聞こえないパフォーマー・もりおか見帆

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2025年8月26日(水)自宅での生け花習作です。

 


今回は、

個性的な葉が美しいニューサイラン

メインに活けてみました。



ニューサイランは、

その独特のニュアンスカラーと存在感から、

他の花材との組み合わせに

いつも頭を悩ませます。

 

 

 

どうすれば

それぞれの花の良さを引き出しつつ、

全体のバランスを保てるのか、

現在も他のサイトで勉強中です鉛筆



今回は、ニューサイランの

自然な状態を活かして生けましたが、

 

もしセンスを重視するなら、

葉の先端を整えるのもありかもしれません。

 

様々な表現方法があるのも

生け花の奥深さですね。



そこで今回は、自宅にある

クラジオラスとビバーナムの持つ「質」

 

最大限に活かすことをテーマに

構成を考えました。

 

 


結果として、まるで

日本の屏風絵や床の間を

思わせるような、

 

しっとりとした

和の空間が自宅に生まれました。



皆さんはニューサイランを

どのように活けるのがお好きですか?

 

ぜひ、皆さんのアレンジメントも

教えてくださいねグリーンハーツ
 

 

 

 

 

 

 

 

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前回の記事では、

自分の不燃焼な想いを受け止めてくれる

「器」についてお話ししました。

 

今回は、その「器」を見つけた後の、

もう一歩先の気づきについてお話ししたいと思います。


 

 

「このままでいいのかな?」と立ち止まっていませんか?

 

仕事や人間関係、日々の生活の中で

「このままでいいのかな?」と感じたことはありませんか?

 

「もっと頑張らないと」

「もっとちゃんとしなきゃ」

 

と、理想の自分を追い求めるうちに、

今の自分に自信が持てなくなったり、どこか息苦しさを感じたり。

 

そんなふうに、

誰にも言えないモヤモヤを抱えている人は

少なくないでしょう。

実は、以前の私も同じ悩みを持っていました。

 

 

 

 

 

どこか不器用で、まっすぐな道を進めない自分

 

当時の私は、

仕事で「こうあるべき」という

プレッシャーを感じていました。

 

どこか不器用で、まっすぐな道を進めない

自分を「欠点だ」と思っていました。

 

まるで、この曲がった野ばらの枝のように。

 

前回の作品に使われている、

もう一つの大切な要素が野ばらの枝です。

 

この枝は、決してまっすぐではありません。

あちこちに自由に伸び、不揃いな形をしています。

 

 


 

 

 

悩みの原因は「理想の自分」かもしれません

 

私たちが

「このままでいいのかな?」と感じてしまうのは、

 

「理想の自分」を追い求めるあまり、

今の自分を否定してしまっているからです。

 

「もっと完璧に振る舞えたら」

「もっと能力が高ければ」

 

と、自分の心の中にある

「正解」ばかりを追い求めていませんか?

 

でも、本当にすべての人生が

完璧である必要があるのでしょうか?

 

 

 

解決策は「不完全さ」を受け入れること

 

この悩みから解放されるきっかけは、

先生のこの一言でした。

 

 

「この枝の曲がりが、

 この作品の美しさの軸になる。

 そのままの姿が一番美しいんですよ」

 

 

その言葉を聞いたとき、

心にストンと落ちてきたのです。

 

野ばらは、

トゲがなくても、まっすぐじゃなくても、

その姿そのものが美しい。

 

この気づきは、

自分の人生を肯定する大きなきっかけになりました。

完璧な自分を目指す必要はない。

 

 

曲がった道も、不器用さも、

すべてはあなただけの個性であり、

人生という作品を彩る大切な要素です。







不完全なままで、あなたは美しい。

 

自信がなくても、

言葉にできない想いも、

あなただけの表現になります。

 

大切なのは、

完璧な自分になることではありません。

 

あなたの心の中にある

「不完全さ」や「不器用さ」を、

ありのままに受け入れてあげることです。

 

不完全なままで、あなたは美しい。

 

このメッセージが、

完璧を求めすぎて息苦しさを感じているあなたの、

心の深呼吸につながることを願っています。

 

 

 

もし、あなたが

 

「このままでいいのかな?」

と立ち止まっているなら、

 

まずは手帳やメモに、

心の中のモヤモヤした感情を

 

「完璧じゃなくていい」

という気持ちで書き出してみてください。

どんな想いでも構いません。

 

