今年2023年の見納め芝居は劇団民藝公演の『巨匠―ジスワフ・スコヴロンスキ作「巨匠」に拠る―』でありました。見納めてなことを言っても、今年は加藤健一事務所公演『グッドラック、ハリウッド』劇団青年座公演『同盟通信』、そして今回と3本だけでしたなあ…。

 

 

ともあれ、舞台はまさにシェイクスピアの『マクベス』初日の幕が上がる寸前の劇場。開演前にひと言もの申さんと主演俳優の楽屋に演出家が入ってくるのですな。全体の出来は上々にも関わらず、第二幕第一場、幻の短剣を前にしたマクベスのモノローグのところだけ、どうしてセリフ回しが平板になるのかと。はぐらかす主演俳優がついに語ってきかせたことには、とある俳優の「まね」なのだと。芝居全体がぶち壊しになりかねない語り口をどうして真似る必要があるのか…というあたりは、入れ子の外側のお話でして、ここから主演俳優による昔語りとなるのですなあ。

 

時を遡って1944年のポーランド…というだけに彼の地の状況は想像できるものと思いますが、劣勢に立たされてなお強権的に支配を続けるナチス・ドイツから隠れるようにして廃屋となった小学校に住まう数人の人たち。年齢、性別、職業全てがばらばらで元より関係のあるわけでない人たちが共同生活をしていたところへ、レジスタンスのテロに加わった若者がひとり、転がり込んでくるという。一味の残党を探して、住人たちのところにやってきたゲシュタポ将校の曰く、この中から4人の知識人を選んで銃殺にすると。とにかく理不尽な話ですけれど、見せしめなのでしょう。なぜ知識人?と思いましたが、その方が影響力があるというか、むしろ知識人の方が反抗的なので、何かとケチをつけて収容所送りにしてきたこともありますしね。

 

身分証明書記載の職業を頼りに、音楽家、医者、学校教師と選び出されていく中、「自分は俳優だ」とひとりの老人が申し出る。ですが、身分証明書には簿記係とあることから「さがってよい」と退けられることに。老人の曰く、戦時下に生活を送る術として簿記係をやってきたが、「本当は俳優なのだ」と主張を繰り返すわけですね。ただ、ここでひとつ肝心なのは俳優とゲシュタポに認められることは即ち銃殺される4人のひとりとなることに等しいというなのですよね。

 

そうまで言うのならと芝居の一部でも語ってきかせろということになりまして、いつかは主演をと考え、台本を読み込み続けていた『マクベス』から短剣のモノローグを老人は語り始めるという。実はこの老人、長年にわたる俳優稼業のうちのほとんどをいわゆるどさ廻りに費やしてきた、いわば目の出ない人だったわけですが、本人にしてみれば「運がなかっただけ」となるようで。

 

で、ここでの老人のモノローグを聴いていて思い至ったのですなあ、セリフ回しの難しさということに、今さらながらですけれどね。とにかく、ダンカン王殺害の呵責に耐えかねたマクベスの心情を独白で露わにする場面、安直な言い方になりますが、そのさまをセリフ回しでも伝えるのが役者の腕の見せどころなのでしょうけれど、ここでこの芝居を演じている役者の力量として「おお!マクベス」と感じ入らせてはまずいことになる。かといって、いかにも素人然とした棒読み状態もまた違う。どさ廻りながらも長年舞台を踏んできた、でも一流ではないというあたりの匙加減を演じなくてはならないわけですものねえ。そういう説得力の持たせ方は何とも難しいところであろうなあと。

 

ただ、これを目の前にしたゲシュタポ将校がそれこそ知識人であれば、老人が本当に俳優であるかどうか(ここでは知識人であるかどうか、になりますが)を見通したかもしれませんが、結果的に老人は銃殺される側に立たされることになる。身も蓋もない言い方になりますが、ゲシュタポ将校にとってみれば「まあ、ひとりぐらい似非が混じってもいいか」てなことだったのかもですが。

 

しかしながら、老人にとっては「自分が俳優であるのかどうか、そう認められるかどうか」は文字通りの死活問題であったわけですね。もちろん認められれば待っているのは銃殺なのですけれど、認められないとなればそれは老人にとって精神的死にも等しいことになりましょうから。

 

この顛末を見ていたレジスタンスの若者が後に俳優として大成し、今まさに『マクベス』の幕が開かんとしている。かつて目の当たりにした老人の、死を賭した独白にあったであろう意味を見出したのか、俳優はこれに擬えた演技をしようとしているのですなあ。

 

とにもかくにも死と隣り合わせという極限状態を、今芝居として見る側は想像しなくてはならないわけですが、これこそまさに「想像」以外の何ものではないのでしょう。そうした状況の心理が分かるはずもないのですから。ただ、極限的な状況であることには思い至りますが、だからこそかかる極限状況を生じさせてはいけんということも想像できる。だったら、そういう状況を生み出すようなことはしなければいいのに…と思うところながら、どうしてか、人間はそれをやってしまうのですなあ。分かっていてもやってしまう。分かっていることを封印させるだけの「何か」があるという大義名分をかざすのでしょうけれど、そんな大義名分は無いと、人間は言い続けなくてはならないのでありましょうかね…。