この間の日曜日にベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いてきてから、十数曲あるベートーヴェンの同種の曲ばかり聴いておりまして…。

十年ちょいと前にジュリアード弦楽四重奏団の演奏するベートーヴェンを聴いた頃には、曲目が遅い時期に作曲されたものであったこともありましょうか、その前衛ぶりといいますか、同時に取り上げられていたモーツァルトとの際立つ違いにばかり耳が行ったものでありましたが、考えて見れば、ベートーヴェンの生きた時代にあっては彼こそが最前衛の作曲家だったわけですから、それもそのはず。ですがそれにしても、ちと先を走り過ぎていたのでは…とも。

 

とまれ、感想としてひと言で「前衛」と言ってしまうのには、正直に言って「うぅむ、分かりにくい、付いていきにくい…」という思いがあったようにも。それでも、先に聴いたジュリアードSQの演奏会から十数年経過するうちには、いささかなりとも耳馴染みになってきている弦楽四重奏曲もあるにはあるものの、依然として藪の中に包まれ、迷い込み…といった感がぬぐえないものも。まあ、日ごろは聞き流してしまっているだけだからともいえましょうが。

 

と、そんなぼんやりした一曲が先の日曜日に聴いた演奏会で取り上げられていたのですね。といって、実際には「演奏会」というよりはレクチャー&コンサートというイベントでして、出かけてみて「そうであったか…」と思いましたのはこのイベント、あきる野市の生涯学習講座の一環であったようで。

 

 

まあ、会場には試しに弦楽四重奏というのか、試しにベートーヴェンというのか、はたまた試しにクラシック音楽というのか、興味関心の度合いはさまざまな参加者がいたのでしょうけれど、切り口は至って分かりやすくであって、あまり専門的な方向には傾かないというものでありましたよ。とかく、クラシック音楽の敷居の高さには(ポピュラー系の曲がだいたい1曲3分程度であるのに対して)曲の長さというのがありましょうね。前半のレクチャーでは、その長さをやりすごす(?)コツを伝授しますということで、個人的にはもはやクラシック音楽の長さを厭うものではなくなってはいるものの、そういう例え方もあるのだなあと思いましたですよ。

 

音楽は時間芸術ですので次から次へと移り行くことで成り立っておりますけれど、これを視覚的な例えとして東海道新幹線の車窓に流れゆく風景に擬えておりましたな。そして、ただ漠然と窓の外を見るのでなくして「富士山を探してみよう」と(東京から静岡県内までにしか通用しませんけれど)。なんとなれば、ビルの間からでもちょこちょこと見える富士山の姿は、見える度ごとに列車は移動していますので見え方が異なるわけですね。ですが、やっぱり富士山だと分かる顕著な特徴も持っている。だらだらっと続いているような音楽の中でも富士山=特徴的な旋律に気が付くと、それが時にはっきりと、時にちらりと、また時には微妙に形を変えて何度も現れてくると分かるというわけで。

 

後半に全曲演奏されるベートーヴェン/弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」の各楽章でそれぞれ、特徴的な旋律(富士山的なるもの)を前半のレクチャーの中で紹介していたので、参加者の中でこの曲に馴染みが無い方々にも全曲演奏はかなり聴きやすくなったのではないでしょうかね(ま、この曲については自らもそうした中のひとりと言えましょうけれど)。

 

で、冒頭に触れましたようにこの数日、ベートーヴェンの弦楽四重奏をあれこれ聴いておりまして、その中には「セリオーソ」も当然に含まれるわけですが、曲の中から富士山イメージを取り出して印象付けられたせいでありましょう、イベント以前に聞き流しになっていた聴き方にはもはや後戻りできないことになとるなと気付かされるのですな。

 

人生もまた時間(芸術ということではありませんが)の流れとともにありますけれど、その歩みは片時も止まることが無いのですよね。その時々では、何かしらの見聞、何かしらの思い巡らしなどがあって、その見聞や思い巡らしを経た後は、それ以前には決して戻れない不可逆性を持っている…といっては大げさですけれど、ある程度、時を経て一度読んだ本、一度聴いた曲、一度見た絵画を改めてめぐり合ったとき、印象が異なるのは当然なのであるなあと。ま、このあたりのもの思いは今回のイベントの話からは飛び過ぎてますが、しみじみ「そうなんだよなあ」とぼんやりしては、またベートーヴェンの弦楽四重奏を聞き流していることに…(笑)。