ロシア・フォルマリズム文学論集1
- R.ヤコブソン
- ロシア・フォルマリズム文学論集 1 (1)
「新しい文学のために 」に「ロシア・フォルマリズム論集」(現代思潮社)からの引用があって、これはチェックしとかなくちゃなと思っていたんですよ。で、この本のタイトル見て、これだなと思って買ったんですけど、違うんですね。で、現代思想社のホームページも見たんですけど、どうも「ロシア・フォルマリズム論集」のほうは絶版になってるのでしょうか、目録に見当たりませんでした。
この本には、ヤコブソンとエイヘンバウムの評論が収録されています。ざっと読んで気になったセンテンスを以下にメモしておきます。
詩人の行う理論づけというものは、屡、論理の裏打ちの欠如を曝け出す(p.35)
数珠つなぎのモチーフとは、ひとつのモチーフが他のモチーフから論理必然的に流出するのではなく、形式の類似性、あるいは対照性、という原理に基づいて、モチーフが相互に結び合わされる場合である(p.56)
イメージ、象徴性は詩的言語と散文の(日常)言語を弁別する特徴ではない(p.234)
文学と風俗・慣習との一般的関係は、御伽噺のモチーフやプロットの特性の説明手段として、ヴェセロフスキー、その他の民族学派の役に立った。シクロフスキーはそれは否定しない、ただ文学的事実としての特性の説明手段としては忌避する(p.238)
芸術の形式は美的必然性によって説明され、現実の生活から借りた外的な動機付けに拠らない(p.244)
芸術は自分自身を隠す(p.281)
批評理論入門
- 広野 由美子
- 批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義
好きなんですねこういう本が。つい買っちゃうんですね。あとがきによると、本書は、ロッジの「小説の技巧」と、「現代批評ケーススタディ」シリーズのヨハンナ・M・スミス編「フランケンシュタイン」を基底としているそうで、それぞれ「小説技法篇」と「批評理論篇」に対応しています。そして京大で行った英米文芸表象論講義のノートをもとにしているそうです。なるほど、手堅い内容という印象です。
ヨハンナ・M・スミスは知りませんが、ロッジの「小説の技巧」は私も以前に読んでおりまして、とても面白かったです。ただ、それぞれの技巧についての短く的を射た説明が、全体としてどうやって統合して、一個の文学となるのかということが謎として残っていました。これはロッジだけじゃなくて、小説の技巧を説明したとする評論家の本のどれを読んでも、村上春樹のここがすごいとか、この表現が芸術だとか言いながら、じゃあそのような小説をただのひとつでも書くことの参考になるかというと、ちっとも参考にならないのは、それぞれ個別の作品の個性や部分的箇所の説明にとどまっているからなんですね。
本書ではそれを補うべく、ひとつのフランケンシュタインという作品に絞って、さらに第二部で主な批評理論を取り上げたのではないかと思います。
そこで、網羅的に並べられた批評理論から、一個の作品の全体性が浮かび上がってきたとまで言えるかどうか……とは言え、大学の講義を元にしただけあって、小説技法と批評理論を通観するのにとても便利な一冊でしょう。
パートナー
- ジョン グリシャム, John Grisham, 白石 朗
- パートナー〈上〉 (新潮文庫)
- ジョン グリシャム, John Grisham, 白石 朗
- パートナー〈下〉
こんなベストセラーを今更紹介するまでもないかもしれませんが、最近長距離移動が続いて、列車内で、そして疲れて帰って風呂に浸かりながら、一気に読んじゃったので、レビューしておきます。
謎が謎を呼び、大金が飛び交い、そしてそして、あっと驚く渋いエンディング。間違いなく面白い。安心して読んでください。
276.技法と逸脱・其の五
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00276.htm
硝子のハンマー
- 貴志 祐介
- 硝子のハンマー
一向に文庫落ちしないんで、アマゾンでハードカバー買っちゃいましたよ。てゆうかこの人の場合、文庫本で書下ろし出版した本が、その後ハードカバーで再出版されたりしてますからねえ。売れてるってことだよねすごく、才能ある人は羨ましいねえ。てゆうかてゆうか、この人、今まで出版した全作品が書き下ろし長編じゃないの? 欧米のベストセラー作家並みに、出版社が、何年かかってもじっくり長編書いてくださいお願いします、ってスタンスなんだろうか?? 憎いぞこのっ!