その「不完全な想い」を書き出すことが、

今の自分を受け入れる第一歩になります。

 

あなたが

心の内を言葉にすることで、

どんな変化があったか、

ぜひコメント欄で教えてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

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2014年以来、更新が止まっていたこのブログ。

数年ぶりに再開したのには、理由があります。

 

それは、過去に感じた「不燃焼」な想いを、

自分らしい表現に変えることで、

「これでいい」と心から思えるようになった経験を、

今度は私があなたに届けたいと決意したからです。


かつての私のように、

自信を持てず、

自分の言葉で語ることができずにいるあなたへ、

心で感じたことを表現するヒントを、

これから発信していきたいと思います。


「このままでいいのかな」


毎日同じことの繰り返しで、情熱を傾けられるものがなく、

心の中にモヤモヤとした燻りを感じている――。

 

今からおよそ9年前、

2016年の私は、まさにそんな「不燃焼状態」でした。


2007年から生け花を始めて9年が経っていましたが、

当時の私は仕事で息苦しさを感じ、

自分の本心を見失っているかのようでした。

 

聴覚障害関連の活動を縮小し、

仕事と家庭の両立に追われる日々。

 

会社では総務部に在籍し、

毎日変哲のない業務をこなすことに終始していました。

 

過去の写真を振り返ると、

実母と尾瀬へ、夫と軽井沢に行っている思い出が残っていますが、

それも心の中のモヤモヤを解消するには至りませんでした。


そんな日々の中で、私はこの作品を生けました。





この作品で先生から教わったのは、

手前のカークリコという葉の使い方です。

 

「まるで大地に根を張っているかのように、

2枚の葉で全体の流れを大きく受け止めてみましょう」

とおっしゃった先生の言葉が、今でも心に響いています。


当時の私は、目の前のことに必死で、

自分の内側にあるモヤモヤには無自覚でした。

しかし、この作品を生けながら、気づいたのです。



この大きなカークリコは、まるで私の「不燃焼状態」

そっと受け止めてくれる 器 のようだ、と。


自分が気づかないところで、

私を支え、包み込んでくれる存在が、いつもそこにある。

そう感じた時、心がじんわりと温かくなるのを感じました。


完璧な自分を目指す必要はありません。


たとえ心の中にモヤモヤがあっても、

立ち止まってしまうことがあっても、大丈夫です。

 

私たち一人ひとりを支え、

ありのままの自分を受け止めてくれる器のような存在は、

必ずどこかにあります。

 

大切なのは、それに気づくこと。

 

その気づきが、

自分を「これでいいんだ」

肯定する第一歩になります。


次回の投稿では、

この作品に使われているもう一つの花、

野ばらについてお話ししたいと思います。

 

この野ばらは特徴ある枝に実をつけ、

その姿はまるで自然が描いたアートのようです。

 

野ばらの持つ力強さと美しさには、

私自身の「不燃焼状態」を乗り越えるための

重要なメッセージが秘められていました。

 

次回では、

この野ばらを通じて得た気づきをシェアし、

あなたにも新たな視点をお届けできればと思います。

お楽しみに!
 

 

地域の中途失聴・難聴者協会の皆さま、

昨日の定期総会はお疲れさまでした。


今日は東京都でも

理事会&定期総会があります。


これまでの浅い経験に加え、

会員の意見を聞いたりいろんな考えが通過したりするかも。


頑張るという言葉は好きではないが、

原点に返ってマイペースに!もうひとふんばりしてきます。


(目黒自然教育園にて撮影)



「 余白に美を感じ、自然から学ぶ 」


【 本日の花材 】

 ・リョウブ
 ・ソリダコ
 ・カンパニュラ


リョウブは多くの葉をつけているため重たく見えてしまう。
バランスを考えながら葉を取り除くことで、あたかも風が入ってくるようなイメージにした。

その足下をピンクと紫のカンパニュラでまとめてみた。全体的に可愛く仕上がったと思う。

ソリダコ(右後方の花)はなくて良かったかも。


余白というのは対象となる部分を引き出すための演出効果であると考えている。
日本ではあえて描かない部分の構図または構成をどうするかが重要なところだと思う。


いけばなの世界では、刻々と変化する花の姿を見て学びを得るという考えがある。
花が多すぎると一輪一輪の花の移ろいを愛でることや余白の美を味わうことができないそう。


ここに日本人の美意識や哲学が凝縮されているのである。