大阪・茨木市の川端康成文学館の前までたどり着きながら、話はすっかり阿武山古墳の方に向いてしまいましたので、仕切り直しということで。とにかく館内展示のことに移っていきますが、あいにくと展示はいっさい撮影不可ということでしたので、取り敢えず建物の入り口だけ。

 

 

展示の方は予想を超えてなかなかに見るべき内容であったと思いますけれど、両親と死に別れて祖父母に引き取られた三歳の頃から旧制茨木中学を卒業する十八歳までを川端は茨木市(現在のというべきですかね)で過ごすわけでして、その幼少年期を辿りつつ、後の川端文学に至る根っこが培われた場所としてクローズアップされておりましたですよ。まあ、ご当地著名人と地域の関わりを伝えるのが使命でありましょうしね。

 

ともあれ、その境遇から川端の意識の中には常に「孤児」という感覚があったようで。加えて虚弱、病弱といったところが、内向的といいますか、深く自分を、人間を見つめることになったのかもしれません。祖父母の家にはかなり大きな庭があり、木に登っては本を読むといった文学指向を育んでもいったような。日記の中には体育を嫌悪するような記述も見られるとか。正直ですな。後年の痩せて眼光鋭い顔貌ばかりを思い浮かべてしまう川端ですけれど、その姿に結びつきやすい少年時代でもあったかと思えるところです。

 

当然にして友だちも少なくて…とは用意に想像されるところですけれど、茨木中学に入ったことでかなり逞しくなっていったようでありますね。と言うのも学校では体育が盛んであって、へばりつつも付いていくことで小野豆と鍛えられた面もありましょうし、それができたのも恩師といえる教師に巡り合ったことと文学仲間の友人ができたこともありましょう。この文学への入れ込み方はかなりのもので、入学時は一番の成績であったところが、文学へのめり込むあまり、どんどん成績は下降していったとか。

 

入れ込みようの一端としては、学校近くにあった書店ではよく立ち読みもし、またつけで買った本の代金催促に「書店の前は一切遠廻りして…」てなことが日記に記されていたりするという。ちなみに「中学時代の読書範囲は白樺派から谷崎潤一郎、上司小剣、徳田秋声、源氏物語、枕草子などに及び、外国作家ではドストエフスキー、チェーホフ、ストリンドベリー、アルツィバーシェフなどを読んだ」(同館図録より)そうでありますよ。

 

あいにくとアルツィバーシェフという作家の名は寡聞にして存じ上げず…でしたけれど、Wikipediaによりますれば「19世紀後半から20世紀前半のロシア文壇を代表する作家である」と紹介されているとともに「近代主義小説の代表的作品で、性欲賛美をした『サーニン』やその続編となる、自殺賛美をした『最後の一線』が有名である」とあるところを見ますと、その一端なりは後の川端文学、そしてその生涯にも影響があったようにも思えてくるところではなかろうかと。

 

一方で気持ちが文学へ向かうところは、たくさんの読書ということばかりでなくして、書いたものを投稿するという形になっても現れたのですな。17歳のときには地元の地方紙「京阪新報社」に原稿を持ち込み、これがが採用されて初めて活字となるという経験をしたのだそうな。これはその後に文士として立つことに大きく影響したのではないですかね。どんな形にもせよ、誰しも自分の原稿が活字になるというのは妙にうれしいものですものね。

 

ところで、幼少年期をどっぷり過ごした茨木を舞台に長編をものすることは無かった川端ですけれど、丹波の山の端が迫った土地のようすは深く心の中に残っていたのでしょうか、川端が好んだ京都や鎌倉は古都であるということとは別に、いずれも山が迫った場所であって、山懐というところに居心地がよかったのかもしれません。もっとも(お隣の高槻市同様)茨木が大阪と京都の中間にあたって、京都には付かず離れずの憧憬があったようにも思いますけれど。

 

ともあれ、高槻に出かけたほんのついで(その滞在中にこの施設があることを知ったくらいでして)に出かけた茨木市立川端康成文学館ですけれど、川端文学の形成に関わるいくばくかの背景を知ることができたように思ったものなのでありました。