MOMASコレクション
の中にはクロード・モネ描くところの
「ジヴェルニーの積みわら、夕日」(1888-89年)という一枚もあったのですね。
睡蓮だけでなく、積みわらもまたモネの連作として有名ですけれど、
これを見ているときにふと思ったことがありまして…。
絵画の元々(ラスコーの壁画とか)はともかくも、
歴史的には長らく「美しいものを美しく描く」ものであったのではなかろうかと。
風景画
というジャンルはかなり後々のものではありますが、
「ピクチャレスク」という言葉があって実物の風景が「絵のように美しい」とは
本末転倒ではないかと思うところですけれど、旅が一般化する以前は
いわゆる絶景を見るという機会がおいそれとは無いわけで、きれいな風景は
本当の自然に接するよりも先に、まず絵を見ることであったのですな。
ですから、絵画でもって見ていた美しい景色にも匹敵する実物の景観を目にしたとき、
「ピクチャレスク」という言葉が発せられたのではないでしょうか。
と、一事が万事としては乱暴な展開ではあるものの、こうしたことも
絵画は美しいものを美しく描くものであったと言える材料のような気がします。
翻ってモネの積みわらですけれど、畑に刈り取ったわらが山と積まれている光景、
これをモネは「美しい!」と思って描いたのだろうか…というわけなのですね。
おそらくは美しいと思っていたのではなくして、
(場合によっては積みわらに映える光を見て美しいと思ったかもですが)
それでもモネが積みわらを描いたのはそれまでのアカデミスム流の絵画とは違う
絵画の革新が頭にあったからなのではと思えてきます。
もちろん、モネ自身は光を捉えて作品にすることを試みただけなのかもですが、
結果的にはそのことが絵画の革新を推し進め、絵画が多様化していったことは
間違いないのではなかろうかと。
では、モネが積みわらを描いた作品を見て美しいと感じるかどうか。
モネの方法論が理解されて後の今だからこそ「美しい」と言って差し支えはないでしょうが、
19世紀末頃だったならば、そも美しくもない積みわらを題材にしていること自体
ちゃんちゃらおかしい、話にもならんと相手にされなかったかもしれません。
それがモネ(だけではありませんが)の作品を通過するという洗礼を受けることで、
後の人々は美しいとはどういうことか、絵画はどういうものであるかに大きな広がりを
得たのではなかと思うところです。
モネの後には、点描やフォーヴィスム、キュビスムやシュルレアリスム、抽象…と
何をどのように描くかという点では同時代の人たちを戸惑わせながら、
そして「美しい」という概念のごくごく一般的な受け止め方を揺さぶりながら
展開してきたように思うのですね。
どこらへんならついて行けるけれども、これ以上は無理といった
受け手側の個人差は今でも往々にして生じることで、
拒絶と受容が波のように繰り返し寄せては返すことは今でも続いておりましょう。
絵画、美術、いや芸術とは何か。
以前にも引用したWikipediaからもう一度引いてみますと、こういうぐあいです。
芸術とは…表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。
かつては美しいものを創造する術であったように思うわけですが、
いつ頃からこうした定義で一般化したのは分かりませんけれど、
芸術はそれに触れることで「精神的・感覚的な変動を得ようとする活動」となれば、
美しいと感じることは部分でしかなくて全体ではないわけですね。
鑑賞者に対して仮に美しくない要素で精神が、感覚が揺り動かされる体験があったなら、
それは芸術作品と言って差し支えないことになるのでありましょう。
何だか話がすっかり大袈裟になってきてますが、実はモネの話を前置きにして、
絵画の話から音楽の話へと持っていくつもりだったのでありますよ。
音楽もまた耳にして美しいという所からの転換がどんどん図られたわけですし。
とまあ、そんな話をしだしたきっかけはちょいと前に放送されたEテレ「クラシック音楽館」で
作曲家・柴田南雄の音楽を特集していたからでありまして(遅ればせながら見ました…)。
で、音楽の話に移っていくわけですが、思いも寄らず長くなってしまってますので続きは明日に。