…ということで諏訪大社下社秋宮のすぐ近く、信州下諏訪宿の名残をぶらりとしたわけですが、ついでといっては何ですが、この際諏訪大社下社春宮の方も訪ねてみることに。まあ、ついでといえば、上社も含めて「四社まいり」クリアということも思い浮かんだりするものの、諏訪大社HP(の「よくあるご質問」コーナー)には、上社・下社の異同についてこんなふうに紹介もされておりまして。

諏訪大社はもともと、上諏訪神社と下諏訪神社という別々の神社でしたが、明治初年に国の管理となり一つの神社となりました。その名残が諏訪大社の『上社』と『下社』と分かれている由来です。一説には諏訪湖の南北や京の都に対して上方か下方かという事で『上社』『下社』となったとも言われています。

元は上諏訪神社と下諏訪神社ですか。ま、そういうことならば、下諏訪から距離的に離れている上社前宮・本宮は別の機会でもいいか…と。そんなこんなでともかくも、下社春宮へとやってまいりました。

 

 

こちらが神楽殿ですけれど、どうも全体的に秋宮よりも小ぶりな感じではありますね。裏側に控えた拝殿もまた。

 

 

ただ、「大きさこそ違いますが、神楽殿と拝殿、左右片拝殿及御宝殿と続く建物の配置は同じで、春秋両社の建築には彫刻の技が競われています」とは、また諏訪大社HPより。大きさで劣るも、配した彫刻では負けておらんぞ!といった負けず嫌いなところが、地元の人や手がけた大工たちにあったのかもです。

 

 

でもって、秋宮に負けておらないもうひとつと思われるのが、「入口の御影石の大鳥居は万治2年(1659年)建立と推定」される古いものであることでしょうか。この鳥居は高島藩主・諏訪忠晴の寄進によると伝わるようでして、石材の調達にあたり言い伝えが残るというのですな。境内から外れて歩くこと少々、関わりある史跡「万治の石仏」へと到達することができます(が、境内から抜けていく道は雪の中でありました…)。

 

 

石仏の手前には、言われてみればいかにもな文字で、岡本太郎の揮毫による「万治の石仏」と刻まれた碑が建てられておりますが、古いもの、民俗的・土俗的なものに興味津々の岡本が紹介したことで、その存在が一気に知られることになったという経緯があるようですね。で、その万治の石仏はこちらです。

 

 

ところで下社春宮の鳥居建立と石仏との関わりのほどですけれど、下諏訪町HPには古来の言い伝えが紹介されておりました。

「…(鳥居を作るにあたり)これを石材にしようとして石工が鑿を入れたところ、血が流れ出たので神様の祟りと恐れて中止した。その夜石工の夢枕に、上原山(茅野市)に良い石材があるというお告げがあり、上原山の石を使い、急ぎ阿弥陀様を祀って、鳥居の完成を祈願した」という。現在も残っている鑿の跡はその時のものと言われている。

とまあ、いささか怖い話が伝わっているわけながら、今では独特のお参り方法でもって親しまれているようですね。言われはともかく、素朴さひとしおの仏様ですものでねえ。ちなみに独特のお参り方法と申しますのは、こんなふうです。

 

 

せっかくですから、願い事を(例によって「世界平和」と)唱えながら三周して、よろずおさめてまいった次第でありますよ(笑)。