先日、ミューザ川崎へ演奏会(というよりもライブですね)を聴きに行った折、これまた川崎浮世絵ギャラリーへ…ではなくして、このほどは東海道かわさき宿交流館という施設に立ち寄ってみたのでありました。

 

 

どうも神奈川県川崎市と言いますと、どうにも工業都市(これに加えて公害のイメージも)という印象ばかりが先に立って、今では大規模化した湾岸沿いのコンビナートが「工場萌え」という状況を醸したり、古くは以前見た映画『俺たちの交響楽』に描かれたような町工場の工員たちが集住した町という気がしておりましたが、さらに昔にはまぎれもなく東海道の宿場町であったのですよねえ。

 

JR川崎駅を東口へ出てそのまままっすぐに進みますと、やがて第一京浜と交差することになりますなあ。いわゆるこれが東海道かと言えばそうでなはないのですなあ。東海道ならば、その後に国道1号線になったと思うところでして、第一京浜は正式には国道15号線であって、経路の異なる第二京浜こそが国道1号線であるわけで。さりながら、第二京浜が東海道であったのかといえば、これまた違うわけでして、むしろ旧東海道の道筋は第一京浜の方がまだ近い…とは、なかなかにややこしいところです。

 

ともあれ、川崎駅を背にしてまっすぐ歩き、第一京浜までのちょうど中ほどくらいのところ、砂子(「いさご」と読むそうな)の交差点で直交し、左右に延びる道筋、これが旧東海道であったのですなあ。こんな石柱がありましたので、間違いなかろうかと。

 

 

この旧街道筋をお江戸方向に少々進んだところに、東海道かわさき宿交流館はあるのですけれど、中には展示室があるということで覗いたみたという次第。入場無料の施設としては、結構展示にお金を掛けてあるなという印象でありましたよ。

 

 

訪ねたときに来場者は他に誰もいませんでしたので、ボランティア・ガイドらしき方が(手持ち無沙汰であったか?)いろいろと教えてくれましたですよ。例えば、川崎宿は日本橋を立って東海道では品川宿の次になる2番目の宿場であると同時に、東海道五十三次の中で最後から2番目にできた宿場町なのだということとか。

 

元来、街道筋にはほぼ二里(8Kmですな)の見当で宿場を設ける想定であったようでして、日本橋から品川までがまさに二里、先の神奈川宿から保土ヶ谷宿までは二里半てなふうですね。場所によってはそうそう都合よくもいかずにまちまちの距離数であったわけですが、川崎宿が最後から2番目と、相当に遅れてできる前は品川を出立して次の神奈川宿までは五里ほどもあったといいますから、ちと長い。加えてこの間には六郷の渡し(つまりは今の多摩川越え)があったとなれば、増水による川止めなんぞもあったでしょうから、結構面倒な道筋だったかもです。

 

ちなみに、お江戸の頃から東海道は大動脈で交通量は多かったでしょうから、すでに慶長五年(1600年)に家康は多摩川越えのために六郷大橋を架けさせたのだとか。ですが、洪水で何度も流され、その度に修復や架け直しが行われるも、元禄七年(1694年)の大洪水の後にはもはや橋を諦め、渡し船とすることに。これが六郷の渡しとして明治まで続いたのだそうでありますよ。

 

まあ、川崎宿ができるのが遅れたのは、橋が架かっているうちは宿場間の距離が長くてもなんとかなっていたところ、やはり川を渡れずに足止めを喰らうなどという事態があって設けられたのかもしれません。何せ宿場の街並みが始まる、ほんのすぐ向こうに渡船場があるくらいですものね。

 

 

とまあ、そんな想像を巡らしたところが、展示解説をよく見てみればちゃあんと「川崎宿の成り立ち」を説明しておりましたなあ。

 

一六〇一(慶長六)年に東海道が幕府によって整備されたとき、川崎にはまだ宿場はありませんでした。当初は品川宿の次は神奈川宿で、その間片道五里(約20キロ)の距離です。伝馬人足に駆り立てられる農民にとって、この往復十里、しかも多摩川を渡らなければならない道中は、体力的にも金銭的にも負担を強いられるものでした。そのため両宿(品川と神奈川)の農民から切実な要望があり、一六二三(元和九)年に設置されたのが「川崎宿」です。

なるほど!単純に旅人のことばかり想定して、片道五里でも大変だろうなと思っていたわけですが、伝馬人足(農民が駆り出されていましたか…)には次の宿場まで物資を送り届けたら、今度は空荷にもせよ、同じ道のりを戻ってこなくてはならないのでした。そりゃあ、むしろ橋があったことで(渡し船待ちの休憩もできませんし)反って大変さが増していたのかもですなあ。

 

 

そんな伝馬人足を差配したのが問屋場でしょうけれど、川崎宿の問屋場は今の旧街道筋でコンビニになっておりましたですよ。機能としては似ているところもある?ような。

 

 

交流館の展示室を訪ねるまでは「川崎って宿場?」てな印象だったわけですが、遅れて設けられた事情も含めて確かに宿場町であったのだと知ることになったのでありました。ちなみに、交流館というネーミングは地元に人たちにとっての集会施設の意味合いもある一方で、無料の休憩スペースは旧東海道を実際に辿って歩く人たちに結構利用されているとか。先にいろいろ教えてくださったボランティアガイドさんの曰く「けっこう歩いてますよ」とのこと。予て(東海道に限らず)街道歩きでもしてみるかな…と考えておりましたですが、「そうか、そんなにやってる人がいるなら、やめとこかな」と。何せ、人だかりと行列には近づかない性質だものですから(笑)。