ロンドンで貴顕のためばかりでない演奏会の嚆矢 とされるイベントが開催されるようになった1672年、

その117年後になっても、大陸では一般に音楽は王侯貴族のものだったのでありましょうか、

モーツァルトはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の依頼を受けて弦楽四重奏曲を作曲します。

チェロが得意であったとされるプロイセン王を念頭に通常よりもチェロ・パートに花をもたせて…。


とまあ、いきなり話が117年後に飛ぶのは、

ジュリアード弦楽四重奏団の演奏会を聴いてきたからなのですね。

曲目は、モーツァルトの弦楽四重奏曲第21番、俗に言うプロシャ王セットの第1番と

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番と第12番の3曲でありました。



ジュリアード弦楽四重奏団@所沢市民文化センターミューズ


モーツァルトの方はチェロの目立ち方はあるものの、

いつもながらの流麗さはいかにも王が実際に弾くことを前提に作られた作品だなと感じます。


ですが、ここで取り分け触れておきたいのはベートーヴェンの方なのですよ。

弦楽四重奏曲として最後というばかりでなく、生涯最後の作品とも言われる第16番ですけれど、

これが作曲されたのはモーツァルトがプロシャ王第1番を書いた37年後の1826年。


ちょうどプロシャ王第1番の作曲はフランス革命の始まる年なわけですが、

そうした社会情勢の変化というのは旧態依然を望んだであろう王侯貴族の考えるところとは別に

急速に進んだのでありましょうね。


弦楽四重奏曲第16番となる作品をベートーヴェンに依頼したのは

ヨハン・ヴォルフマイヤーという商人であったそうな。


この人が楽器をものしたのかどうかは詳らかでないありませんけれど、

モーツァルトが依頼主であるチェロ上手の王様を慮ってチェロ・パートに手心を加える、

つまりは王様たちが寄り集まって演奏することを念頭に作曲しているのに対して

ベートーヴェンのこの曲はとてもアマチュア楽師たちが集ってその場の愉しみになるような曲には

作られてませんですね。


社会情勢の変化とも相俟って、音楽の方も王侯貴族の手すさびという「play」の愉しみに加えて、

一般大衆にも「listen」の愉しみができていったのかもしない。

そうしたことを思うほどにベートーヴェンのこの曲は「play」する愉しみにはハードなのではと。


こうしたことからベートーヴェンは専業の演奏家の必要性を意識させる曲作りをしたともいえそうです。

ただ「listen」するにもハードでしょうし、それを聴かせる側にも曲の構成を深く分析して

臨まねばならないという点において。


もちろん今回のジュリアードは見事にこなしていたと思いますけれど、

聴きいれば聴きいるほどにベートーヴェンの前衛性を思わずにはいられない。

モーツァルトの直後に続く作曲家がこれほどに流麗と離れるはありなのか、

一見(一聴?)メロディアスな旋律を支えるのがかくも重々しくあるべきなのか・・・などなど。


音楽史的にはベートーヴェンは古典派と言われ、その後にロマン派の作曲家が、

そして後期ロマン派といわれる人たちが続き20世紀にいたるわけですが、

この曲を聴く限り、すぐあとにバルトークあたりが続いたとしても何の不思議もありませんし。


最後に演奏された第12番はまだ古典的らしさを残しているように思わなくもないですが、

いずれにしてもべートーヴェンの前衛さ加減を思い知るものとなった演奏会でありましたよ。