歴史としては(戦争やら政争やらの)勝者が記述したものが「本当」らしく残されていくのが常でしょうから、そういうつもりで見ていかねばならんとは思うところでして、幕末維新の動乱の果てに生まれた明治政府による史観もまた、でありますね。

 

時を経てだんだんと記憶が薄らいでもこようかという明治15年(1882年)、改めて維新の勲功を詳らかにせんと政府では関係者に対し、おのおの自らの成したところを書面で提出せよといったお触れを出す…というあたりから物語が始まるのが、吉森大祐『東京彰義伝』なのでありました。

 

 

幕臣として江戸城の無血開城に関わり合ったと思しき山岡鉄舟がすでに官を辞して、後に全生庵と呼ばれる寺を設けて禅の道を究めんと考えていた頃、鉄舟の剣の弟子である香川善治郎が「無血開城の功は先生にあるのですよね?!」と飛び込んでくるのですな。政府の要請に対してすでに勝海舟は長い長い報告書を提出しており、どうも全ては勝の手柄のようにされてしまうのが癪に障った善治郎が詰め寄るも、鉄舟は報告書を出すなど全く考えていないようすなのですな。「勝の手柄というなら、それでいいじゃないか」と。

 

どうにも収まらない善治郎は「それでは、私に代筆させてください」と頼み込み、しぶしぶながら鉄舟は善治郎に当時のことを知る人たちに紹介状を書いてくれたりはするのでありました。話は江戸城無血開城の前夜から上野戦争とその後の顛末まで、当時の裏側を知る町人から幕臣に至るたくさんの人たちを善治郎が訪ね聞きする形で進んでいくのですが、その話の中で浮かび上がってくるのが輪王寺宮の存在であったのですなあ。

 

江戸の鎮護を祈るため、上野山に開かれた寛永寺の貫主に皇族が東下すること、三代将軍家光の時代から続く慣わしとなっておりましたが、語られる歴史の中でその存在に触れることはあまり無かったことのなのではなかろうかと。されど、幕末ぎりぎりの政情不穏な時期に輪王寺宮として江戸にやってきたのは皇位継承権を持つ若干二十歳の若さであった皇子でして、江戸へと官軍が迫る中で、東征軍を留めるよう駿府まで出向いてみたり、すでに将軍を降りた徳川慶喜が水戸へ退去した後も上野のお山に留まってひたすらに祈りを捧げたり、京からやおら江戸に送り込まれたお坊ちゃまとは思えない行動を見せたそうな。

 

それが故でしょうか、上野山に籠った彰義隊に担ぎ上げられ、果ては奥羽越列藩同盟では旗頭にもされてしまう。歴史研究上さまざまな説があるようながら、物語ではこの時、輪王寺宮は東武天皇として即位し、改元まで行ったとも。つまりは南北朝のような二帝並立状態で、明治天皇を担いだ薩長が官軍ならば東武天皇をいただく奥羽越連判同盟もまた官軍ではあったという状況でもあったそうな。

 

これが必ずしも小説としてのフィクションとばかり言えないのは、「当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている」てなことが、Wikipediaに紹介されてもいるわけで。

 

さはさりながら戦いの趨勢は誰もが知るとおりの結末を迎えるところでして、輪王寺宮は逆賊側というになって身分なりの処分を受けることになっていくのですな。もはや江戸鎮護のための輪王寺宮という存在が不要になったこともあり、明治の後に北白川宮能久親王として知られるようになるわけです。

 

それにしても、京の都から全く異世界のような江戸にやってきてまもなくだというに、輪王寺宮がなんだってこれほど「江戸」にこだわりを持った対応に及んだのか。そのあたりをうまく作り上げたのがこの物語でありますね。貴顕の存在である宮が実際に江戸庶民とどれだけ関われたかは分かりませんけれど、(物語で描かれたほどではないとしても)実際に輪王寺宮が江戸っ子たちに愛されていたということを、作者は昭和の古老が語っていた雑誌記事を読んで知り、本作に昇華させたのであるとか。確かに新聞書評だかに書いてありましたなあ。

 

江戸っ子たちとの関わりという点では、上野戦争の際に寛永寺脱出を図った輪王寺宮は下谷で湯屋を営む越前屋佐兵衛に背負われて難を逃れた…といった話が歌舞伎『皐月晴上野朝風』、通称『上野の戦争』で描かれたりもしているそうな。その佐兵衛には佐絵という娘がいたことにして、その町娘と輪王寺宮との、甚だしく身分違いの淡い想いをひとつ、大きな軸ともしていまして、江戸っ子たちが「べらんめえ」で語るところがふんだんに登場するという。あかたも江戸落語を聞くような、そんな楽しみもあるのでありますよ。

 

それにして、この幕末の輪王寺宮を取り巻く状況などは、歴史に詳しい方は知ってもいましょうけれど、広くはあまり知られていないことでもあろうかと。歴史を一面でしか見てはいけんなあと、改めて考えたところなのでありました。