちろん、講師たちの話は真剣でしたし、わざわざみんなが好まないような古臭い音楽を使うこともないと言うことは分かっていましたが、キリストがたった12人の弟子を3年かけて育てたのにくらべ、私は群衆を集めているに過ぎないと感じたのです。

私は、もっと個人的に人を育てるということが自分には全くできていないと感じていました。実は、ハワイに引っ越した理由は、それが非常によく実行できている牧師がハワイにいると言うことを知っていたからです。彼が牧師をしているハワイの教会は、私が東京で働いていた教会とは比べ物にならないほど大きな教会でしたが、彼は小人数でお互いがお互いの生活態度や行動に責任を持ち合うことの大切さを強調していました。なかなか日本語にならない英単語の中にaccountability(アカウンタビリティー)と言う言葉がありますが、まさにそれです。日本語では「説明責任」と訳されるようですが、使われているのはほとんどビジネスの世界だけだと思います。それを自分の人生に対しても持たなければいけないと言うことなのです。

私はこの牧師の下で数年働いてから、送りだされて小さな教会を始めました。最初の数年は、普通の教会をしていたのですが、2000年に、教会を、聖書が書かれた時代の教会のような、ごく小さな教会にするべきだと考えるようになりました。ほとんどの方はご存知ないと思いますが、教会が今のような形になったのは、キリスト教がローマ帝国の国教になってからで、それまでの教会は、個人の家で、少人数でやっていました。教会とはもっと草の根的なもので、オーガニズム(有機体)ではあっても、現代のようなオーガニゼーション(組織)ではなかったのです。

こう言う話を始めると、きりがないのでこの辺でやめておきますが、とにかく私は教会の主なリーダーたちと相談をしました。皆さん賛同してくれたので、ゆっくり時間をかけて変えていくことにしたのですが、最初にしたことは、私が教会から給料をもらうことを止めたことです。教会をいくつかに分けて、普通の家に集まれるくらいの人数にすれば、それぞれの教会の献金から牧師の給料を出すことは無理です。

と言うわけで、当時、それでなくても薄給で生活が大変だった私は、それを自ら放棄してしまいました。大体私は、心配すると言う機能が欠けているようで、後で、こんなことするんじゃなかったと思った時にはもう遅いと言うことが良くあります。当時から公共の施設に通訳を送る非営利団体で仕事をしていましたので、通訳としての収入はすでにありはしましたが、ボランティアに毛が生えた程度で、生活をするには足りない額でした。

ところが200010月某日の早朝、シカゴの通訳派遣会社から電話があり、今日から三日間ワイキキでセミナーの通訳をしてくれないかと頼まれたのです。どうやら、何かの手違いで、通訳が必要だと言うことが当日になって判明し、セミナーを開催するシカゴの団体が、派遣会社に依頼したらしいのです。私はその仕事を引き受けて、三日間無事に通訳を終えることができました。それにしても、どうやってこのシカゴの会社が私を見つけたのかは、未だにミステリーです。誰か通訳業を宣伝しているハワイの通訳に電話して、その人が私を紹介したのだと思いますが、それが誰だったのかは分かりません。

ここから先は後で分かったことなのですが、同じ団体が11月にもサンフランシスコでセミナーをしたそうです。ところが、その時の通訳があまり上手な人ではなかったらしく、多くの方々が多額の旅費とセミナー料を払って参加したにもかかわらず、台無しになってしまったそうです。しかし、おかげでその翌年から、私は、セミナーがあるたびに、それが日本であろうとアメリカのメインランドであろうと、呼ばれるようになりました。もちろん、この団体以外の通訳もしていますが、普通の通訳のようにいつも新しい仕事を探していなくても、このクライアントだけでも生活できるくらいになり、通訳としては非常に恵まれています。

と言うわけで、私の生活は逆にすっかり安定してしまいました。通訳と言う仕事は、私のような人間にとっては、最高の職業です。短い時間でかなりの収入を得ることができ、またスケジュールに会わない仕事は断ればよいだけですので、とても柔軟性があります。自由にボランティア活動ができるのは、時間的にも金銭的にもこの仕事のおかげです。イエスは、ある有名な説教の中で、こう言っています。

