さてと、雑木林の中に比較的こぶりな円墳や前方後円墳が115基も点在する龍角寺古墳群に来て、古墳の間を縫う散策路を歩いてみたところで、到達したのは千葉県立房総のむら風土記の丘資料館でありました。

 

 

令和5年4月29日リニューアルオープンと掲示されておりまして、予てここを訪ねようかと思ったときにはちょうど休館中であったものですから、再開を待っていたらこの時期になってしまったのでありますよ。ともあれ、中へ。さすがにリニューアルから8カ月足らずですので、館内はぴっかぴかです。

 

 

取り敢えずはまさにこの場所、「龍角寺古墳群」の特徴を振り返っておくといたしましょうか。

龍角寺古墳群は、古墳時代後期(6世紀)から終末期(7世紀)の古墳を中心とする、旧下総国最大規模の古墳群である。また、115基のうち前方後円墳が37基で、全体の3分の1を占めることが群構成の特徴である。これは、全国でもっとも前方後円墳の数が多い(733基)千葉県の特性を良く示している。前方後円墳の規模は、墳丘長…30m以下の小規模なものが6割以上を占める。また、前方部の短い帆立貝に近い形が多い。前方後円墳に埋葬することで被葬者の格付けを行った集団の特性がうかがえる。

いやあ、全国でもっとも前方後円墳の数が多いのが千葉県であるとはつゆ知らず。先に古墳群の散策路を歩いている限りでは数多の円墳の中に前方後円墳がちらほらある…といったふうに感じておりましたが。もしかして、権力者を前方後円墳に埋葬した周囲には円墳が陪塚として築かれていたのかもしれませんなあ。

 

その原型は畿内に発すると思しき前方後円墳は王権の拡大ともに、権威を示す陵墓の形として各地に伝わったのでもありましょう。その権威性にあやかりたいと考えて、(大きなは小ぶりながら)形を真似たものが、むしろ畿内から遠方でざくざく作られ続けた。中央ではもはや陵墓の形として旬が過ぎても引き続き…というのは、例えば言葉の伝播で、遠隔な地方の方が古い言葉が温存されるということと同様なのかもしれませんですね。

 

千葉県は海に近く、巨大な貝塚遺跡も残っていて、古くから人々が暮らしてきた土地柄、住まう人が多い、集団も多い、その中から生まれた豪族は競って(中央にあやかり)前方後円墳を築いた結果、全国で最も前方後円墳が多い土地になったのであるか…とまあ、そんなふに想像したりもしたものです。

 

 

この展示を見ますと、龍角寺古墳群が下総台地の縁に集中して作られたことがよく分かりますけれど、崖下はかつて辺り一帯が印旛沼の水面だったのでしょう。本来はすぐ崖下に見えたであろう印旛沼は、古代には「香取海」(かとりのうみ)と呼ばれて、広大さでは琵琶湖に擬えられるほどであったとか。干拓事業などによってすっかり水際は後退してしまっているわけですが、この干拓は後のこととしても、江戸期にも干拓計画が進められたことがありましたなあ。手掛けたのは田沼意次で、事業はその失脚で頓挫した…となれば、ストップをかけたのは松平定信かぁ?と思ったり。余談ですけれどね。

 

ともあれ、そんな水利にも恵まれた下総台地には古墳群を形成するような人々の集住と地域の権力者(豪族)の出現があったわけですが、解説パネルによりますと、長い歴史の中で地域ごとの盛衰もあったのですなあ。

房総では、「香取海」の水運によって先進文化を入手した下総の豪族が優勢だったが、倭五王を結んだのは上総の豪族であった。首長墓には王陵で採用された埴輪が用いられ、最新の文物が副葬された。やがて、配下に、王権に出仕した功績を認められて「王賜」銘鉄剣を授けられた者が現れた。

鉄剣の実物は上総国の国府があったと推定される現在の市原市、そこの埋蔵文化財調査センターに収蔵されているそうな。上の解説に「倭の五王」が出てきますように、5世紀頃のヤマト王権では「鉄資源を確保するために積極的な外交を行った」という時代、鉄は極めて貴重なものであって、鉄剣という威信財を賜ったことはさぞかし上総の格上感が増したことでありましょう。

 

ところで、上の解説には「首長墓には王権で採用された埴輪が用いられ…」とありまして、陵墓の形だけではなくして、埴輪を飾り回すという葬送のあり方もまた中央由来のものであるのですな。さりながら、地域特性が全くないわけでもないようで、その一端をかような出土品で窺い知ることができるような。

 

 

あいにくと龍角寺古墳群でなしに千葉市内の上赤塚1号墳の出土品ですが、5世紀前半の石枕であると。古墳の石室に被葬者を寝かす際の枕になるものですね。石枕はもとより、特徴は周囲に施された「立花」(りっか)という飾りのようでありますよ。

…古墳時代中頃、下総地域を中心に「石枕」を亡くなった人に用いる特徴的な葬送儀礼が行われていた。石枕の周囲には石製の立花を立てるため、小さな孔があけられている。立花は埋葬する前に立てて供え、埋葬時には外していたことが、発掘調査によってわかった。石枕は全国で120例ほど出土しているが、そのうちの半数が千葉県内で出土している。古墳時代の房総を代表する出土品のひとつといえるだろう。

時に中央の権威を借りるべく真似をすることがある一方で、鄙の地には鄙なりの独自文化があったということになりましょう。死者の頭の周りに石造りの(決してしおれない)花を飾ったとは、なかなかに雅ごころがあるではありませんか。とまあ、そんな気付きのある資料館探訪なのでありました。