大野純司のブログ -15ページ目

ビッグバン

 私が初めてビッグバン説と言う言葉を聞いたのはもう50年近く前、大学生の時でしたが、随分ふざけた名前の説だなと思いました。バンとは、爆発の擬音語で、ビッグバンは「大爆発」と言う意味です。スラングとは言えないかもしれませんが、決して科学用語ではありません。後で知ったことですが、あまりにも信じがたい説だったため、フレッド・ホイルと言う科学者がバカにしてこう呼んだのが、そのまま使われるようになってしまったそうです。

 科学者でもない私がビッグバンについて云々するのはおこがましいですが、専門家の説明を聞いても、難し過ぎてよくわからないと言うのが本音です。当時の科学者ですら信じることができなかったのですから、当然かもしれません。ですから、私のような素人が理解できた範囲内で説明した方が、返って分かりやすいかもしれないと思って、挑戦しています。内容が間違っていれば、ご指摘ください。

 素人の私がこういうことを調べるのは大変でした。ネットの記事や本を読んでも、それに対する反論があるかないかを調べるのは大変です。そこで思いついたのが、討論会のビデオを見ることでした。有名大学などで行われる討論会に招待されるような方は、一流の学者ですし、変なことを言えばその場で反論されます。Youtubeはその点本当に便利です。

 スティーブン・ホーキンズの「ホーキング、宇宙を語る」も、一般向けに書かれた本でしたが、読んでみて、決して解りやすかったとは言えません。彼によると、宇宙は約138億年前、何もないところから大爆発でできたと言うのです。138億年前だなんて、そんなに正確にわかるのかなと疑問に思いましたが、三つの異なる方法で計測した結果が一致したのだそうです。

 何もないと言うのは、モノがないだけでなく、エネルギーも空間も時間もないという意味です。この本の原題は「Brief History of Time(時間の短い歴史)」です。アインシュタインの相対性理論も、物質と空間と時間が同時に発生したことを証明しているそうで、それまでは何も存在しなかったということになります。これに反論する学者はいますが、現在のところ、通説と言ってよさそうです。

 ハッブル望遠鏡で有名なエドウィン・ハッブルが、1929年、銀河が遠ざかっていることを観察し、宇宙が膨張していることを発見したのがビッグバン説の始まりでした。ハッブルも、他の科学者同様、宇宙は永遠の昔から存在すると信じていたそうですが、この発見によって考えが変わりました。アインシュタインも、自分がなかなかこの説を信じようとしなかったことを、人生最大の失敗と呼んだそうです。

 ビッグバンは、科学だけでなく、哲学や神学にも大きな影響を与えました。形而下学(physics)と形而上学(metaphysics)の接点が発見されたのですから、当然です。

 そもそも宇宙が永遠であると言う説は、熱力学の第二法則(熱現象の不可逆性)に反しているそうです。もしそうなら、宇宙のエネルギーは尽き果てているはずだと言うのです。また、ハッブルは、ビッグバンの余熱(宇宙マイクロ波背景放射)がまだ宇宙に残っているはずだという仮説を立てましたが、1965年に、ロバート・ウィルソン氏とアーノ・ペンジアス氏がそれを発見し、1978年にノーベル物理学賞を受賞しました。

 ペンジアス氏は、「私に聖書の知識しかなかったとしても、ビッグバンのデータが示していることを正確に推測できたであろう」と述べています。ロバート・ウィルソン氏も、それまで宇宙永遠説でしたが、「何かが(ビッグバンを)引き起こしたことは確かだ。宇宙の起源に関しては、創世記(聖書の最初の書物)以上の説はない」と述べています。

 宇宙マイクロ波背景放射が完全な均一ではなく、わずかな異方性があることを発見したジョージ・スムート氏は、「ビッグバンと、無からの創造と言うキリスト教の教えには、明らかに共通点がある」と述べています。

 ハッブルの後継者であり、不可知論者(神が存在するかどうかは知りえない)であったロバート・ジャストロー氏は、その著書God and Astronomers(神と天文学者)でこう述べています。「天文学は、世界の起源に関する聖書の記載が正しいことを示している。天文学と創世記は本質的に同じである。…超自然的な力と呼ばれるものが実在することは、今や科学的に証明された事実だ。」

 結論として、彼はこう述べています。「知力を信じていた科学者たちにとって、この結末は悪夢だ。彼らは、無知と言う頂きを極めたが、最後の岩場を乗り越えた時、そこに待っていたのは、何百年も前からいた神学者たちだった。」

 ホーキンズは、引力の法則がある限り、ビッグバンは必然だったと述べましたが、同じオックスフォード大学の数学の名誉教授であるジョン・レノックス氏は、何もないのに法則があるわけがない、と一蹴しています。仮に無の世界に法則が存在したとするなら、神がlawgiver(法則を与える者)であることを証明するようなものです。キリスト教諸国で自然科学が発達したのも、秩序ある神は自然にも秩序をお与えになったはずだと言う思想があったからです。

