山岡鉄舟
ゆかり、十返舎一九
ゆかり、徳川慶喜
ゆかりと
駿府の街なか歴史歩きが続いたあとはまた美術館でのもの思いのお話となりまして、
「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」展@静岡市美術館に立ち寄ったときのことであります。
この展覧会は川端康成と東山魁夷を取り上げていることから「お好み二色弁当」に擬えて
今回の静岡行きの契機
としたものの、よく考えてみれば、これまで読んだ川端康成の小説は
「伊豆の踊子」、「雪国」、「浅草紅団」のたった3編だけ。
これではお好みもへったくれもないではないかと(一人ボケつっこみですが)思うわけですが、
まあそれはそれとして…。
展覧会会場入口には、川端康成がノーベル文学賞を受賞した際のスピーチとして有名な、
そして日本語はともすると意味がとりにくいことの例として取り上げられもする
「美しい日本の私」の全文が掲示されており、また入ってすぐの辺りには
川端が受けたノーベル賞 の賞状を見ることができました。
どうやら「賞状は各受賞者の功績にちなんでデザインされて…すべて手作りで製作される」という
手間をかけたものらしい。そして、川端の場合の功績に因んだデザインとは「鶴」の意匠、
小説「千羽鶴」などへの評価によるものということなのですね。
ということで時系列的には行きつ戻りつになりますが、「千羽鶴」を読んでみたですよ。
いやあ、すごいですね、川端康成。
個人的には非常な遅読なのですけれど、朝に近所の図書館から借り出して
全て(「続・千羽鶴」とされる「波千鳥」まで含めて)読み終えて、
その日はお休みなさいというふう。それこそ一気に読んでしまいました。
この纏綿たる情緒を何としよう…というところでしょうか。
平易な日本語を駆使して読むに難さはまるでなく、
それでいてそうした言葉が紡ぎだしてみせるところは、
切れ味の鋭い剃刀でも当てられたかのよう。
そしてまた(以前、「伊豆の踊子」や「雪国」のことに触れても書きましたように)
情景を描くにあたって、必ずしもその部分が書かれていなくても物語に何ら支障はないながら、
添えられた時の彩りの際立つこと、視覚的効果の妙と言ったらない。
こんなあたりはいかがでしょう。
ある茶会の席で、菊治が無理にも引き会わせられた縁談の相手である稲村令嬢が
茶を点てる場面です。
太田夫人のために稲村令嬢がまた点前した。一座の目はその方に注がれたが、この令嬢はおそらく黒織部の茶碗の因縁も知らないだろう。習った型通りに所作をしている。
癖がなく素直な点前である。姿勢の正しい胸から膝に気品が見える。
若葉の影が令嬢のうしろの障子にうつって、花やかな振袖の方や袂に、やわらかい反射があるように思える。髪も光っているようだ。…令嬢のまわりに白く小さい千羽鶴が立ち舞っていそうに思えた。
言わでもがなではありますが、菊治がこの場で何を思ったか、
どのように感じたかといったことには全く触れられていませんですが、
彼の心中には、ともすると本人も意識しないくらいのさざ波が立っているものと
読み手は知らされるわけですね。
ところで、ここで手にした「千羽鶴」は新潮文庫版で、上の通りのカバー・デザインですけれど、
川端の世界(と勝手に考えたもの)とは必ずしもマッチしないデザインなのでは…と考えた時、
このカバーを手掛けたのがケルスティン・ティニ・ミウラというデザイナーで、
先のノーベル賞の賞状の制作者にはケルスティン・アンカースという名前があったなと。
よもや同一人物であって、
実は経緯を踏まえて新潮文庫版のカバーデザインが依頼されたのかとあれこれ検索したですが、
ケルスティン・ティニ・ミウラさんの過去の業績に「nobel paper bindings」があることまでは
見つけたものの、そこまでどまり。ちとすっきりしないですなぁ…。
と、ノーベル賞絡みの話ばかりで引っ張ってしまいましたですが、
とにもかくにも川端「優れた美の目利き」であり、様々な美術品・骨董品のコレクションを持つも
独自の感性に裏打ちされたものであったようですね。
ですから、(千羽鶴」あたりとは大変に絡みのあるところながら)焼き物の茶器があるかと思えば、
一方で古賀春江(日本のシュルレアリスト
)の作品があったり、
先物買いでかぼちゃを多用する以前の草間彌生作品があったりもする。
このあたり、戦争(太平洋戦争)を境に「日本の美の伝統を継ぐ芸術家」と自身意識し、
古美術品の収集もこの頃からと解説されているものの、元々戦前は「モダニズムの作家」、
新感覚派と言われた川端の出発点にあるものの温存されており、
時折顔を出すというふうだったかもしれませんですね。
それにしても、展示されていた川端のコレクションをひと通りその場では見て来たものの、
実のところ「千羽鶴」を読んでから思い起こす展示(のおぼろな印象)の方が
分かった気にさせられます。
作品世界と不可分だったのだなとは思ったわけですが、
だからといって美術館の展示は蘊蓄を積んで妙に分かった気になるよりも、
只管に虚心坦懐に見て感じるところがあるということを忘れんようにしようとも思ったり。
いずれにも楽しみはある…ということでありますね。