「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

(マタイによる福音書625-34節からの抜粋)

タイでの出来事

前回に続いて、今回もタイで起きたことをまとめて書こうと思います。今回は、子供たちと一緒に孤児院に泊まりました。子供好きのNさんは、14人の女の子たちが寝ている部屋に一緒に泊まったのですが、子供たちが早速部屋の唯一の扇風機をNさんのベッドのそばに持って来てくれて、しかも低くてベッドに寝ているとあまり風が当たらないので、何か台になるものを持って来てくれたそうです。みんなすごく優しくてよく気がつくと言って、Nさんも感心していました。

着いた翌日、セーフハウス(人身売買などの犠牲者になる可能性の高い女の子の孤児院で、少数民族の子や、精神的なダメージを持っている子が多い)の女の子たちのために日本のカレーを作りに行きました。そこに、明るくてかわいい女の子がいて、僕たちを笑顔で迎えてくれたのですが、見覚えのある顔なのに、どこで会ったのか、どうしても思い出せません。今セーフハウスにいるということは、8か月前来た時もこのセーフハウスにいたはずだし、顔もよく覚えているのですが、どうしても思い出せないのです。

それもそのはず、8か月前に来たときは、とても暗い子でした。お正月に一緒に彼女の少数民族のお祭りに行って、次男と観覧車に乗ったのですが、ほとんど口を利かない子で、次男も観覧車での数分間を持て余している様子でした。そのSさんが全く別人のように明るくなっていたので、分からなかったのです。息子もその子のことが気になっていた様子で、時々FBの書き込みの訳を読んでいたらしいのですが、以前はとても暗かったのが、今はすごく明るくなったと言ってました。たった8ヶ月でずいぶん成長したものだと感心しました。


次男とSさん

前回のブログの写真の小さな女の子は、小学校のすぐ隣に住んでいます。写真を見ても分かるように、非常に貧しい家です。この家の前の道は、いつも川のように水がたまっています。この子は、とても人懐っこい子で、会うといつも親指を上に上げるポーズを取って、挨拶をしてくれます。特にNさんはずいぶん仲良くなって、おめかしして撮った写真をもらいました。こんな貧しい家庭の子が、どうやってこんなきれいな服を着てこの写真を取ったのだろうと思うのですが、もしかしたらこのときに撮った写真はこれ一枚しかないかもしれません。Nさんは、彼女の大切な宝物をもらったのです。


Nさんと学校の近所の女の子 女の子の家

おめかしした女の子

 次男は、セーフハウスのFさんのサポートをしています。サポートは、子供一人当たり一月100ドル必要ですが、ご興味のある方は、全額でなくてもかまいませんので、ご連絡ください。Fさんは、本人もまだ気にしていますので詳しくは書きませんが、ご両親から精神的に虐待されて、このセーフハウスに来ました。ある日、彼女が、通っている小学校から何か賞状のようなものを持って帰りました。本人とは話が通じないので、牧師に聞いたところ、「お母さん」に関する作文コンテストがあって、優勝したのだそうです。お母さんには虐待されたのに、どんなことを書いたのか、聞きたくても聞けないのが残念でした。


賞状をもらったFさん


ハワイに帰る前日、私たちは、私たち夫婦がサポートしているセーフハウスのTさんと、次男がサポートしているFさんを招いて、教会の近くのレストランに行きました。牧師の話によると、町一番のレストランだそうで、国王のプリンセスがこの町を訪れるときには、必ずここで食事をするとか。と言っても、一人千円で足りますので、私たち日本人にとっては大きな支出ではありません。

レストランには大きな池があり、ペリカンのような鳥が一羽住んでいます。このペリカンさんは、ここが自分の家だと思っているらしく、客が近づくと大きなくちばしを振りかざしてアタックして来ます。それが面白くて、今回も二人を連れて、このアングリーバードをからかいに行きました。