 レノックス氏は、信仰とは世界観であり、有神論も無神論も、世界観であるという点で同じだと述べています。神が存在すると信じるか、しないと信じるか、どちらにしろ、信じることに違いはないと言うのです。人は、結局自分の信じたいことを信じると言うことでしょうか。

 色々見た討論会の中に、亡くなったクリストファー・ヒッチンスと言う無神論者のビデオがいくつかありました。彼は科学者ではありませんが、無神論者として有名でした。しかし、正直言うと、彼の議論にはちょっとがっかりしました。科学的な反論はほとんどなく、宗教の悪口を捲し立てただけだったのです。マザー・テレサでさえ批判していました。

 アメリカ国立衛生研究所長を長年務め、去年末辞められたフランシス・コリンズ博士は、医者になる前、物理化学者でした。その後、米国立ヒトゲノム研究所所長になり、遺伝子の解読をしたことで一躍有名になりました。彼はもともと無神論でしたが、熱心なクリスチャンになったことでも有名で、非常に温厚な方です。彼のプレゼンのビデオもいくつか見ましたが、彼は、このような討論会でヒッチンス氏と出会いました。

 後に、ヒッチンス氏はがんで亡くなりました。コリンズ氏は、彼を助けることのできる新しい治療はないかと探したそうです。何度か一緒に食事をするうちに、彼らの友好関係は深まりました。コリンズ氏が彼のために祈っていたことは、ヒッチンス氏も知っており、歓迎していましたが、その祈りを聞いている神はいないと確信していたそうです。

 しかし、そのうち、クリスチャンは宗教妄想に陥っているだけだという彼の態度は、だんだんと和らいできたそうです。学者としては数段上のコリンズ氏が、しかも大人になってから神を信じたのですから、当然かもしれません。結局、人の心を動かすのは、知識ではなく愛だと言うことでしょう。

「お爺ちゃん、○○を殺してもいい?」と孫に聞かれたら?

 英語にmatter of principleと言う表現がありますが、principleとは、「主義、道理、動議」などの意味です。Matter of principleは、「主義・道徳的な信念上の問題」などと訳されます。

 それによく似た表現で、matter of opinionと言う熟語があります。Opinionとは「意見」です。辞書を引くと、「いろいろな意見が起こり得る問題、意見の分かれる問題、見解上の問題、真実がどうか分からないもの」などの定義が出てきます。どうもしっくりきません。いい日本語ではありませんが、「意見の問題」とでも訳しましょうか。

 例えば、もっとも偉大な音楽家は誰かと言う問題は、「意見の問題」です。バッハ、ベートーベン、チャイコフスキー、息子たちの高校の先輩であるブルーノ・マーズなど、いろんな意見が出るでしょう。そもそも客観的に決まるようなものではありません。

 しかし、逆に、意見がまちまちだから必ずしも「意見の問題」だ、ということにはなりません。

 私の9歳の孫に、「お爺ちゃん、○○を殺してもいい?」と聞かれたとしましょう。これにどう答えるかは、○○が何であるかで決まります。ゴキブリなら、ゴーサインを出して、殺したら誉めてあげます。人間なら精神科医に連れて行きます。

 米国最高裁で、中絶が憲法によって認められている権利ではないという判決が出ました。この判決は誤解している人が多いので、例として使うのはちょっと躊躇しますが、政治的問題としてではなく、道徳的に見てみましょう。中絶が正しいと思うかどうかは、先程の○○が、革新派の言うように母体の一部なのか、保守派の言うように人間の個体であるかの判断によって分かれます。

 ちなみに、私は、潜在的人間、つまり人間になる可能性を持っている個体と理解しています。上記の二つの意見の中間的立場ですが、このブログはそれがトピックではありませんので、お呼びでない。

 話を元に戻しますが、胎児が母体の一部であるか、一人の人間であるか、それとも何かほかのものであるかと言う問題は、意見や好みの問題ではないでしょう。しかし、いろいろな意見があり、まとまりそうもないので、これを違憲、…ではなくて「意見の問題」だと思っている人は、案外多いようです。

 革新派は多様性を尊重します。これは、多様性を認める意見を尊重することであり、意見の多様性を尊重することではありません。同性愛者の結婚は、分かりやすい例だと思いますが、多様な結婚の定義を認めるべきであるという意見なのです。同性愛を認めるという意見も、認めないという意見も、どちらも認めるということではありません。同性愛の結婚であろうが、妊娠中絶であろうが、革新派も保守派も、単なる意見の問題だとは考えてないはずです。

