先月初めに白金フィルの演奏会でサン=サーンスの交響曲第3番(オルガン付きのですね)を聴いてからしばらく、CDではもっぱらサン=サーンスの交響曲ばかりを流していたりしたのでした。ジャン・マルティノン指揮、フランス国立放送管弦楽団の演奏による2枚組はサン=サーンスが手掛けた5つのシンフォニーを網羅して、なかなか聴きでのあるものだものですから。
オルガン付きという特異さもあり、それだけに壮大な音楽になっている第3番ばかりが知られておりますけれど、それ以外の曲もそれぞれに楽しめる曲になっておりますなあ。ただ、若書きや番号無しの曲を含め、第3番より20~30年くらい早く作曲されたものだけに、先人たちをなぞるようなところもあろうかと。ぼんやり聴いていますと、なんとはなし「ベートーヴェンの呪縛」があるようにも思えたりしますけれど、時代はすでに19世紀半ば、こんな修業を経て第3番の独自性に到達したのでもありましょうね。
ちなみに1853年作の交響曲第1番について、Wikipediaには「真剣かつ大規模な楽曲で、シューマンの影響を見出すことが出来る」とありましたが、これはこれで「なるほど」と。そう聞いてしまうと、他の曲にもシューマンっぽさを感じてしまったりもしてきますなあ。
とまあ、先ごろにはそんなことを考えつつ聴いておったわけですが、この度、近所の図書館で見かけて借りて来た一冊が『クラシック偽作・疑作大全』というもの。サン=サーンスの若書き作品がベートーヴェンはじめ先人たちのパクリとは思いませんが、偽作・疑作なんつうものの中には何とも怪しげな逸話を持つ作品もあろうなあと、読んでみたのでありますよ。
ここに言う「偽作」というのは、長らく信じられてきた作曲家とは違う作者の作品と判明したもの。例えば、「おもちゃの交響曲」がハイドン作はなくしてレオポルト・モーツァルトの作と言われ、その後さらにアンゲラー作と言われるようになっているケースですかね。ハイドンで言えば、「ハイドンのセレナード」として知られた曲もまた別人の曲だったのですなあ。このあたり、研究が進むとそれまで「当たり前」と思い込んで(思い込まされて)いたことがちゃぶ台返しのようにひっくりかえることは、何も科学や歴史の面ばかりではないようです。
で、「疑作」の方は差し当たり作曲者として伝わっているものの、「本当に?」という議論が続いていたりする作品ですな。一方で、「偽作」のうちでもたちが悪い、つまり史料的に分からなくなってしまって違う作曲者名が伝わったというよりは、意図的に大作曲家の作品であると売り込んだようなものは「贋作」と言えようかと。かつてモーツァルトのヴァイオリン協奏曲のひとつとされていた「アデライーデ」は、20世紀になってマリウス・カサドシュが作ったものとか。
と、ここでもっぱらハイドンやらモーツァルトやらの名前があがるのは、もちろんそれ以前のバロック期も同様ですけれど、古い時代ほど自筆の楽譜は少なくなりましょうし、筆写譜が伝わるものもその出自がいかがわしい?ものがあったりするからでしょうかね。ベートーヴェン以降はだいぶ偽作・疑作は少なくなるようで、本書でも割かれるページは圧倒的に少なくなります。
とはいえ、未発見とされた曲の楽譜が見つかった!みたいな話が出ると「どんな曲?」と気になるところではあろうかと。まあ、そうした心理に付け込む輩はいつの時代にもいるもので、「アデライーデ」を作ったカサドシュもそんな類いでしょうか。それでも、時には専門家をもけむに巻く程度には出来が良くありませんと、簡単にバレてしまいますからそれなりの技量がなくてはできないことではありましょう。
かつてモーツァルト作と信じられたことがあっただけに、往年の演奏をYoutubeで聴くことができるのでして、パッと聴きしたところでは「なるほど、モーツァルトっぽい」という曲のような。こうした職人技といいますか、なんだかフェルメールの贋作を描いたメーヘレンを思い出したもしますし、こういってはなんですがプロ意識溢れる贋金作りにも通じるような気もしてきてしまったり…。
まあ、クラシック音楽の分野でも作品研究がこの後にどんどん進むのでしょうけれど、その成果によっては交響曲の番号付けが変わって戸惑うなんつうこともまだまだ出てきましょうかね。シューベルトの交響曲で「未完成」は8番、「グレート」は9番とされていたのが、いつの間にかそれぞれひとつ番号が繰り上がって、7番と8番と呼ばれるようになって久しいですな。
かつて7番とされていた交響曲は遺されているがピアノ・スケッチだけだとか。「未完成」に番号が振られている以上に無理があると、今では番号無しに格下げされ、結果として「未完成」と「グレート」の番号が繰り上がったということでありますよ。ただ、こうした中にあってシューベルトの残したピアノ・スケッチをもとにオーケストレーションを施そうとする人も出てくるのですよね。
こうした取り組みをどう考えるのかは難しいところのような。まあ、「こういうことだったかもしれない」というくらいならいいのかも。ずいぶん前ですが、ホルストの『惑星』に(ホルスト自身が加えられなかった)「冥王星」を付け加えた録音演奏が出回りましたですね。その後に冥王星自体が定義上「惑星」とはされないことになってしまい、これら一連のことを天上のホルストは苦笑しているのではないですかねえ(笑)。
と、かなり寒くなってきた折ではありますけれど、ちとまた小淵沢のアパートに出かけてまいります。おそらく週明けには戻ると思いますが、例によってしばし無沙汰を申し上げます。ではまた。