アングリーバード


逃げろ! あっち行け

さて、注文する段になって、英語の喋れないウェイターさんに、水が欲しいかどうか、身振り手振りで聞かれました。はいと答えると、この二人の女の子たちが、立ち上がって自分でみんなに水を配ろうとします。ここはレストランだから、自分が給仕する必要はないと言って(言っても通じませんけど)、二人を座らせました。二人に好きなものをたくさん注文してもらって、みんなでシェアしようと思ったのですが、それがなかなか通じません。スマホの翻訳を使いながら話すのですが、前菜ばかり頼んだり、二人とも同じものを注文したりして、大変でした。

何とか食事が終わって、アイスクリームを食べに行こうと言うことになりました。街の唯一のショッピングセンターに行ってアイスクリームを食べた後、家内の提案で、二人に服を買ってあげようと言うことになりました。店に行っても、二人とも遠慮して何も見ようとしません。そこに現れたのが店主。すぐに二人を説得して、おそろいのズボンを買いました。試着するところがないので、本当にサイズが合うのだろうかと半信半疑でしたが、女の子ですから、自分のサイズくらいは分かっているのでしょう。タイには滅多に来ることができないのだから、今日はできるだけのことをしてあげたいと、家内がスマホで伝えると、Tさんが泣き出してしまいました。

彼女は、生まれてすぐお父さんが家を出てしまい、怒ったお母さんにも放棄されてしまいました。街のある牧師の世話で、その牧師のご両親が育てたのですが、二人とも年老いて、これ以上彼女の世話をすることができなくなったそうです。セーフハウスを運営している私たちの教団の牧師は、彼女をハウスに入れたいと願っていましたが、そのお金がないと言うことを、8か月前にタイに来たときに、私たちに話してくれました。

家内は、この子のことが気になって、ハワイに帰ってから牧師に連絡し、この子をサポートすることにしました。家内は、どちらかと言うと家計を気にする方なのですが、最近なぜかお金のことをあまり心配しなくなりました。家内のお母さんの自殺 」にも書きましたが、母親に見捨てられたこの子に、昔の自分の姿を見たのかもしれませんと言うわけで、Tさんはセーフハウスに入ることができたのですが、その時は、着ていた服一枚しかもっていなかったそうです。ほとんどしゃべらない子だったそうですが、今では、恥ずかしがり屋ですけれど、ずいぶん明るくなりました。Nさんが彼女をハグして、何とか泣きやみましたが、あの役、僕がしたかったなー、などと思いながら、最後の晩を過ごしました。


おそろいのズボンを買ったTさんとFさん

カレン人難民の小学校


右端が次男。真中は近所の女の子。


 タイにボランティアに行くのはこれが3回目です。今回は、家内、次男、1回目に行ったNさん、そしてブログハワイ・オペラ・シアター の主人公のS君の5人で、10日間ほどの旅です。バンコクから最終目的地のメーソット行きの飛行機に乗った時、十数名の移民局の制服を着た役人の方が乗っていました。メーソットに着いた時も、たくさんの移民局の役人が迎えに来ていて、飛行場周辺では警察が交通整理をしており、騒然とした雰囲気でした。メーソットはミャンマーとの国境の町ですので、違法入国者が多く、その取り締まり強化のために来たのではないか、と教会の牧師さんは話していました。

 ミャンマーにはカレンと呼ばれる少数民族がいて(タイにもいますが)、彼らの多くはキリスト教徒です。東南アジアの少数民族がキリスト教徒だなんて、変だと思うかもしれませんが、彼らは、神に関する本を無くして神のことが分からなくなったが、いつか肌の白い人がその本を持って来てくれるという言い伝えを信じていたそうです。ここまで読めばもう見当がつくと思いますが、彼らは聖書がその本であると信じ、キリスト教に回心したと言うより、彼らがもともと信じていた神を再発見したわけです。彼らの神の名はイワ、ハワイの創造神の名はイオ、旧約聖書の神の名はヤーウェあるいは短縮系のヤーで、これらはみなつながっていると思われます。彼らは仏教徒のミャンマー政府から迫害されており、長い間内戦が続いています。今は停戦中だそうですが、それでもタイに逃げてくるカレン人は後が耐えないそうです。