 しかし、革新派と保守派には、確かに違いがあります。それは、道徳的判断の根拠です。保守派は、道徳には究極的な判断基準があると考えます。キリスト教の背景のある西欧諸国では、この基準の土台となるものは神です。革新派のほとんどが無神論者だとは到底言えませんが、道徳的判断の絶対的な根拠はないと考えると、すべて「意見の問題」になってしまいます。

 このジレンマは、無神論の古典的な問題点です。道徳的根拠がなければ、虚無主義に至り、すべての物事に意味や価値はない、自分の存在も含めてすべて無価値だと言うことになります。それに流されてしまうことを弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズムと呼ぶそうです。逆に、ニーチェなどのように、だからこそ人は強くならなければならないと考えることを、強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズムと呼びます。私は、開き直ったニヒリズムと呼んだ方が分かりやすいかな、と思ってます。

 政治運動に関わっている革新派が、自分は積極的ニヒリストだなどと自覚しているかどうかは疑わしいですが、活動家と言うと、まず思い浮かぶのは保守派ではなく革新派です。保守派は昔のままでいいと思っていますが、革新派は新しい考えを広める啓蒙活動をしますので、これは当たり前です。しかし、ブルーノ・マーズの方がバッハより偉大だと言ってデモをする人はいません。革新派が活動をするのは、それが単に「意見の問題」ではないと思っているからではないでしょうか。

 どちらが正しいかは、結局のところ、○○が何かによって決まります。もし胎児が人間なら、それを勝手に殺すのはけしからんと言う保守派の意見は当然です。殺人事件の被害者が犯人を訴えることができないのと同様、誰かが罪のない胎児を守らなければならないと考えるのは、正しいかどうかは別として、筋が通っています。政治的には、この問題は多数決で決めるしかないでしょう。しかし、道徳的にはそうはいきません。

 このような問題が政治的に決められた場合は法律となります。医師や弁護士など、専門職の職業倫理は、その職を選ぶ人たちが皆、自主的に合意して受け入れます。そのような場合、個人的には納得できないこともあるかもしれませんが、少なくとも職業上は、その倫理を守ることを約束するのです。どうしても納得できないと言う人は、その職を選ばなければよい、と言うことになります。

 しかし、道徳は個人的なものです。問題は、個人的ではあっても、「意見の問題」ではないということです。意見が一致しなくても、真実はあるのです。私が間違っていてあなたが正しいかもしれない、あなたが間違っていて私が正しいかもしれない、あるいは二人とも間違っているかもしれません。でも二人とも正しいということはありません。

 ヒットラーは600万ものユダヤ人を虐殺しました。ソ連や中国の共産党は、それ以上の犠牲者を出したと言われています。もし胎児が本当に一人の人間だとしたら、私たちは、それ以上に多くの人を殺しているということになるのかもしれません。

 道徳的真実があったとしても、それが何であるかに関する私たちの考えは、結局まとまらないでしょう。だったら、結果的には同じことだと言えるかもしれません。しかし、最初からないと思っているのと、あるに違いないと考え、それを探求するのとでは、大違いです。道徳は、多数決で決まるものではないのです。

人生最大の失敗

 最近、家内から、私の人生最大の失敗は何かと聞かれ、神学校に行って牧師になったことだと答えました。誤解されるかもしれませんので、説明させてください。

 私がクリスチャンになったのは16歳の時でした。私は、神に仕えたいと思っていましたが、そのためには、神学を勉強するのが最善だと思いました。必ずしも牧師になろうと思っていたわけではありませんでした。私は社交的な人間ではありませんので、神学校の先生にでもなろうと思っていたのです。と言うわけで、牧師の紹介で、高校を出てすぐ、ロサンジェルスの神学校に留学しました。

 卒業後、大学院に進みました。そのためには、日本のセンター試験のようなものを受ける必要がありました。GRE(Graduate Record Examination)と言う試験で、大学院は、GREのスコアも参考にして、受験生の審査をするのです。米国の高校生が大学入学のために受けるSAT(Standard Achievement Test)のようなものです。

 私は、もともと数学が得意で、国語や英語は苦手でした。800点満点で、平均点が大体500点になるように作られている試験なのですが、私の英語(米国ですから国語と呼ぶべきでしょうか)のスコアは数学の半分以下でした。私の当時の英語力は、まだそれほどよくありませんでしたから、ハンディがあるのは当然ですが、数学も英語で勉強したことはなかったので、ハンディがなかったわけではありません。

 教授は、こんな不均衡なスコアは見たことがないと言って笑っていました。神学には数学の点数は関係ないが、アメリカ人の学生と同じ読解力がなければならないので、大学院では留学生だからと言って容赦はしないと言うのです。数学の点数は、どこの大学でも通用する点数でしたので、専攻を理科系に変更する可能性が頭をよぎりましたが、真剣には考えませんでした。

