大野純司のブログ -45ページ目

ハワイの高速でパンク

 去年の秋、親戚の娘さんがハワイで結婚式を挙げました。もちろん手配して司式をしたのは私です。元モデルの彼女、絵に描いたような結婚式でした。翌日、新婚の二人をそっとしておいて、親戚一同でオアフ島を一周するつもりで、バンで出かけました。ところが、高速道路でバンがパンクしてしまったのです。道路に何か車の部品のようなものが落ちていて、それがタイヤに絡まって裂けてしまったようです。路肩に車を寄せてスペアタイヤに換えたところ、スペアも空気が抜けていました。

 ところが、通りかかりの無口の男性が車を止めて、何も言わずに助けてくれました。「どうしたんですか」とも何とも言わないで作業を始めたので、親戚たちは、私の知り合いがたまたま通りかかって止まってくれたと思ったそうです。路肩に止めたバンと車道の間隔は1メートルもありません。ビュンビュンとかけぬけて行く車を横目に見ながら、バンにしがみついてレンチの上に立ち、体重でレンチを廻してナットを緩めるのは、かなり危険な作業です。年配の私たちが四苦八苦しているのを見かねた彼は、私たちを通り過ぎた後いったん高速道路を下りて、逆方向に一つ手前の出口まで戻り、そこでまた元の方向の入口から入って私のバンのところまで来て、車を止めて助けてくれたと言うわけです。

 牽引車サービスを呼んでも来るまで相当待たされます。ここは日本と違って、何でもハワイタイムなのです。彼は、私を近くのタイヤ屋さんまで乗せて行ってくれて、タイヤを買ってバンに戻り、取り付ける作業を手伝ってくれました。かれこれ2時間近く付き合ってくれたでしょうか、最後にお礼を渡そうとすると、得意の無口を決め込んできっぱり断り、すぐに去って行きました。

 この親切な人に親戚一同は大感激。観光の時間は減って、オアフ島一週は断念したものの、なかなか日本では経験できない体験をしたと言って、みんな喜んでくれました。観光でハワイに来ても、観光地を回るだけで、現地の人と人間的なつながりを持つことはほとんどありませんが、皆さん、忘れられない想い出ができたようです。

日本人の神観Ⅱ、「西行と伊勢神宮」

 日本人の宗教観を良く表わしている歌として、仏教のお坊さんの西行が神道の伊勢神宮に行ったときに詠んだ歌がよく知られています。

「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

西行が伊勢神宮を訪れたときに、何か心に感じるものがあって、感謝の涙を流したのでしょう。たぶん、信仰心の強い方は、このような境地に達することを願っているのではないかと思います。仏陀が悟りを開いたように、私たちも何かそのような心の平安を持ちたいという願いがあるのでしょう。

 そのような気持ちを持てることは、確かに素晴らしいことだと思いますが、私にはどうしても気になることが一つあります。それは、西行のこの歌の中には、この伊勢神宮にいらっしゃる方が何者なのかを極めようと気持ちが、全く伺えないことです。そんなに感動したのなら、実際誰がいらっしゃるのか、知りたくなるのが当然ではないでしょうか。もしかしたら、仏教ではなく、神道に改宗するかもしれないと言う、一大事なのです。

 この歌が日本人の宗教観を良く表わしていると言われる一つの理由は、まさにそこにあると思われます。西行にとって、実際に誰がいるかということよりも、自分がそう言う気持ちになれたと言うことの方が、大切だったのではないでしょうか。

 しかし、真理は自分の外にあり、自分より大きなものです。自分がそれに気づくかどうかにかかわりなく、それは存在し、自分がそれに対してどう感じるかということは、その真実性とは関係ありません。私は、もともと信仰心は全くない人間で、今も「信仰心」という言葉に表されるような感覚は全くありません。今までいろいろなブログを書いてきましたが、その多くは自分や身の回りの人の実体験です。それらの体験を通して、私には神はいると言う結論しかあり得ないのです。そして、自分がこの信仰によってどういう境地に入れるかということよりも、この実在する神がどのような方なのかを、より深く知りたいと思っています。もちろん、その結果として、何か崇高な境地に達することができるのであれば、それは嬉しいことですし、西行や仏陀とは比べ物にならないにしても、概ね平安で楽しい日々を過ごさせてもらっています。

 心の平安を願っている方は、それを求めるより、神を求めるべきです。感情ははかないものです。確信を持って歩む人生に、心の平安は付いて来ると思います。

日本人の神観、世界観

ある若い日本人男性に、こんなことを聞かれたことがあります。「信仰を持つと、弱い人間になりませんか。」私はその時、アメリカから来た若い宣教師の卵たちの通訳をしていたのですが、彼らは、何と答えたらよいのか、困った様子でした。答が分からないと言うよりも、質問の真意が分からなかったのかもしれません。

実は、この質問は、ある前提がないと成り立たない質問なのです。それは、神は存在しないと言う前提です。つまり、神は、本当はいないのに、いると信じてそれに頼ると言うことは、自分を弱くしてしまうのではないかと言う質問なのではないでしょうか。実際に存在するのであれば、信じて当然だし、それによって自分が弱くなるわけもないし、なったとしても真実であれば論じても仕方がありません。

神がいないと言う前提を持つこと自体は、神がいないと思っている人にとっては当然のことでしょう。しかし、その前提に基づいた質問を、神を信じている人にするということは、実は神を信じていると言う人も、本当にはいないと言うことが分かっているはずだ、と考えていなければできないはずです。これは、裁判の答弁などにもよくみられることですが、例えば検察官が、被告人が犯人であると言うことを前提とした質問をすると、弁護士はそれに異議を唱えます。神が存在しないと言うことを前提にした質問を、神を信じている人にするということは、おかしな話なのです。このような質問は、日本では聞いたことが何度かありますが、大人としての人生のほとんどを過ごした米国では、こんなことを聞かれたことはありません。

米国にはいろいろな統計がありますが、約9割の人が神の存在を信じています。また、無神論者はほとんどいません。神を信じない人に多いのは、無神論者ではなく、不可知論者です。歴史上、一番頭の良かった人は誰だと思いますかと聞かれたら、私は多分アインシュタインと答えると思いますが、彼はこんなことを言っています。「私の理論を使って神はいないと言うことを証明しようとする奴がいるが、このくらい腹立つことはない。」現代のアインシュタインとも言えるスティーブン・ホーキンズは、宇宙の創造についてこう述べています。「なぜ宇宙がまさにこのやり方で始まらなければならなかったのかを説明するのは、われわれに似た存在を創造しようとする神の意図的な行為として見るのでなければ、大変むずかしいだろう。」(「ホーキング、宇宙を語る」より)

多くの日本人は、神様なんて子供だましのおとぎ話だと考えているようですが、なぜそこまで信じきることができるのか、私には不思議でたまりません。