「私は少年時代から不思議に思っていることが、いくつもあるが、そのなかで、もっとも不思議に思うことは、国家と国家との間に、もっとも文化とかけはなれた行動があるということである。
 もっと、くわしくいえば、あらゆる文化国の人々が、礼儀の上でも、ことばづかいでも、態度でも、実によく文化的に訓練され、教育されている。このように、個人と個人との間の生活は、価値と認識において、文化的であるにかかわらず、この形式は、国家と国家との間における外交にかんしては、表面が文化的であっても、その奥は実力行使がくりかえされている。
 一旦、外交が断絶されると、礼儀や習慣を捨てて、修羅の巷となるのが、国家間の状態ではなかったろうか。これを端的にいうならば、国家と国家の間には、実力以外何ものもない野蕃人の生活がくりかえされてきたのではないだろうか。その姿はイソップ物語を、そのまま国家間の闘争にうつしたと同じであった。
 より高い文化、より高い科学は、より強き国家、より強き民族の力となり、しかして、いままでの状態は、総力を国家間の闘争に集中された時期があったが、これでは平和に逆行する以外の何ものもない。人類の日常生活に科学が進めば進むほど、人間の横暴が強くなり、文化が進めば進むほど、人間は憍慢を強めてきた。科学の進歩も、文化の発展も、人類の横暴、憍慢、嫉妬、卑屈を、ますます強盛にしてきた結果になっていないであろうか」(戸田城聖全集)
 

この晩夏の店頭での米薄は不可思議というか、なんだか夢のなかの感がある。革命といった慌ただしさはなく、いわば静かな革命だ。農家も農水も「供給量も需要量も変わりない」といい、店頭からあっという間に米が消えていまだ戻らない。

真綿で首を絞めるような、いや、いつの間にか潮が引いていくような感である。様々な事情が一時に重なった結果で、また秋には戻るに違いないが、それでも変化というものの本質を感じさせる事象である。

以前、何かのCMでイチロー選手の「変わらなきゃも変わらなきゃ」とのセリフが話題となったこともあったが、革命家気取りで変革の気炎を上げて気張らずとも、真に変わるときは、いつの間にか自然に変わっているものなのかもしれない。

それは、何に由来するかといえば、全体でも部分でもなく、一つ一つ一人一人の小さな変化の連鎖に違いない。誰かがふとした理由からいつもの倍ほどの米を買えば、受給バランス均衡していればなお、一時的に不足(品薄)となることは自然の理である。

缶詰などの常温食品といえば、使い勝手がよいものだが、最近はその「常温」が気になる。なぜかといえば、熱中症が常態化する夏の高い気温である。
「常温」を辞書で引くと「生活する空間で、一般に周辺に見られる物質が熱による影響をほとんど受けないで変化しない又はきわめて穏やかに変化する温度」とあり、「日本薬局方」では「15~25℃」と定められ、室温(1~30℃)や標準温度(20℃)と区別される。
果たして、食品メーカーなどは何℃くらいを想定しているのだろうか。またわれわれは何℃くらいを想定しているのだろうか。常備場所にもよるが、30℃を越えないとはいいきれない時代である。
チョコなどは誰もが夏場は冷蔵庫保管するであろうが、たとえば菓子などはどうか。最近、しばらく放置していた柿ピーを食べたらば、なんか油が酸化したような味がした。油分を含むものは、温度によって多少なりとも溶けるか、酸化が進むはずである。

夏場は常温食品の保管場所には気を付けねばならないし、メーカーも認識を改め「常温」の目安を表示するか、もしくは夏場は冷蔵での保管を薦めるか、そんなパッケージ表示が必要かもしれない。