てなことで、陸奥国一宮鹽竈神社の参詣を終えまして、ゆるやかな坂道の東参道を下ってまいりました。表参道に対して東参道というわけですが、前者を表坂あるいは男坂、後者を裏坂あるいは女坂と言われているあたりでも、斜度の違いは想像していただけようかと。それでもところどころ、少々の急降下はありましたけれど。

 

 

ちなみに、宮城に来て石巻、塩釜と巡る中ではとんとインバウンドの気配を感じておりませんでしたが、この鹽竈神社東参道を登り来る中国からと思しき観光客グループを見かけましたですよ。旗を押し立てていますので一目瞭然ながら、数人の小グループですので、さほどに辺りの静寂を破るふうでもありませんでしたけれどね。それにしても、こんなところ(といっては鹽竈様に失礼ですが)にまで訪ねてくるのですなあ。

 

 

ともあれ、裏坂を下りますと、目の前には本塩釜駅へとつながる、交通量のそこそこ多い広い車道となります。これに沿って駅へと戻るわけですが、この道には「鹽竈海道」という別称があるようで。

 

 

「しおナビ ぶらぶらりんマップ」によれば、鹽竈海道に沿って「両端には、せせらぎと塩竈を詠んだ和歌を刻んだ百人一首の碑がある」ということでしたので、「ああ、これが百人一首の?!」と思えば全く違いましたなあ。松尾芭蕉『おくのほそ道』の一節が刻まれておるようで(写真では判読できませんが…)。

 

芭蕉は旅立つにあたり、伊賀上野の俳友に「松島の朧月」と「鹽竈の桜」を楽しみにしているという手紙を残しているが、塩竈を訪れたのは同年(元禄二年・1689年)五月八日(陽暦六月二四日)、御釜神社、野田の玉川などを巡って裏坂の治兵衛の宿に泊まり、翌日、鹽竈神社を参拝し、船で籬島などを眺めながら松島へ向かうが、残念ながら鹽竈桜をみることはかなわなかった。

こんなふうに道端の解説板にはありますので、芭蕉もまた裏坂(東参道)の宿から鹽竈海道をたどって船着き場へ(すなわち今の本塩釜駅の方向へ)と向かったのでありましょう。確かに沿道には浦霞醸造元の蔵も見え、また古くからある町家と思しき建物も散見されましたなあ。

 

 

 

 

と、また少々松尾芭蕉に思いを馳せつつ鹽竈海道をたどって本塩釜の駅に到達いたしました。駅前ロータリーには港町らしく船の錨をモニュメントとして置かれてありますが、気にかかるのは左側の方でしょうか。

 

 

なにやらモダンアートのようでもありますけれど、傍らには「あの日を忘れない」と刻まれていることからして、「ああ、津波オブジェであったか…」と。

2011年3月11日、未曾有の震災が発生しこの石碑を呑む程の津波が襲来した。復興の願いを込め石碑を建立する。歳月が経ち町が復興し石碑が苔むしてもこの石碑が津波の脅威を伝え続けることを願う。

石碑が苔むしても…というあたり強い願いが感じられるわけですが、古来何度も大きな津波に襲われている地域なだけに、遠く、向こうの高台の先に鹽竈神社が鎮座しているあたり、高いところに神の依代を見た一方で安全な場所なればこその立地か…てなことを考えたりも。

 

で、松尾芭蕉ならばこの先、船をこぎ出して松島へと向かうところですけれど、ここではちと袂を分かってJR仙石線に乗車することに。やってきた仙台・あおば通行きの列車に乗り込んで、目指すは三つ先の多賀城駅。そこでどこを訪ねるかはもう想像がつくことでありましょうねえ。