 ここメーソットの教会にもカレン人の礼拝があり、タイ語が話せないカレン人の難民の子供たちのための小学校があります。教会のすぐ隣に建てられたもので、柱とトタン屋根だけと言う、非常にみすぼらしいものです。隣のクラスの話が全部聞こえますので、あれでよく授業ができるものだと思います。しかし、ある韓国の教会が、同じ教団ではないにもかかわらず、近くの別の場所に新しい校舎を建ててくれました。

 その開校式が今月の25日にあったのですが、私たちは25日にタイを出ましたので、それに出席することはできませんでした。雨が降ると校庭に大きな水たまりがたくさんできるので、開校式までにそれらを砂利で埋めるよう頼まれました。今日から作業だと言う日の朝、荷台いっぱいの砂利を乗せたダンプカーが通りかかり、数分後、空のダンプカーが帰って行ったのを見て、あのダンプカー1台分の砂利を道端から校庭の水たまりまで運ばなければいけないのかと思って、ぞっとしました。校庭は道より1メートルくらい高くなっているので、ダンプカーは校庭の中に入って水たまりの近くに砂利を置くことができないのです。

 ところが、午後行ってみると、道端には砂利の山脈ができており、聞いたところ、ダンプカー10台分の砂利を注文したのだそうです。私たちが見たのはその中の1台に過ぎなかったわけです。呆然と立ち尽くしていても仕方がないので、まず作業に使う道具を取りに行きました。道具と言っても、手押し車1台、バケツ1個、シャベル数本ですから、気の遠くなるような話です。取りに行くのに5人全員が行く必要はないと言うことで、次男は早速素手で砂利運びを始めました。その滑稽で哀れな姿を見ながら、私は「永遠」という言葉の定義を変える必要があるなと感じました。次男がダンプカー10台分の砂利を手で運ぶのにかかる時間。その時の私には、それが永遠のように思えたのです。

 水たまりはたくさんあるのですが、校舎に一番近い三つを埋めるように言われ、初日はその水たまりの一つをほぼ埋めることができました。翌日は、朝の涼しいうちに作業をしようと言うことになって、7時過ぎに学校に行ったところ、前の晩の雨で、水たまりが広くなっていました。昨日終わったはずの水たまりを埋める作業をしていたら、9時頃に、まだ古い校舎で授業をしている生徒たちが、100人以上ぞろぞろとやってきたのです。どうやら助けに来てくれたらしいのですが、何も道具は持っていません。もっと困ったのは、先生らしき人が見当たりません。(後で2-3人いたことが分かりましたが、大声で全員に指示を与えたりすることはありませんでした。)

 これはいったいどうなるのだろうか、言葉も通じないのに彼らにどのように指示をすればいいのだろうか、と思いながらしばらく見ていたのですが、心配無用。みんな思い思いに私たちの使っていた道具を拝借して作業を始め、道具のない子は手で運び始めました。誰かが大きくて丈夫なコメ袋のようなものをどこからか見つけて来て(持ってきたのかもしれません)、その上に砂利を乗せ、両端を二人がかりで持って運び始めました。他にも割れた瓦や板、お碗などを見つけて来ては、誰にも指示されることなく運んでいます。私は着ていたTシャツをおなかの前に張り出して砂利を乗せてもらい、運び始めました。(砂利を乗せてくれた女の子の写真をアップしておきます。右端が次男。真中は近所の女の子。)怠けている子はほとんどいません。こうして昼頃には作業がほぼ終わりました。

 私は、100人以上の子供たちが蟻の群れのように働いている姿を見て、爽快過ぎて笑いが止まりませんでした。Nさんは、子供たちが一生懸命働いている様子を見て感激し、泣きながら作業をしていました。現地の牧師の話によると、彼らは両親が朝早くから仕事に出かけて、家にいないので、朝ご飯を作ったりとか、洗濯をしたりとか、何でも自分でしなければならないのだそうです。自分で考えて問題を解決する能力は、何でも与えられている日本やアメリカの子供たちも見習わなければなりません。みんなの協力で、永遠が数時間に短縮された一日でした。