千葉県立房総のむら風土記の丘資料館をひとしきり見て回った後、資料館に至るまでに辿った散策路とはまた別の方向へ。龍角寺古墳群の外れの方へそぞろ歩いていったわけですが、その途中には古民家が移築してあったりしましたなあ。

 

 

 

上が旧御子神家住宅、下が旧平野家住宅ということで、いずれも18世紀から続く建物であるようで。平野家の方はどうやら折悪しく柵が閉まって立ち入れないようになっていましたので、ここでは御子神家の方をちらりと覗きましたですが、こうした建物はのちに触れます千葉県立房総のむら(の有料エリア内)にあってこそ相応しいような気がしました。どうもこの施設、有料エリアと無料エリアを区分ける意図があまり判然とせず…。ま、古墳群のあたりまで有料エリアにはしにくいのでしょうけれどね。

 

で、もそっと進みますと、さらに「有料エリアにこそ」と思えるような建造物が目の前に現れるのですなあ。なんとも実に唐突に。

 

 

解説板に曰く「旧学習院初等科正堂」と。明治32年(1899年)築で「西洋建築のデザインを取り入れながら、日本の伝統的木造建築の技術で造られているのが特徴です」となれば、要するに擬洋風建築ですな。それにしても「学習院の建物が何故ここに?」と思いますですねえ。

 

昭和12年(1937年)に学習院では新たな建物を建てることになり、成田市内(当時は印旛郡遠山村)の小・中学校の講堂として移築されたということですが、明治以来、下総御料牧場がおかれていたことが縁になっていたようで(そも下総台地には江戸期にも幕府の「牧」があったそうな)。

 

 

正堂内にはスリッパに履き替えて上がれるようになってますが、このフローリングの床、なるほど「滑るので注意」といった告知はされてますが、それにしてもよく滑る。小学生なら絶対にスケート遊びをしたくなるくらいにつるつるなのでありましたよ。

 

ところで、今でこそ学習院といえば目白にあると思うところながら、ちょいと前にNHK『ブラタモリ』で目白を取り上げた際、なんとも物知りであるタモリ曰く「学習院は四谷にあった」てなことを言っておりましたですが、この正堂もまさしく四谷に建てられていたそうで。今でも初等科は四谷にあるとは、長年東京に暮らしつつも知らないことはありますですねえ。

 

 

ということで、場所は古墳の点在する龍角寺古墳群の片隅ながら、やおらお目にかかった江戸期の古民家と明治の擬洋風建築なのでありましたよ。続いてはまた少し、古墳の話に戻ることにはなりますが…。