いやーもうこの人あ、何書いても面白いんだよね。器用というかそつがないというか、けれども決してこじんまりまとまるんじゃなくて、SFタッチでもモダン・ホラーでも、そしてミステリでも、常にジャンル小説の枠を超えたスケールでベストセラーを書ける人なんだね。
世間には先天的にミステリが苦手な人もいるそうですが、この作品でもこの作者のポピュラリティは健在ですから大丈夫。ガチガチの人は本格じゃないとか言うかもね。バカ、そんなの面白けりゃいいんだよ。いやほんと貴志祐介、羨ましいぞ。お勧め五つ星。
文学理論
- ジョナサン・カラー, 荒木 映子, 富山 太佳夫
- 文学理論
なんかこういう本が好きなんですねえ。つい買ってしまうんです。で、一読して、なかなかおもしろかったんですけれども、たとえば、ポピュラー・カルチャーを研究することは、イギリスではエリート主義への反発を意味するが、アメリカではそもそも文学にまつわるエリート主義が希薄なので、逆にポピュラー・カルチャーをアカデミックなものに格上げする試みになってしまう、というあたりですね。そしてそれは、文学でも文学理論でもなく、外から覗き見た文学研究の状況についての解説であって、芸能人でない人たちが芸能ゴシップをおもしろがるように、文学ってなんだろうと思っている私のような部外者にとって、このような解説書がおもしろいということかもしれません。
ところで私が最も気になったのは、「……十八世紀の後半から二〇世紀の半ばにかけて、抒情詩という短い物語性を持たない詩が文学の本質とみなされるようになった」(p.109 文学理論、ジョナサン・カラー、岩波書店、2003)というくだりで、その前後の文脈と無関係に、何かはっと気付いた感じがしたんですよね。私は「散文の理論」 と「ロシア・フォルマリズム」 を読んだだけで、次のような疑問を感じたんです。――フォルマリズムが詩的言語のみに偏重した文脈によって語られ、シクロフスキーは詩的言語の散文への適用に際して曖昧であるという奇妙な解釈が幅を利かせているのではないか。さらに、シクロフスキーが繰り返し論じた小説の構成については、それは本来、散文における異化効果についての論だったのだが、いつのまにか物語論の先駆けであり、プロップなどに発展的に継承された、というふうに間違った系譜の中に位置づけられるようになってしまったようだ、と。
頭の良い人たちは、網羅的に知識を勉強し、全体像を把握しようとしがちです。この方法は、全体像について予断を持ち、過去の業績をそれに合わせて変形してしまいがちな危険性を持っています。「散文の理論」を読めば、それが現代の物語論とちっとも結びつかないと気付くし、そうでない人は、ひょっとしてひょっとしたら、「散文の理論」を読んでないのではないでしょうか。実は、ヤーコブソンや、文学とはまずは詩であるという固定観念も手伝って――フォルマリズムが詩的言語に偏重した文脈によって語られてがちなのではないでしょうか。
私は「散文の理論」しか読んでいないから、かえって気づくこともある――シクロフスキーが「散文の理論」で主張したのは、詩が詩的言語によって異化されるのに対して、普通の言葉である散文を使った小説は、視点と構成によって異化されるということなんです。「散文の理論」において、詩的言語の話は枕に過ぎず、散文における異化効果こそが主論なんです。それは詩とも演劇とも違う散文を使う小説に特有な特徴についての論なんです。それが、以前に紹介した「ロシア・フォルマリズム」からも、今回のこの「文学理論」からも、ごっそり抜け落ちているようで、どうやら残念なことに、文学理論が小説から離れて映画や演劇やサブカルチャーや人間一般の理論へと広がるにつれ、本家本元の小説に関する理論がどこかへ埋没してしまったんじゃないかという気がします。
呪われた町
- スティーヴン・キング, 永井 淳
- 呪われた町 (上)
- スティーヴン・キング, 永井 淳
- 呪われた町 (下)
以前にアメリカで、ハリウッド映画のビデオをアメリカ人と一緒に見ていたら、クライマックスで、"It's Hollywood." とつぶやいて、それがちょっと小馬鹿にしたようなニュアンスらしいんですね。