 大学院での勉強は大変でした。修士課程は良かったのですが、博士課程は別格でした。難しい神学書を読んでも、頭に入らないという感じで、やはり、私の頭は、文系には向いてないのでしょう。

 私が入学した大学は、総合大学の神学部でしたが、市内の別の神学校と協力して運営されていました。この神学校は、小規模でしたが、世界的に有名な教授がいたのです。ところが、この神学校の教団が他の大きな教団と合併することになり、この神学校も、その大きな教団の神学校に吸収され、引っ越すことになってしまったのです。

 私も、授業の半分くらいはこの神学校で取っていました。総合大学の方は、この神学校が引っ越したことで、神学部の博士課程を廃止せざるを得ませんでした。転校など、勉学を続ける可能性を探しましたが、満足できる解決策はありませんでした。この大学の神学部は厳しいことで有名で、私が在学していた5年間で卒業して博士号を取った人は一人しかいませんでした。仮に続いていたとしても、卒業できた可能性は低いでしょう。

 私は何事にも悩まない性格ですが、この頃は落ち込んでいました。うつ病とまではいきませんが、体調を壊して原因のわからない微熱が続きました。あきらめて、帰国するよりほかなかったのです。

 帰国後いろいろありましたが、最終的に東京のある教会の副牧師になりました。その教会は日曜日に礼拝が三つあり、朝は日本人、午後は韓国人、夜は若い人向けの礼拝でした。私は、当時は自分自身若かったし、夜の礼拝を任されました。私が赴任した時、既に50人くらいの人が参加していましたが、1年で倍になりました。私の手柄ではなく、若い人向けの教会音楽が受けたのでしょう。

 私は、音楽は好きですが、クリスチャンのエンタメをやっているようでいやになり、辞めてハワイに移住しました。教会で働くつもりはなかったのですが、まもなく通っていた教会が雇ってくれて、4年後に独立しました。新しく始めた教会は、東京で働いた教会のように急激に成長するようなことはありませんでした。私は牧師には向いてないし、そんなことは期待もしていませんでした。

 ここ数十年、牧師に関する教会の考え方に少し変化があります。以前は、神に仕えるためには神学校に入って牧師や宣教師などの職に就くのが最善だと誰もが思っていました。しかし、神はいろいろなタイプの人を創られ、それぞれの人に適した天職があり、どのような仕事に就こうと、同様に神に仕えることができるという考え方に変わってきたと思います。

 私自身もそのように強く感じるようになり、牧師と平信徒という区別さえ必要ないと考えるようになりました。そう考えると、私は工学部にでも入って機械をいじるか、文系ならせめて経済学でも勉強していればよかったと思いました。あるいは医者にでもなって稼いだお金を寄付するなり、国境なき医師団のような団体でボランティアするなりした方が、よほど世のため人のためになっていたと思うのです。

 もう67歳になり、一昨年からコロナでほとんど仕事がなくなり、去年からは日本で母の世話をしていますので、このまま人生が終わるのだろうかと感じることがあります。人生の耐用年数が切れようとしている今、私の人生を振り返って、結局大したことは何もしてないと感じてしまうのです。私が神学校に行って牧師になったことが人生一番の失敗だと答えたのではそういう意味で、もっと私に適した仕事をするべきではなかったかと思うのです。

 聖書に、物事がうまく行かなかったときの励ましの言葉があります。使徒パウロがローマの教会に宛てた手紙です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」と言うのは、キリスト者のことです。人生いろいろな失敗があっても、それで終わるのではなく、将来その経験が生かされるということです。

 私は、家内との会話の中で、この聖書の言葉を引用したのですが、その続きを読んでハッとしました。

「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(29節)

 「前もって知っておられた者たち」とは、これもキリスト者のことで、全知の神は誰が神を信じるかを前もって知っておられるので、このような表現がしてあるのです。

 私が後悔していたのは、金儲けでもして寄付するなり、医療技術などを身につけたほうが、よほど人を助けることができていただろうということでした。そういう失敗をしたけれども、神はどうにかして、私が何かの役に立つようにしてくださると、この聖書の言葉を解釈していたのです。

 しかし、聖書が言う「万事が益となる」というのは、そういうことではありません。道に迷ったおかげで財布を拾ったというような話ではないのです。それは、御子、つまりキリストに似たものになるためです。人生の紆余曲折の中で、私たちは練られていくということでしょう。

 キリストに似たものになることに私がどれだけ留意してきたかと思うと、恥ずかしくなります。神が最も大切とされるのは、私が何をしたかではなく、どのような人間になるかと言うことです。そんなことは、わかっているはずですが、私の人生には反映されていません。

 ところで、家内は、私が神学校に行ったおかげで出会うことができのだから、いいじゃないのと答えました。これは確かに否定できませんね。私たちが通った神学校はライフと言う名前で、ライフに行ってワイフを探せというジョークがありました。これだけはうまく行ったようです。