1月の読響演奏会を聴いてきて、そのことを何かしら書き記すかいね…と思っていたら、やおらPCがお釈迦になり…と申しましてから、3週間が経ちました。もうというのか、まだというのか。もたもたしていてPCの再調達は未だ成らずの状態ですが、扱い慣れぬ別機材(とりわけ画像の扱いがうまくいかない…)ながらそれにも少々慣れてきて、マレーシアから帰ってきてからはさも旧に復したように書いてはいますが、余分な時間がかかっておるような。
とまれ、時の経過を象徴するように?早くも2月の読響演奏会があったもので、東京オペラシティに出かけてきたのでありますよ。タクトを振ったのは御年82歳、ドイツの歌劇場叩き上げのマエストロ、ローター・ツァグロゼク。シューマンの交響曲第4番とモーツァルトの交響曲第41番をダブル・メインにした独墺系プログラムは自家薬籠中の物てなことになりましょうか。
モーツァルトはオケの人数を絞って、ヴァイオリンを対抗配置する新鮮さ(古典さ?)があったりしたですが、個人的にはシューマンの4番に「ああ、ロマン派のシューマンであるなあ」としみじみ。交響曲としてどうよとは、シューマンによく言われるところながら、プログラム・ノートに曰く、シューマン自身としては「この曲は、交響的幻想曲である」といった意識を持ち続けていたようす。ま、そう言われた方がしっくりくる曲でありますね。
ところで、この交響曲2曲の前座?に置かれたのがやはりシューマンのマンフレッド序曲だったのですが、ご存じのとおりにこれはバイロンの劇詩由来のものなわけです。「アルプス山脈のユングフラウの城郭を舞台にマンフレッドと魔女、聖霊たちの形而上学的対話が展開される」(Wikipedia)という内容は、文学志向の強いシューマンのみならず、のちにはチャイコフスキーにもインスピレーションを与えましたですねえ。
と、そんなアルプスという峻険な山々を舞台にしたバイロンの『マンフレッド』に触れたついでに、思い出したはPCがいかれて書きはぐれていた一冊の本のお話でして。昨年秋に訪ねた「変わる高さ、動く大地-測量に魅せられた人々の物語-」展@東大駒場博物館で展示に関わる参考文献リストを入手し、その中から『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』と『メートル法と日本の近代化 田中舘愛橘と原敬が描いた未来』とを読み、さらにもう一冊というのがここで取り上げます『暗い山と栄光の山』なのでありますよ。
そも駒場博物館の展示解説を見た際に「世界が神の被造物で美しいものとする考えからしますと、地表面をでこぼこと覆う山地は地球にできた醜い「あばた、おでき」のようなものであって、人間の犯してきた罪がかようなでこぼこを生じさせたのであると、17世紀までは真剣に考えられていたようで」てなふうな、「ほお、そうですか?!」といった印象を受けておりました。
この本ではgloomに受け止められていた山がだんだんとgloryなものへと変化していく、そのあたりの意識形成過程を詳らかしていくわけですが、神学絡みの話が多く出てきたりしますのでなかなかに付いて行きにくくもある。ま、山を「あばた、おでき」と見る意識はキリスト教の聖書解釈などとも関わってきますので、致し方無しですな。
考え方にはさまざまあるようながら、例えばこんな話も。本来は天地創造によって創り出された土地は全き世界であって、完全に均された平地であったと。さりながら、人間の罪業が大洪水(ノアの方舟の話ですな)を引き起こし、深く掘り下げられたところもあれば、それが堆く積み重なってしまったところも生じてしまったと。それが証拠に?高い高い山の上で、海にいたと思しき化石がみつかるではないかといった…。
この化石の言及などは、古くからの聖書解釈が破綻をきたさない限りにおいて、なんとか時々の科学的知見と折り合いをつけようとしているようすが窺える気がしますけれど、およそ17世紀以前には「次の世紀に誰もが感じた「恍惚」と「歓喜」の情を経験したものは一人もいなかったことは明らかである」ということで。
それでも、(西洋世界では先駆的というのか、原初的なというのか)17世紀英国の博物学者ジョン・レイはこんなことを言っているようで。
山や丘、絶壁や岩のある現在の大地は、粗けずりで醜く見えるかも知れないが、私にとっては美しく楽しい。山や谷や不均衡な変化があるからこそ、 視野をさえぎる隆起や突出の全くない、完全に平らな土地よりも、見てはるかに快いのである。
八百万の神々(そのものを信じていなくとも、それ)を感覚的に意識する日本人感覚から、山に神々しいという意識を抱くのはむしろ自然なことではなかろうかと思ったりもしますので、こちらこそ自然な感覚と思えなくもない。宗教的な感覚の縛りはそうしたところをも凌駕するということなのかも。全く異なる例えですけれど、仏教の縛りが根付いたあまり、江戸時代(明治初め?)に至るも四つ足の動物を食べたりすると、来世で四つ足動物になってしまう…と肉食が禁忌とされたことが浮かんだりも。
ともあれ、バイロンの『マンフレッド』のような作品は、例えばジョン・レイが語った自然から受ける厳かな印象が自由に表現されるようになって生まれたものでもありましょう。
かねがね「picturesque(ピクチャレスク)」という英語には違和感というか、「う~む」といった印象がありまして、「絵のように美しい」というものの美しい景観があるから絵を描くのではないのと。ですが、西洋的には自然景観の美しさが一般化するのは、それを先んじて感じ取って絵に描いた画家の作品(あるいは詩にうたいこんだ詩人の作品)などを通して気付かされることになったからでもあろうと。その点で、日本人には使いにくい言葉ではなかろうかと思うところです。なんだかすっかり音楽の話から外れてますが、まあ、それはそれとして(笑)。