5月の初め、あちらこちらで藤の花が見事に咲き競っておりますなあ。東京でいえば亀戸天神とか、関東でいえばあしかがフラワーパークとか有名どころが数々あって、このGWにもたくさんの人出があったことでありましょう。されど、わざとらしくも手を入れたことがありありの藤の姿、「映える」という点ではなるほど文句はありませんですが、そこらに、しかもほかの木々に交じってなんとなく「ああ、藤が咲いてる…」というのも、実は結構な味があるものと思えるのですよね。

 

ということで、なんとなく野辺にある藤の花を愛でたりもしながら、2024年GW後半のひとときは信州に出かけておりましたよ。まあ、2月に諏訪大社下社の秋宮春宮に詣でたことで、勢いがついたというのか、行きがかり上というのか、近いうちに諏訪大社上社の方にも出かけようと考えておったわけでして。まずは諏訪大社上社本宮にやってきたのでありますよ(今回もドライバーという足付きで便利に回らせてもらいました)。

 

 

今でこそ、諏訪大社の総称のもとに同社HPでも「四社まいり」を案内していたりする(まんまとそれに乗っかってしまった口でもありましょうが)わけですが、本来は上社と下社は別の神社であったと言われるとおりに、雰囲気は異なっておるような。決定的な見た目の違いとして、下社の二宮では拝殿の前に置かれた神楽殿に大注連縄が掛かっているのに対して、上社には大注連縄はどこにも無いようで。

 

 

でもって、この行列ができているのが拝殿で奥に見えるのが本殿かと思うも、二つの建物がずいぶん離れているとともに、奥の建物にはご祈祷を受ける者だけが近づけるようになっているのですな。いわゆるご神体を祀る本殿には一般に神職しか近づけないでしょうから、祈祷を受ける者が入っていける奥の建物こそ幣拝殿であって、手前に行列している、いわば単なる参拝者が手を合わせているのは参拝所という建物であると。

 

つまりは本殿が無いという造りになっているわけで、なんとなれば拝殿の奥にまします山こそがご神体であるということなのでありますよ。このことは、稲作との結びつきが強く感じられる神道の形とは異なる要素が感じられて、縄文の名残が強い地域と考えられる諏訪らしさを偲ぶ場所とも言えそうです。

 

 

とはいえ、四本の御柱が幣拝殿の四方に建てられている点では下社も上社も同様でして、これはこれで御柱祭と言われる祭り自体、相当に古い時代から続いているものであって、「804年、桓武天皇の御代からは、信濃國一国の総力をあげて奉仕がなされる様になり…」と同社HPに紹介されているところからだけでも1200年以上経っているわけですから、四社の位置づけを「昔と違う」云々というのも詮無い話ともまた言えるのでありましょう。

 

 

ちなみにこちらは境内社のひとつで高島神社と。諏訪の辺りで「高島」と聞けば、思い出すのは高島城でありましょう。この城を居城に長らく諏訪の地を治めた諏訪氏の中で藩祖と伝わる諏訪頼忠がご祭神として祀られている。脇にある説明板には、このような説明が記されておりましたよ。

諏訪氏は、当大社のご祭神諏訪大神の子孫で上社最高の祀職大祝となり更に藩主として政治を行った。この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である。御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代(頼忠、頼水、忠頼)の御遺徳を尊びお祀りしている。

神職(でもあり藩主でもあり)のご先祖が神様の系譜とは他でも聞く話…というか、日本の始まりを語る神話の系譜とも同様ではありますね。ただ、諏訪大神ともいわれる諏訪大社のご祭神は建御名方神で、「諏訪大社の歴史は大変古く、古事記国譲りに反対した建御名方神が出雲から諏訪へ移ったとされ、新たに信濃国を築き治められた…」と同社HPにある由緒をみるにつけ、やはり弥生VS.縄文の構図を思い浮かべてしまいますですねえ。で、話は上社前宮を訪ねるところに続いてまいります。