大野純司のブログ -44ページ目

サッカーの試合で名誉の負傷

私は久しぶりに本格的なサッカーをやった。人数をそろえて、監督まで指名した。大学時代にサッカーをやったことはあるが、何せ生徒数500人ほどの神学校。人数が足りないときに駆り出されて数回やったことがあるだけだ。恐れ多くも、カリフォルニア州立大学など、トンガ王国がローマ帝国と戦争をするにも等しいような試合をして、アメフトのようなスコアで負けたこともあるが、今回の試合も、にわか作りのチームが練習もしないで、まともなチームを相手にして試合になるわけはなかった。

フィールドのこちら半分しか必要ないような試合運びだったのだが、何とか味方が相手のボールを奪って、久方ぶりに向こう半分に躍り出た。私も相手ゴールの方向に全力疾走を始めた。ドリブルしながら右のライン沿いを走り上がる選手に、監督が「行けー」と発破をかけている。私も負けじと走り上がって、彼からのセンタリングを待った。

「来た!」初めてのスコアリングのチャンスだ。しかし、私の短い脚ではボールに届きそうもない。何とか合わせてシュートするには、左足しかないと思って、渾身の力を込めてボールを蹴ろうと試みた。

 気がついて見ると、私はベッドから落ちていました。私のベッドは、引き出し付きのベッドですので、かなり高く、おまけに隣においてあったテーブルの脚を直撃したようで、体のあちこちから血がにじみ出ています。左ラインからのセンタリングだったら、左に寝ていた家内をベッドからけり落とすところでした。50%の確率で蹴り落とされるところだったことなど露知らず、家内は、眠そうな顔をして、ベッドから落ちた私を不思議そうに見ていました。

満州で終戦を迎えた母

 私の母は元従軍看護婦で、戦時中、満州にいました。そこで終戦を迎えたのですが、その頃の話をすることはほとんどありませんでした。辛いことを思い出したくないのだろうと思っていましたので、聞くこともなかったのですが、終戦70周年記念で、日赤病院が、当時満州にいた看護婦たちの体験談のヒアリングをして、後世に残すことになったそうです。と言うわけで、母と、同僚のTさんが選ばれ、松山の日赤病院でインタビューされました。

私もちょうど帰省していましたので、一緒に行っていいかと聞いたところ、これは一般の人を招いたものではないので、だめだと言われてしまいました。残念だなと思っていたら、母は、自分から当時の話を始めました。非常に断片的で、一つ一つの話のつながりは良く分からないのですが、大体の順序でここに書きたいと思います。母の記憶も薄らいでおり、事実と異なる部分が多々あるとは思いますが、私の理解できた範囲で書きました。

終戦の数日前、ロシア軍が侵攻して来ました。ロシアの女性兵が、マンドリンのような形をした機関銃を持って発砲していたのが印象に残っているそうです。ロシア軍人は、腕時計や靴下の使い方も知らないような貧しい人が多かったそうです。日本人女性が狙われるかもしれないという恐怖に脅えていたとき、日本人慰安婦の方々から、「心配しなくても、私たちが相手をしますから」と言われ、それまで決して尊敬はしていなかった彼女たちに感謝しました。Tさんとふろ桶に入ってふたをし、ロシア軍が去るまで息を殺して隠れていたそうです。

音が悪くて何を言っているのかよく分からない天皇の玉音放送をラジオで聞いた後、軍から、君たちはもう自分の自由にしなさいと言われました。自由だと言えば聞こえはいいかもしれませんが、軍人のように団体で行動して帰国するのではなく、自力で日本に帰る道を切り開かなければいけないと言うことです。病院に見切りをつけてTさんと逃げ出した時はもう冬で、一面銀世界の中を、二人で手を取り合いながら逃げたそうです。自分で言うのは変かもしれませんが、まるで映画のような劇的なシーンだったと言っていました。

