「信なくば立たず」だが、どこも一様に「信頼を取り戻す」として、政治改革を掲げるが、失った信頼を取り戻すことは、それほど簡単なことではあるまい。政治に限らず、信頼の構築には時間を要するものである。
政治改革とはいえ自浄作用の問題で、自浄作用を働かせるのは、それほど時間を要する問題とは思えない。いわば政治家個々人が身を正すであり、法律や規制で縛られねば「正せぬ」というのでは、政治家としてはあまりに情けない。そもそも、そこが信頼の肝である。
日本に限るまいが、身の回りには喫緊の課題が山積みである。それら課題の解決を、「信頼を取り戻す」などと連呼する政治の自浄能力の働くまで待てというのであろうか。そんな悠長なことはいってられない。
自浄能力は政治家自身の問題であり、それをわれわれに押し付けないでほしいものだ。自浄能力の欠如、働かない政治家は不要であり舞台から去ってほしい。
真に信頼を取り戻したければ、直ちに山積するあらゆる課題と向き合い、具体的な政策を講じPDCAを回すことである。その具体的な政策の立案と実行、また分析把握、検証の姿を通じてしか、信頼などは取り戻せない。
最近、日本の小中学校でも電子デバイスを用いた学習に注力している。これまでは、世界の多くの学校が児童に電子デバイスを無償配布し、学習に利用することを進めてきた。
にもかかわらず、子どもたちの学習成果は徐々に低下し、欧州では授業での電子デバイスの使用を止める動きがあるようだ。フィンランドのリーヒマキの学校では現在、生徒たちは電子デバイスではなく、ペンと紙で授業している。
2018年以降、市内の中学校で教科書の使用を止め、電子デバイスの使用に切替えていた学校だけに注目に値する。実際、先生は「授業中により集中できるようになり、気が散ることが減った」との話す。
私自身の経験上から、ぺんと紙の方が集中できることは頷ける。若いころ、大先輩が大事なことをペンでメモ書きし、より分かりやすく図やイラストを素描し、説明してくれる姿は「美しい」と感動したものだ。
電子デバイスの過度の使用は、目の問題や不安の増大など身体っかつ精神面でのリスクをともなうことなどは、誰もが知っていることだとは思うが、それでも児童への電子デバイスを用いた学習は必要なのであろうか。今一度、立ち止まって考えてみる必要はあろう。
朝ドラ「虎と翼」で、1963年(昭和38年)12月の原爆裁判の判決の日に、裁判長が主文をあとに読み上げられた判決理由は圧巻である。
当時、広島市にはおよそ33万人の一般市民が、長崎市にはおよそ27万人の一般市民が住居を構えており、原子爆弾の投下が仮に軍事目標のみをその攻撃対象としていたとしても、その破壊力から無差別爆撃であることは明白であり、当時の国際法から見て、違法な戦闘行為である。では損害を受けた個人が国際法上、もしくは国内法上において、損害賠償請求権を有するであろうか。残念ながら、個人に国際法上の主体性が認められず、その権利が存在するとする根拠はない。
人類始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって、被害を受けた国民に対して心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争を廃止、もしくは最小限に制限し、それによる惨禍を最小限に止めることは、人類共通の希望である。不幸にして戦争が発生した場合、被害を少なくし、国民を保護する必要があることは言うまでもない。国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである
原爆被害の甚大なことは、一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策をとるべきことは、多言を要しないであろう。しかしながらそれは、もはや裁判所の職責ではなく、立法府である国会、および行政府である内閣において、果たさなければならない職責である。それでこそ訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法、および立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長を遂げた我が国において、国家財政上、これが不可能であるとは到底考えられない。我々は本訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。