この本は、吸血鬼物語の古典通りのストーリーだと巻末の解説に書いてあります。確かにそうですけれども、本当にそれだけ――つまり本当に紋切り型のお話なら(いくら日本がアメリカの植民地とは言え)ここまでベストセラーにはならないんじゃないかと思います。
とても読みやすいですが、アメリカの小さな田舎町の人々の暮らしが丁寧に織り込まれています。それから、プロットにも細かい気配りがされてあって、ページ毎に読者の気をそそる工夫が凝らされています。主要な登場人物のうちで、この人は最後まで生き残るだろうとか、この人は死んでほしくないなと感情移入した人から順に恐ろしい殺され方で殺されていきます。型通りに話を進めるように見えて、実は要所要所でそれを微妙に裏切るんですね。そう言えば、グリシャムもシェルダンもそういうところがあると思います。
ベストセラーを小馬鹿にするのは簡単ですが、決して侮れない技巧に満ちているようです。
264.中二階のある家を捜索する・其の十四
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00264.htm
276.技法と逸脱・其の五
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00276.htm
クリムゾンの迷宮
- 貴志 祐介
- クリムゾンの迷宮
レビューには、お勧め度を示す☆印がついてたりなんかしますけれども、あれってどうなんでしょうかねえ。星ひとつの本の感想、わざわざ書く必要あるんでしょうか。お勧めの作品だけをレビューすればいいんじゃないでしょうか。今回取り上げる「クリムゾンの迷宮」は、間違いなくお勧めで、ほんと、おもしろくて、買ったその日に夜更かししてその夜のうちに最後まで読み切りました。
以下ネタバレを含むのでご注意!
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小説の面白さはいろいろあって、じっくり読んでいくうちにじわじわ感動が込み上げてくるものもあれば、とにかく先へ先へとページをめくるのがやめられないものもあります。クリムゾンの迷宮は、明らかにページをめくるのがやめられなくなるタイプの面白さです。
プロットは単純で、ゲームのルールが冒頭で明示され、それに従ってストーリーが展開していきます。伏線のような謎のような思わせぶりなモチーフがたくさん出てきますが、それらは大きく三つに分類できると思います。
第一には、普通の伏線で、ヒロインの女性がやや藪睨みだったり、補聴器をつけていたり、運動神経は良さそうなのによく躓いたりすることが冒頭から描写され、その秘密がラストで明かされます。
第二には、食料にまつわる秘密で、この謎は中盤であっさり明らかになります。
第三には、ある人物が、最初から話を仕切り、途中で不審な行動をすることです。彼はゲームマスターではないかと疑われますが、本当にそうなのか、そもそもゲームマスターとは何なのかについては、結局解明されないまま終わってしまいます。
上記第二、第三のミステリアスなモチーフは、いわゆる伏線にしてはあからさますぎます。かといって、推理小説的な謎とまでは言えません。推理小説における謎は、読者がじっくり読み込む必要がありますが、そういった本格的な謎ではなく、ラストで解明もされません。これらの伏線とも謎とも呼べないような中途半端なモチーフは、それぞれのページにおいて宙吊りのサスペンスをかもし出し、読者にページをめくらせ続ける香辛料のような働きをしているようです。
240.クリムゾンの迷宮は傑作か?・其の一
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00240.htm
242.クリムゾンの迷宮は傑作か?・其の三
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00242.htm
243.クリムゾンの迷宮は傑作か?・其の四
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00243.htm
331.原稿量産術考・其の九
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00331.htm
サキ傑作集

- サキ, 河田 智雄