話は前後しますが、中国の八路軍に遭遇した時、どうなるか分からないと思った母は、必死で一人の兵士の腕にかみつきました。それ見た冷静なTさんは、即座に母の頬を思いっきり叩いて、無礼をお許しくださいと懇願したそうです。たぶん言葉は通じなかったと思いますが、八路軍の兵士もTさんの気持ちを察してくれたようで、許してくれたのです。八路軍は、規律が厳しかったので、理由もなく捕まえたり手をかけたりすることはなかったそうです。あの兵士の腕はしょっぱかったと言ってましたが、たぶん汗の塩分でしょう。

母は、ロシア兵を恐れて、自分が女性であることを隠すために髪の毛を短く切ったそうですが、ちょっと太っていたので、そんなことをしてもお尻が大きいからすぐに分かると、Tさんに笑われたそうです。確かに若いころは胸も大きかったので、前から見ても後ろから見ても、すぐにばれたでしょうね。

日本に帰るまで2年もかかりましたので、その間、何とかして食べていかなければなりません。一時は、中国人の経営する印刷工場で、当時の輪転機を回す仕事をし、給料は出ませんでしたが、食べるものだけは出してもらいました。また、Tさんが、どこからか臼と杵を見つけて来て、雑穀を炊いて餅を作り、黄粉をつけて売ったそうです。満州の人は、餅つき(と言ってももち米ではないのですが)など見たことがないので、珍しがって集まって来て、飛ぶように売れたそうです。

やっと博多港に着いたのは、昭和22年でした。博多の女性が柔らかそうなワンピースのドレスを着ているのを見て、何と言う贅沢をしているのかと思ったそうです。母は、こんなことをしているから戦争に負けたのだと憤慨しました。まだまだ戦後の貧困から立ち直れていなかった当時の日本人女性が、そんなに優雅な格好をしていたとは思えませんが、それほど満州での生活が大変だったと言うことでしょう。

帰国後、母は、手当として千円の一時金をもらいましたが、戦時中満州から松山の銀行に送っていた自分の給料は、銀行とともに焼けて消えたそうです。日赤病院でのお話は、主に、その後も日赤で看護婦長として働いたTさんがしたそうですので、母の記憶が消えてなくなる前に、このブログに残しておきたいと思います。自分の悩み事が、すごくつまらないことに思えてきました。

純情やくざの結婚式

 ある日、ビーチでの結婚式を頼まれました。新郎は背の高い中年男性、花嫁さんはかなり若いきれいな女性でした。ビーチでの結婚式というのは、既にほかで式を挙げて、写真を取るために二人だけでビーチで挙げると言うのがほとんどです。音楽もなく、参列者もなく、逆にビーチに遊びに来ている人にもの珍しそうに見られるので、緊張するばかりで、私の知る限り、新郎も新婦も、泣いた人はそれまで一人もいませんでした。

ところがこの男性、良い年をしてと言うと失礼ですが、かなり激しく泣き始めたのです。ずいぶん純情な方だなと思いながら、私は式を終えました。式の後、お二人は写真を取り、私は帰ったのですが、後でカメラマンからあっと驚くことを聞かされました。新郎さんに、どんなお仕事をなさっているのですかと聞いたところ、なんとやくざだと言ったそうです。それも、組長の右腕のような方なのですが、こんなおとなしそうな人にそんな仕事が務まるのですかと聞いたところ、けんかをするのは下っ端ですから、私たちはこれでいいんですと言う答が戻ってきたそうです。

実際、このお二人に前科があれば、ハワイに来ることは多分できなかったでしょう。私は、以前よく空港の入国管理に呼ばれて、前科のある人の通訳をしたことがあります。その多くがやくざで、中には、体中刺青をして、家紋入りの「何々」組と書いた大きな黒い財布を持っているのに、私はやくざじゃありませんと証言した人もいました。結婚式でも、参列されるご家族の中に前科のある人がいて、入国審査で見つかってそのまま帰国させられ、相手方の親族にそのことがばれてしまったとか、中には、新郎さんに前科があって入国できず、花嫁さんだけで式を挙げて、誓いの言葉は携帯電話でやったと言う方もいらっしゃったそうです。

この方、たぶんご本人は法に触れるようなことをしたことはないのでしょう。日本のやくざの皆さんがみんな彼のようになってくれればいいのですが。