久しぶりにくくっと惹かれるものを感じて、府中市美術館に出かけて来たのでありますよ。開催中の展覧会は「Beautiful Japan 吉田初三郎の世界」というものでありました。

 

 

「大正から昭和にかけて、空高く飛ぶ鳥や飛行機から見下ろした視点による鳥瞰図のスタイルで数多くの名所案内を描いた吉田初三郎」(同展HP)の作品は、例えば東京・汐留にあります旧新橋停車場 鉄道歴史展示室の企画展などでよく取り上げられたりするものですから、まま目にしていたのですなあ。見る度に「これだけの情報量をこの画面内によくも入れ込んだものであるな」と感心させられていたわけで。しかも、ただただ枠内に収めればいいという、鉄道路線図のようなものを超えて、絵として見せる美しさといいますか、そうしたあたりへの配慮も怠りないのは実に大したものであるなと。

 

ともあれ、初三郎の名所案内が大いに注目されたのは「大正から昭和戦前期、当時まだ新しい言葉であった『観光』が産業化していく大きな流れに乗って」(展示解説より)いたからでありますね。作家川端康成が1926年(大正15年)に『伊豆の踊子』を発表して、小説の舞台を訪ねる旅を導くことになったりしたのも、同じ時期のことですし。

 

ですが、そんな初三郎は当然ながら元々は純然たる?画家を目指していたということでして、鹿子木孟郎門下で励んでいたりもしたようです。孟郎を含む画塾・不同舎の面々は風景のデッサンに力を入れていましたので、このあたり後の初三郎に大いに役立ったのではなかろうかと。そして、この時期に「商業美術分野での人材輩出の重要性を踏まえて、その道を勧められ」たという初三郎、その背中を押したのは孟郎であったと言うことでありますよ。

 

まあ、はじめは純粋な絵画(?)に未練があったかもしれませんけれど、大正2年(1914年)鳥瞰図として初めて手掛けた『京阪電車御案内』が沿線を旅していた時の皇太子(後の昭和天皇ですな)の目に止まり、「奇麗で解り易い」というお言葉を賜ったそうな。最大級のお褒めに預かった初三郎、これをライフワークにと意気込んだかもしれませんですよ。これが単に一時の褒め言葉でなかったのは、後に『皇太子殿下御外遊記』なる書物の敢行に際して、初三郎に表紙絵と装幀の依頼があり、また四国へ出かける際には同行を求められたとなれば、よほど初三郎の絵が気に入っていたのでありましょうなあ。

 

ちなみに初めてものした『京阪電車御案内』ですが、思いもよらず先日歩き廻ってきて「京阪淀川紀行」で振り返ってみているところをまさに描き出しておりまして、ひときわつぶさに展示に見入ってしまいましたですよ。一筋縄ではいかない淀川の流れをほぼ一直線に描いて、全体を横長の長方形に収める工夫はすでにこの時に始まっておったわけで。

 

やがて「初三郎式」とも呼ばれる鳥観図法なわけですけれど、展示ではその特徴がポイントごとに説明されておりました。そのひとつが「立ち上げられた遠景」であると。展覧会フライヤーの上側に使われている『富士身延鉄道沿線名所鳥観図』の一部をクローズアップしてみますと、こんなふうです。

 

 

現在のJR身延線の沿線紹介ですので、手前を左右に富士川に沿って走る身延線が横切ってすぐ後ろには巨大な富士山、つまり富士を西側(のどこか上空)から見ている格好ですけれど、遠景には東京の町が描かれ、さらにうっすら房総半島までも。身延線沿線をメインに描くにあたり、わざわざ東京までも(背景を立ち上げてまで)描き込むのは、沿線案内という媒体がそも観光用であって、東京から電車で繋がってますよ感を出すことで誘客につなげようという算段でもあるようですなあ。

 

こうした、初三郎の「世界はつながってますよ」感は別の作品には、海の向こうにハワイやサンフランシスコまで(極端に立ち上げられた背景として)描かれるということにもなってくるのでして、こうなってくると完全にタブロー的な絵画のフォーマット外でもあるような。むしろ絵画として正統に?位置づけるとするならば、もしかするとキュビスムにも匹敵する視点の転換なのかもしれんなあと、大袈裟に思ってしまったり(笑)。

 

かように遠景がデフォルメされている一方で、近景もまたやはりデフォルメされている。特徴のもうひとつは「まっすぐに連ねられた景色」ということで。身延線自体も、これに並走する富士川ももちろんのこと、まっすぐに通っているはずもないところを、今でもよく見かける線と点だけにデザインされた鉄道路線図よろしく、幾何学的に配置しているのですなあ。

 

 

さらに特徴として挙げられていたのは「拡大された中心」と「歪められた周縁」という点ですな。まあ、見せたいものを中心に大きく描くのは当然として、周縁部をどこまで描くのか、どんなふうに収めるのか、場合によっては「アクロバティックな描き方」とまで紹介される作品になったりするわけでして。そんな中のひとつに、「おお!」と思うあまりポストカードを買ってしまった『ポスター 霧島・林田温泉』(下の画像は部分です)がありました。

 

 

霧島連山と林田温泉が大きく描かれているのはその宣伝が目的ですからそれはそれとして、手前にはぽかりと桜島が浮かんだ錦江湾、つまり鹿児島市街がかなり小さくなっておりまして、歪みに歪んだ周縁部の果て、画像では右側の切れた海岸線の先に富士山があったりする。その一方で、左下側には関門海峡ごしに朝鮮半島の一部まで描き込まれているのですなあ(時は1935年、昭和10年という戦時色が濃くなりつつある時期でして)。デフォルメを超えてアクロバティックとはこのことでありましょうねえ。

 

もちろん、こうした構図で収まりをつけようというまでには制作段階で相当な苦労があったものと思いますが、よくまあ、収めたものであるなと。しかもディテールに見入れば、こちらはこちらで情報量の多いことにも感心させられるという。

 

そんな作品群ですので、展覧会の展示としては壁面に掲示されたものをガラスケースごしに覗き込むにせよ、「よく見えん…」という消化不良感が伴ってしまい、一部は平置きのガラスケースに入っているものがありましたですが、(巨大な作品もあるところながら)基本的には平置きを覗き込める形をたくさん取り入れてほしかったなあと。その点がいささか心残りではありますけれど、これまで「なんとなく凄い」とだけ感じていた吉田初三郎作品へのアプローチとして、大変に面白く見た展覧会であったことは間違いのないところなのでありました。