コロナに寒さも加わって巣ごもりになりがちな日々、運動不足解消の一助にと自転車を走らせて、府中市美術館を訪ねたのでありますよ(片道45分くらいの走行になりましょうか)。開催中であったのは諏訪敦「眼窩裏の火事」という展覧会でありました。

 

諏訪敦という画家を知ったのは東京・千駄ヶ谷にある佐藤美術館でありましたなあ。ブログを書き始めてまもなくでしたので、もはや15年ほども前ということになりますなあ(しみじみ)。もとより、いわばスーパーリアリズム的なる画風であって、その精細な描写を主に裸婦像に展開していたことは、佐藤美術館の展示で見たところなのですけれど、どうやらそればっかの画家ではなかったようで…と今さらながらに。

 

今回展でも驚くほどに写実的な裸婦像の展示はありましたけれど、そのタイトルが「依代」(よりしろ)であるとは。諏訪作品には、舞踏家・大野一雄最晩年の老いや病臥する父親のこと切れる姿を(情け容赦無く、という言葉が適切かどうかですが)リアルに描き出したものもあるわけですが、今回は若くして満州で病没した祖母に迫ることをしているのですな。

 

「祖母」という言葉からはすぐさま、おばあさんであるようすを思い浮かべてしまうところながら、祖母というのは家族の中の関係における呼称であって、作家にとって祖母たる立場の人が若くして亡くなったとなれば当然に若い姿でしかあるはずもないのですよね。それが「依代」の裸婦像として描き出されている。しかしながら、極寒の大地で病に冒され朽ちていく(祖母の)人体を同じ構図で何枚かの過程で描き分けてもいるという。それが映像作品として、画像が徐々に移り変わり、生ものとしての人体の果てが示されるあたり、考えるところは「メメント・モリ」ということにもなろうかと。

 

そして、その結果は結果として亡くなられた方の魂があるべきところとしての「依代」は、まさに生きていた当時の若い女性であるままの姿ということになるのかもしれません。もはや単純にリアルに精細描写の裸婦像などとは言っておれないわけでありますよ。

 

そうした意味合い含み(といって、個人的な想像による感想でもありますが)で考えますと、西洋の静物画に込められたヴァニタスの寓意とのつながりでして、上のフライヤーに見るような静物画を作者が手掛けるのは自然なことなのでもありましょう。そも諏訪の留学先はスペインであって、「ボデゴン」として知られるスペインの静物画にはたくさん触れても来たことでしょうし。

 

ところで本展のタイトルになっている「眼窩裏の火事」ですけれど、諏訪には「ときに視野の中心が溶解する現象や、辺縁で脈打つ強烈な光に悩まされる」といった「閃輝暗点という脳の血流に関係する症状」があるのだとか。その自らの目に生じることを「眼窩裏の火事」と称しているのでしょうなあ。その火事自体は画家の眼球で生ずるもので、描く対象に現れるものではないながら、上のフライヤーに使われた静物画でも右側中央あたりに白く飛んだ部分として描き出されているのですよね。

 

とことん写実的にこだわった場合、見えたものを見えたとおりに描くことで、その見え方は描き手ばかりでなしに見る側にも共通するリアルであると思うわけですが、画家にとっても見えたとおりを描くとこうなるという点ではある意味、とことん写実的であるというのがこうした作品なのかもしれません。ただ、画家にはこう見えるというところを描き出した作品を写実と言いだしますと、ともするとキュビスムもフォービスムも写実ということになりかねない。まあ、あまり用語にだけこだわる必要なないでしょうけれど。

 

最初に佐藤美術館で見かけてその後、超絶リアルな写実画は千葉県にできたホキ美術館などを通じて(といって行ったことはありませんですが)広く作家たちが知られるようになっていきましたけれど、そうした作家たちがそれぞれに写実に込めた思いは単純にひと括りにできるものではないのかも。改めて諏訪作品に接して、そんなことを考えたのでありますよ。写実的に描き出す中に何を見ているのかは作家それぞれかもしれませんので、そのあたりをまた機会があったら探究してみたいところではありますね。