PCの不具合でふいにお休みを頂戴し、その後ほどなくマレーシア行きにかまけたこともあり、「奥州宮城仙石線紀行」がすっかり宙ぶらりんになってしまっておりましたが、さすがにこちらも少しずつ進めておかねばと思いまして。鹽竈神社表参道の石段のところで止まっていたお話、藪から棒に再開いたしますですよ(笑)。

 


 

さてと、東北鎮護、陸奥國一宮の鹽竈神社表参道、202段の石段を無事に登り切りまして、たどり着いた先には山上に結構な大きさで境内が広がっておりましたなあ。「しおがまさま境内案内図」ではこのようになってます。

 

 

ちょうど左下に描かれた段々を登り詰めて山上に到着したところですな。随身門を抜けた先の境内はこんな具合です。

 

 

おや?と思ったのは左手にある手水舎ですな。コロナ禍以来、柄杓の使用がはばかられるだけに手水舎自体が使われなくなっているところも多々ありますけれど、「こう来たか!」と。

 

 

自動式手水…ですか。たくさん神社を巡ってらっしゃる方なれば、「今どき、そんなん珍しくもない」のかもしれませんが、個人的には初めて見る機能でありましたよ。神社もお寺もさまざま世につれ…ということはありましょうけれど、どうもありがたみが今一つといいますか。

 

ま、そんなことはあっても、やはり朝早くに訪ねた神社というのは、清々しい空気に溢れている気がしますですね。だいたい歴史ある神社はそこに何かしら「気」のようなものが感じられる場所に建てられているわけで、陸奥一之宮たる鹽竈神社もまた同様の雰囲気をまとっておるのでしょう。

 

 

拝殿・本殿を囲う回廊内に入る門の扁額に「鹽竈三社大明神」とありますように、正面には左宮本殿、右宮本殿が、右手側に別宮本殿が置かれ、それぞれに武甕槌神、経津主神、そして鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)が鎮座しておられるそうな。そも鹿島神宮香取神宮の主祭神ですけれど、こちらの神々が東北平定の折、鹽土老翁神が道案内した…というのが、三社の関わりであると神社御由緒に。

 

 

 

ちなみに上の写真では別宮拝殿の手前にある燈籠ばかりが目立ってしまっておりますが、これは「文治の燈籠」と呼ばれるその名の通り、「文治三年七月十日 和泉三郎忠衡敬白」と刻まれているとは、大層な年代ものではありませんか。文治三年は西暦で1187年、平安から鎌倉へと時代が移り変わる頃に和泉三郎忠衡、すなわち奥州藤原氏の藤原忠衡が寄進したものとは。

 

傍らに立つ解説板には、松島に訪ねる直前、塩釜に立ち寄った松尾芭蕉はこの燈籠を見て『おくのほそ道』に「…神前に古き宝燈あり。…五百年来の俤、今目の前に浮かびてそぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり」と記したことが紹介されておりましたですよ。

 

先に山形で立ち寄った山寺芭蕉記念館で、芭蕉の旅は「歌枕・旧蹟や西行・源義経などの先人の足跡を訪ねるため」と説明がありましたけれど、兄・泰衡と違ってとことん判官贔屓だった忠衡を「勇義忠孝の士」と言うあたり、芭蕉もかなりの判官贔屓だったのでありましょうかね。

 

ちなみに回廊入口に近いあたりには燈籠がもう一つありまして、シンプルな印象の文治燈籠とは打って変わって派手に目を引く意匠になっておりましたなあ。

 

 

「文化燈籠」と呼ばれるこちらの燈籠は解説板によりますと、「文化六年 伊達九代藩主周宗公が蝦夷地警護の凱旋ののち奉賽として寄進した」ものとか。さすがは伊達者の系譜とでもいえましょうかね。

 

折しも朝早くということもあり、鹽竈神社神職の方々が左右のお宮と別宮と、順々に参拝していっているようすも清々しい(ちと駆け足的にも見えて、日常化の極みとも思えましたが…)。ということで、取り敢えず自分も参拝を終えましたので、あまり人出の無いうちに(一番上のイラストマップのように)広い境内をもう少々巡ってみたのでありますよ。