少々軽めの雰囲気のバロック音楽演奏会を聴いてきたのでありますよ。東京・狛江のエコルマホールで開催されたこのコンサート、平日昼間というレアな開催時間は、狛江市の生涯学習的な要素もあるのかも。ちょいと前に聴いたレクチャー&コンサート@あきる野市秋川キララホールと近い趣旨であるのかなあと。

 

 

演奏者は「プロムジカ使節団」(個人的にはこの名称、いささか胡散臭く感じてしまうのですが…)という「国内外で活躍中の熱意溢れる若手実力派奏者が…結集」(同団HP)した演奏団体に所属する3名でして、バロック・ヴァイオリン、バロック・チェロ、チェンバロが組み合わせを替えながら、前半にバッハ、後半にヴィヴァルディの曲が演奏されたのでありました。

 

「バロック・ヴァイオリン、見たことありますかあ?普通の楽器とどこが違うでしょう?」といったトークを交えるあたり、レクチャー的なところもありましたですが、これから(が嘱望される?)という団体だけに、この後の演奏会の宣伝がちと多かったかも(笑)。

 

それはともかく、一曲目にバッハの管弦楽組曲第3番から「エア」という超有名曲をもってくるあたりも啓蒙色のあるところかと思いましたですが、思いがけず音楽史の流れに思いを馳せることになったのですな。後に独奏ヴァイオリン用に編曲されて「G線上のアリア」というタイトルの方がよく知られる曲ですけれど、バッハのオリジナルではメロディーを弦楽合奏が奏でるところかと。それが今回はヴァイオリン奏者がひとりですので自ずとソロ風に浮き立って聴こえてくるのは、後の「G線上のアリア」的でもあるわけです。

 

さりながら、演奏する楽器はバロック・ヴァイオリンで少々ざらっとしたガット弦の鄙な音色だもので、モダン楽器向けのソロ・アレンジで艶やかに美しい音色をたっぷり聴いてもらおうとするのとは、やや毛色が異なるのですよね。どちらがいい、悪いという話よりも、楽器の進化というものをしみじみと感じたのでありますよ。

 

もちろん、音色の輝かしさはモダン楽器に敵うものではないにせよ、バッハの時代の響きといいましょうか、当時はモダン楽器が存在しなかったから当然なのですけれど、元来ソロが浮き立つのでなしに合奏で聴かせるメロディーであるとすると溶け込みやすさも肝心でしょうから、今回のピリオド楽器の合奏(トリオですが)にあってバロック・ヴァイオリンは馴染むものであろうかと。

 

先ほど触れた「普通の楽器とどこが違う?」という点では、弓の形に違いがあることがひとつ挙げられますけれど、バロック・ヴァイオリンの弓の形は音の減衰を操りやすいようなのですなあ。なんとなれば、バロック音楽ではチェンバロと組み合わせた演奏が多いわけで、その後のピアノのように音の持続を補強した作りになっていない、つまり音が減衰するのを当然の響きとしている楽器と合わせるにはヴァイオリンも(チェロも)同様に、というわけであると。なるほどです。

 

ところで、前半のバッハ・プログラムの最後にヴァイオリンと通奏低音のためのソナタBWV1024が取り上げられて、バッハ作と言われつつも予て偽作と見る向きが多くあったところ、昨今では「偽作とするに足るだけの証拠が無い」、つまりネガティブな論法ながらバッハの真作(ではないか)という研究者たちの見解が示されているとか。演奏されたのはフーガに相当する部分だけですが、これが結構な熱量のある激しさを感じる曲だったのですよね。個人的な印象としては「本当にバッハ?」と思ってしまうのでして、なんとなれば、バッハの響きにはむしろ冷徹さを感じるものですから。

 

後半になって演奏されたヴィヴァルディが、取り分け最後の「四季」の「夏」、そしてアンコールの「冬」の一章などはもとより、その前に置かれたヴァイオリン・ソナタRV31の第一楽章やチェロ・ソナタRV44の第二楽章など、ヴェネツィアの日差しの強さの反映でしょうか(バッハの暮らした北方のドイツとはずいぶんと気候が異するわけで)、かなり激しさを伴う印象が残るだけに、かのBWV1024も(実はヴィヴァルディが書いたとまでは思いませんが)影響大?などと思ったり。バッハはヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲をチェンバロ協奏曲に編曲していたりするものですから、ついつい。

 

ともあれ、古楽器の音色を近しく耳にしたひとときを堪能いたしました…ので、プロムジカ使節団が今回の会場であった狛江エコルマホールで12月に(だったかな…)バッハの「ヨハネ受難曲」を演奏するらしいですよ、と宣伝にひと役買っておくといたしましょうか(笑)。