- サキ傑作集 (岩波文庫 赤 261-1)
以下いくつかの作品の落ちまで触れますけれども、「アン夫人の沈黙」のあらすじは、夫婦喧嘩をして、夫が謝るが、アン夫人はいつもの通り沈黙で応酬します。夫が出て行った後、飼犬が鳥籠の鳥を襲うが、アン夫人は止めようとしません。なぜなら、彼女は二時間前にすでに死んでいたからです。
この掌編の冒頭と結末を取り出すと、「アン夫人は口を利かなかった、なぜならすでに死んでいたから」となり、特に意外性はありません。夫人の死に気付かず謝り続ける夫、夫人の死と直接関係のない飼犬と鳥籠の鳥の描写が大半を占め、ラストでようやく、鳥籠の鳥を飼犬が襲ってもアン夫人は止めようとしなかった、なぜならすでに死んでいたからだ、というふうに結びつくところから、意外な感じが生まれてくると考えられます。
このような構造は、その他の作品にも見られます。「スレドニ・ヴァシュター」では、後見人の夫人に苛められている十歳の孤児が、夫人の死を願う話ですが、間に、少年が夫人に隠れて納屋で密かに飼っているメンドリと大イタチの話が長々と紹介されます。これは孤独な少年の心理を描写しているように見えます。そして夫人はメンドリを見つけて処分してしまい、少年は深く傷つきます。そして、まだ何か隠しているらしいと思った夫人が納屋に行って、大イタチの檻を開けてしまい、凶暴な大イタチに襲われて死んでしまいます。ラストは、少年が(夫人から単に意地悪のために禁止されていた)トーストを焼き、バターをたっぷり塗って食べます。この結末を読むと、大イタチが少年の心の支えであり、大事な宝物であるという中盤の描写は、もちろん嘘ではないですけれども、大イタチの隠された本当の役割は、鋭い牙で夫人を殺してしまうところにあったのだと気付きます。 冒頭と結末は腑に落ちる関係であり、その間に、鳥と犬とか、鳥と大イタチとかが挟まれて、それと結末とのつながりが弱いわけです。だからラストで意外感を感じると同時に、納得できる感じもするのだと思います。
この本の中の多くの作品が、そのような同じ構造を持っているようですが、一方で、それぞれの作品の面白さはそれぞれのモチーフによって、それぞれに面白いのだ、という感じも受けます。「狼少年」では、少年に化けた狼をうかつにも家に引き入れてしまうことのサスペンス、「トバモリー」では、もしも飼猫が主人のプライバシーを饒舌にしゃべりだしたら……という滑稽さが、それぞれの作品の眼目であるようです。
それでもやはり、「狼少年」において、少年に化けた狼を、密猟者だと思ったり、かわいそうな孤児だと思ったりすることによって、狼が子供を食うという当然の結末が引き延ばされたり、言葉をしゃべる猫のトバモリーによって結末が引き延ばされたりする、構造上の共通点が目に付きます。
これは、落ちの利いた掌編の勉強にうってつけの一冊と言えるでしょう。
244.モチーフとは何か・其の壱
http://juji.hp.infoseek.co.jp/text/howto00244.htm
小説の言葉
- ミハイル・バフチン, 伊東 一郎, Mikhail Mikhailovich Bakhtin
- 小説の言葉
バフチンは、小説の文体の特徴は言語的多様性(ラズノレーチエ)であると言います。作者の声に満たされた単調で単声的な文体に比べて、小説は、様々な言葉が入り込んだ多声的な文体です。まず第一に明らかなのは、登場人物の台詞です。これはしばしば作者の政治的信念と係わりなく自己主張します。たとえば、作品中で差別主義者は差別的放言をするし、マッチョは彼のスタイルで煙草を吸ったり強い酒を飲んだりし、かわいい女は女らしい仕草で恋人への恨み言を言ったりするわけです。第二には、地の文への様々な特徴的言葉遣いの導入です。「法廷や議会での弁論、議事録の特殊な形式、尋問調書、新聞のルポルタージュの形式、ロンドン財界の無味乾燥な事務用語、金棒引きのうわさ話、ペダンティックな学者の言葉遣い、高尚な叙事詩の、あるいは聖書の文体、偽善的な道徳的説教の文体」(p.85)などが、書簡とか裁判記録の引用とか新聞の切り抜き記事とかを装って、小説中に導入されるわけです。第三には、一見、作者の客観的な叙述文に見えて、その同じ文中のあちこちに他者の言葉が(しばしばパロディー的に)埋め込まれる場合です。バフチンはディケンズの例を引いていますが、そこでは、登場人物を紹介する一見客観的な描写の中に、「偽善的な公式的式辞というジャンルの古風な言語」を混ぜ込むことによって、登場人物のもったいぶった性格を表現しています。
