とりあえず緊急事態宣言は東京でも解除されましたですが、そうしたことへの思いですとかは

多くの方がきっと語りましょうから、ここでは相変わらず淡々とこれまでどおりに書きつくるのみでございます。

ということで…。

 

 

 

メンデルスゾーンハウス・ライプツィヒには結構広い裏庭があるのですけれど、

かつては馬車小屋であったらしいガーデンハウスでは特別展が開催されておりましたよ。。

入ってみますと馬車を模したらしい作りものがあり、「Clara&Felix」と書かれてあるのが見えましょうか。

 

 

フェリックスはもちろんメンデルスゾーンですけれど、クララというのはクララ・ヴィーク、

のちのクララ・シューマンですけれど、2019年はクララの生誕200年でこれに関連した特別展であるそうな。

 

ご存知のようにクララは幼い頃から天才ピアニストとして知られ、欧州各地に演奏旅行をしていたくらい。

ですので、メンデルスゾーンとの出会いはクララ12歳のときパリで、ということであったとか。

10歳年上のフェリックスはすでに有名な作曲家となっていたそうで。

 

馬車を模した展示に書かれている地名はパリに始まって、

ベルリン、ライプツィヒ、ロンドン、そしてスイスのインターラーケンと続いていますけれど、

これらの場所はそれぞれに、互いに尊敬しあう音楽家であったクララとフェリックスの、

生涯のうちでさまざまな交歓があった場所なのでありましょう。

 

ということで、話がクララに及んだところで(ライプツィヒ音楽軌道のルート上を飛び飛び扱うことにはなりますが)、

クララ・ヴィークとロベルト・シューマンの軌跡に目を向けてみることにいたそうかと。

 

と、やおらこの街角は?…となりましょうけれど、

ライプツィヒ音楽軌道を旧ライプツィヒ音楽院、旧ゲヴァントハウスの跡地からもそっと裏手に出たところ、

今ではただのビルでしかないものの、かつてここにクララ・ヴィークの生家があったということで。

第二次大戦での破壊の結果、こうなったようですが、今ではこの解説板でそれと知るのみです…。

 

 

父親のフリードリヒ・ヴィークが著名なピアノ教師でありましたので、

近所の音楽院で教えていたのかと思えば、そうではなかったようですね。

気に入った生徒(もちろんクララはその筆頭でしょうけれど)だけを徹底的に指導する人だったのかもですね。

 

と、そんな生徒の中にロベルト・シューマンがいたということになりましょうか。

もちろん才能はあったのでしょうけれど、自分の手の指をもっと開くようにしたい一心から、

独自の装置を作り出して装着、それが結果、反って指を痛めてしまうということに。

なかなかに思い込んだらわき目もふらずといいますか、他が見えなくなるといいますか、

ロベルトはそんなタイプであったかもしれません。

 

ヴィーク先生の下、住み込みの内弟子として過ごすうちにロベルトは恩師の愛娘クララに恋してしまう。

その後の展開はよく知られたところで、ロベルトとクララは相思相愛になるもヴィーク先生は大反対、

訴訟にまでもつれ込んで、なんとかクララの側が勝訴(訴訟はヴィークvs.ヴィークの親子間で行われた)、

1840年にようやっと二人は結婚式ができたという。1835年頃から5年にわたる悶着の結果でありました。

 

そんなクララとロベルトはライプツィヒの旧市街を離れ、旧城壁の外側に住まいを持つのですね。

メンデルスゾーンハウスからは歩いて10~15分でしょうか。といっても、メンデルスゾーンがこの家に移り住む以前に

シューマン夫妻はドレスデンに移ってしまうのですけれど。

 

 

とまれ、シューマン夫妻が晴れて居を構えたのがこちらということで。

確かに「SCHUMANN HAUS Leipzig」とあるのですが、ここでもまた「閉館中」の憂き目にあってしまい…。

この旅の間、いったいいくつの施設で門前払いを食ったことになりましょうかね。とりあえずは、

入口前の解説板だけでも押さえておくとしますか。

 

 

説明としては、こんなふうなことが書いてありますな。

(こういうときは英語併記でとても助かるわけですが…)

1838年にネオ・クラシカル様式で建てられたこの家は、作曲家ロベルト・シューマンとピアニストのクララ・シューマン(旧姓ヴィーク)が1840年から1844年までの新婚当初の日々を共に過ごした場所です。それは幸せに満たされ、音楽の面でも実りある協調のひとときでもありました。ロベルト・シューマンが「春」の副題で知られる交響曲第1番を含む作品の数々を作ったのは、この家でした。

この時期以前にもシューマンは交響曲に取り組んだことはありましたけれど、どうにも完成させられず、

結婚当初の1840年にも構想倒れに終わっていたところが、翌1841年にはささっと2カ月ほどで1曲を仕上げてしまった。

それが交響曲第1番であったと言いますから、ごたごた気分の名残もうせて、のりのりになっていたロベルトなのかも。

 

そんな気持ちがこの曲を「春の交響曲」と自ら呼んだことにつながったのかもしれません。

4つの楽章にも(後に取りやめたそうですが)「春の始まり」、「夕べ」、「楽しい遊び」、「たけなわの春」と

それぞれ標題が付けられていたということで。

 

ということで、シューマンハウスを覗くことはかないませんでしたですが、

せめてこの場所で作曲したという交響曲第1番「春」を聴くことで

クララとロベルトの睦まじいようすでも思い浮かべてみることにしようかと思うところです。

 

 

演奏はネヴィル・マリナー指揮、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズで。

アカデミー…は日本ではもっぱらアカデミー室内管弦楽団と称されて、マリナー指揮でバロックをやってたのでは?とか、

このCDのブリリアント・レーベルはとにかく廉価なセット販売では?とか、いろいろあるかもしれないところながら、

これがなんとも衒いのない正攻法で聴かせてくれるものだったのですよねえ。

これを聴くことで、気分だけでも清涼感ある春に浸る気がしたものでありますよ。