あたかもタイミング的には初詣で鹽竈神社に出かけたかのようになってしまいましたが、訪れたのは昨年11月の下旬でして、周囲の風景は晩秋の佇まいと受け止めてくださいますと幸いです…といっても、昨年は紅葉シーズンが遅めだったかもですねえ。
表参道の石段を前に立派な石鳥居が立っておりますが、柱の部分には仙台藩四代目藩主・伊達綱村の幼名「亀千代」が(寄進者として?)刻まれておると。鹽竈神社の社殿は伊達政宗も造営を手がけましたですが、現在に残る社殿は綱村が造営に着手したものだそうで(竣工は五代目の吉村の時代)。
伊達綱村は(神社への崇敬のみならず)「塩竈発展の礎を築いた」ともされているようで、門前の道路際には綱村が詠んだ漢詩『詣鹽竈』を刻んだ石碑が建てられておりましたよ。
ちなみに門前にはもう一つ、「こんな人も来たのであるか」ということを示すモニュメントが。ただ、いずこでも同様ですけれど、絵を嵌め込んだものは散々太陽光に晒されて悲惨な状態になってしまうも、その後もケアはおよそされない…。モニュメントとして造った甲斐無しではと思ってしまいますですねえ。
描かれているのは、まさにこれから登ろうとしている鹽竈神社表参道の石段を見上げた風景ですけれど、誰が描いたのであると申しますれば、幕末にフランスから派遣されて幕軍の洋式化に携わり、義侠心の故か戊辰戦争では幕府側に与して五稜郭まで転戦したというジュール・ブリュネその人であると。
仙台藩は、輪王寺宮を戴く奥羽越列藩同盟の中でも取り分け雄藩であったわけですから、一時にもせよ、反政府軍として集まった誰彼が東北鎮護の鹽竈神社に詣でてもおかしくはないわけですが、フランス陸軍将校までが来ていましたか。しかも束の間の平穏があったのか、スケッチを残していたとは…ですなあ。
と、またまた鳥居のあたりをうろちょろするばかりでいっかな先へ進みませんが(笑)、石段登りの決意も新たに(?)いざ。ちなみに鳥居に掛かる扁額にある「陸奥國一宮」の文字は姫路藩主・酒井忠以の揮毫によるとか。姫路のお殿様と鹽竈神社の関わりのほどは詳らかでないのですけれどね。とにもかくにも、石段登りです。
先には202段の石段など、山寺に比べればものの数ではない…などと言ってしまいましたですが、九十九折であったり山道ふうであったりする山寺に対して、こちらはひたすらに、ただただまっすぐに登る形であるのが、実は思いのほかしんどいでしたなあ。ほぼ規則的に腿上げを繰り返すのはストイックなトレーニングとでもいうなようなところでして。
そんなことを思いならひいこらと登っておりますと、傍らに近所の高校生でもあるのか、石段を駆け上がっていく姿に出くわしたという。文字通りのトレーニング場であったようですな、この石段。思いのほか、きつい印象は見上げたときよりも見下ろした方が分かりすいかもしれませんですねえ。
「若者よ、がんばれ!」と他人の応援をしてしまいましたですが、かの若人も駆け上がった終着点で「ふう~」と腰を折って大きく息をしていましたのでね。ま、こちらの「はあはあ」とは息の荒さに違いがありますけれど(笑)、ともあれたどり着いたところはこんなふうです。
もうひと息の登りで随身門を抜ければ…というところまで来たわけですな。つうことで、鹽竈神社の境内を巡って…というお話をこの次になってまいる次第なのでありますよ、「ふう~」。