ということで、千葉県の下総台地にあります龍角寺古墳群は「房総のむら」と混然一体のせいか、古民家やら擬洋風建築物やらがあったりもしたのですけれど、もいちど古墳らしい古墳のお話に戻ることに。ひとつはこちら、旧学習院初等科正堂のすぐそばにある「第101号墳」でありますよ。

 

 

龍角寺古墳群にあって、ここに至るまでに見て来た限り、数々の古墳は雑木林の中に埋もれて(というか、盛り上がってはいますが)それと判然としないものが多々ありましたけれど、101号墳は復元してあるということで、はっきりとその姿を望むことができるのですなあ。ちと、解説板を見ておきましょう。

この古墳は、印旛沼を望む高台に造られています。以前から埴輪をもつことが知られていましたが、1984年~1986年に行われた3次にわたる発掘調査の結果、円筒埴輪とともに人物・動物・家などをかたどった形象埴輪をもつことがわかりました。
円筒埴輪は、120個体以上あり、墳丘をめぐっています。形象埴輪は、30個体あり、台状部両脇の堤に集中しています。このような出土状況をもとに埴輪の位置を復元しました。人物埴輪は、盾持ち武人・椀を捧げる女子・帽子を被る男子などで構成されています。動物埴輪には馬・鹿・犬・猪・水鳥があります。これらの埴輪は、死後の世界との境界や葬送の儀式の様子を表したものと考えられます。

 

 

まあ、古墳に埴輪は付き物と思うところながら、先に訪ねた風土記の丘資料館にはこんな説明もありました。やはり埴輪文化も西から東へと伝播してきたわけで。

東日本の(古墳時代)前期末~中期初頭の埴輪は地域ごとに多様な要素をもち、畿内の埴輪工人が直接関与したのではなく、東海地方などを経由して得た情報を基にそれぞれの地域で製作されたと考えられる。しかし、中期になると、明らかに畿内の埴輪工人が関与した規格性のある埴輪が用いられるようになる。須恵器生産の技法を応用して、回転台を使用した新たな埴輪製作技法が出現しており、房総でも墳丘規模が100mを超えるような前方後円墳に、畿内型の埴輪を再現した例が現れている。また、家形・蓋形・馬形などの形象埴輪とともに、人物埴輪が登場する。

さまざまな形が象られる埴輪が登場する以前、円筒形埴輪を立て回したことから古墳とのつながりが始まるとされるわけですが、「房総では(円筒)埴輪を立て始めるのが遅く、壺を並べる風習が長く続いた」とも、資料館に解説されておりました。これはその頃の壺であると。

 

 

この壺の特徴は、展示で鏡写しにされていますように、底部に穴が開いている点のようで(胴部の穴は破損でしょう)。つまり、元々から器として使用するために焼かれたのではなくして、葬送儀礼として古墳に供えることが想定されたが故に、底部は不要ということのようで。もちろん、雨が溜まったりしないという実用性はあったかと思いますが。ちなみに、この穴あき壺は千葉県市原市の新皇塚古墳(4世紀後半)から出土したものとか。

 

翻って、龍角寺古墳群の第101号墳に見る埴輪は畿内型といえましょうか、埴輪らしい埴輪ですなあ。この「埴輪や土器の特徴などから、6世紀前葉に埴輪を立てて築かれ、7世紀初頭まで何回も埋葬が行われた」のがこちらの古墳であると。何しろ8体の人骨(成人男性3・成人女性3・小児1・幼児1)が出土したそうですのでね。権力者の陵墓というよりも家族墓みたいな気もしてくるような。古墳もいろいろでありますなあ。

 

と、言わずもがなながら、復元101号墳の埴輪群はもちろん複製でして、出土した実物は風土記の丘資料館の方で見られます(蛇足ながら…)。