言語的多様性は、複数の声が互いに矛盾し、主張しあうものであり、対話的、論争的であるという特徴を持っています。逆に、このようなものを持たない本質的にモノローグな散文は、真の小説ではない、とバフチンは言います。
バフチンは、フォルマリズムを批判したと言われていますが、この本を読んだ限りでは、どのように批判したのか今ひとつはっきりしませんでした。散文に関して、バフチンは文体を、エイヘンバウムは語り(スカース)を、シクロフスキーは視点と構成(シュジェート)を中心に研究したわけですが、これらは対立したり否定しあったりするものではなく、相補う関係に見えます。バフチンは、文体論として見たとき、エイヘンバウムのスカースもシクロフスキーのシュジェートも不十分だと言いますが、逆にシュジェートから見ると、バフチンの文体論は不十分であるようです。バフチンは、小説の構成の目的を、言語的多様性(ラズノレーチエ)を導入するためだと言いますが、具体的にどのように構成するかについては、少なくともこの本の中には書かれてありません。
巻末の解説によると、フォルマリズムが社会から言葉を切り離しその中に閉じこもったのに対して、バフチンは、言葉が社会の中にあり密接に関係していることを示したというようなことが書かれてありますが、スカースもシュジェートも言葉にとどまるものではないような気がします。この辺り、なによりまず私の知識が足りないので、もちろんこの本への批判ということではなくて、単なる疑問としてここにメモしておきます。
はじめての構造主義
- 橋爪 大三郎
- はじめての構造主義
著者は、構造主義の〈構造〉が入門者にはわかりにくいと言い、また、この本は構造主義の入門書であるので、構造主義者の言う〈構造〉とは何かを説明するとまず言います。そしてレヴィ=ストロースが参考にしたものとして、ひとつには、ソシュールの言語学、ヤーコブソンの音韻論の流れがあり、もうひとつには、数学の流れがあると言います。
数学の始まりは、ユークリッド幾何学であり、ヨーロッパにおいて、理性主義の根底に、現実を写す鏡としての数学がありました。けれども、非ユークリッド幾何学の登場によって、ユークリッド幾何学は絶対の真理ではなく、ひとつの制度であることが明らかになりました。ユークリッド幾何学の内部でいくら矛盾がなくても、だからそれが絶対の真理だということではなくて、公理体系の異なる幾何学を他にいくつも考えることができるわけですね。
現代数学は、ヒルベルトの形式主義を経て、数学的な考え方そのものの〈構造〉を研究対象にするようになったそうです。たとえば、足し算は、ミカンが五個とリンゴが三個、合わせて八個、というように、具体的なもののように思いがちですが、現代数学では、群論と言って、演算を抽象化してその構造を考えるということが行われているそうです。そして、レヴィ=ストロースは、このような数学からアイデアを得たと著者は主張します。
たとえば、レヴィ=ストロースの婚姻交換の規則は、抽象代数の「群」の一種と瓜二つだと著者は言います。また、レヴィ=ストロースの神話研究は、地域によって少しずつ異なるいろんな神話が、数学の関数とか写像とかで言うのころの変換関係で結ばれたひとまとまりの集合であると考えます。この変換の規則がわかれば、ちょうど足し算や引き算がそのような〈構造〉を持つ演算の一種であるように、神話の〈構造〉も明らかになるわけです。
著者は、今まで、レヴィ=ストロースについて、ソシュールやヤーコブソンの影響が強調されすぎてきたきらいがあるが、実は数学のほうが大きな影響を与えているし、数学における〈構造〉と構造主義の〈構造〉はパラレルな関係にあると言います。私は、構造主義に関する本を、まだこれ一冊しか読んでいないので、これがどれくらいユニークな考え方か判断できませんが、なかなかおもしろかったし、説得力もあるように感じました。
入門書とは言え、網羅的に無機質に概説したものではなくて、著者が咀嚼し消化した知識を、自分の言葉で語っているところが好感を持てます。巻末に関連図書のブックガイドもついてます。