千葉県佐倉市の街歩きは、訪ねるところどころがそれぞれに些か離れているものですから、最後のスポットではもはや夕暮れ感が漂っておりましたよ。旧堀田邸から歩くこと15分ほどでしょうか、やってきたのは佐倉順天堂記念館でありました。

 

 

佐倉「藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾兼診療所」(佐倉市HP)が記念館になっているのでして、かつてはここを中心に蘭学が盛んであったことから「西の長崎、東の佐倉」と並び称された…ようですが、蘭学の中心地として佐倉が長崎と肩を並べるほどであったと知る人はあまりいないでしょうなあ…。

 

ですので、まずは塾を開いた佐藤泰然の人となりをさらっておくといたしましょう(といって先に申しましたとおり、カメラは破損し、ガラケーのおまけ機能では館内の撮影には能わず、ここからは写真が無いので文字ばかりになりますが…)。

 

文化元年(1804年)武蔵国川崎に生れた佐藤が蘭方医を志したのは決して早くはないようで。江戸で学んだのち、長崎へ留学したのは30歳を過ぎていたわけで。ここでちと余談ですが、武蔵国川崎は現在の神奈川県川崎市ですけれど、当時の川崎あたりは相模国ではなくして武蔵国だったですなあ。

 

かつてはあまりに気にも留めていなかったところながら、JR南武線の川崎市内の駅には高層タワーマンションが林立することで知られる武蔵小杉をはじめ、武蔵中原、武蔵新城、武蔵溝ノ口と、武蔵を冠した駅名が並んでいるわけで、確かに川崎市のあたりは武蔵国だったのでしょう。さらに言えば、横浜市も武蔵国で、明治になって多摩地域がらみで東京府と神奈川県との境界が揺れたりもしますけれど、ともすると川崎や横浜も東京になっていたりしたのかも…です。

 

と、余談はともかくとして、3年間の長崎留学を終えた佐藤泰然、江戸にもどって日本橋薬研堀に和田塾という私塾を開くも、翌天保十年(1839年)には蛮社の獄が起こるというタイミング。蘭学に対する風当たりは大いにあったでしょうなあ。そんなこともあってか、上にも引いたように天保十四年には堀田正睦の招きを受けて佐倉へ移住、順天堂を開くに至ったのであると。

 

 

その頃のようすを解説板で見ておきましょう(どうやら使えそうな写真を1枚発見!)。

…ここ(佐倉順天堂)ではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心として実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。

館内展示には当時使われたという外科手術用具が置かれていたりするのですけれど、あたかも大工道具ではないかというのこぎりほか、見るだけ想像が膨らみ、「いたたたたぁ…」となるような。幸いにして写真はありません(笑)。

 

ちなみに順天堂大学・順天堂病院との関わりについては、このようにありました。

明治時代になると(泰然の養子)佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、御茶ノ水に順天堂医院を開業しました。

ということなのですが、大学の歴史をできるだけ長いものとして示したいのはいずこも同じと思うところでして、順天堂大学では佐藤泰然を学祖として、その淵源を天保九年(1838年)の蘭学塾開設においているという。「違うだろ」とまでは言えませんが…。

 

一方で、佐倉の順天堂はまた別の養子の佐藤舜海が継いで、現在も記念館のお隣に医療法人社団佐倉順天堂医院がありましたですよ。ですが、あちらもこちらも養子、養子となると実子はいなかったのか…いえば、さにあらず。幕末から明治にかけて、医学界の大立者であった松本良順が佐藤泰然の実施であると。こちらはこちらで医家の名家であった松本家の養子になっていたのですなあ。

 

こうした家族の動向なども館内のパネル展示にいろいろ説明がありましたけれど、まあ、取り敢えずこのくらいに。何せ京成佐倉駅に戻るバスの時間が迫っていたものですから(笑)。