下北沢へ芝居を見に行ってきたのでありますよ。折々出かける本多劇場でもって加藤健一事務所の公演ですけれど、そも加藤健一が事務所を立ち上げたのは『審判』というひとり語り芝居を上演するためで、1980年のことでしたですな。以来、40余年、時折シリアスな本を交えつつ、基本線としてはウェルメイド・コメディーを取り上げていますけれど、演目が個人的好みに適うところがあって出かけておるのですな。

 

どうやら常連さんといったところがかなり付いているらしく、毎度公演は盛況だったのですけれど、やはりここにもコロナの後遺症が出ておりましょうか。確かに出かけたのは平日のマチネですので、誰しも観劇に出かけられる時間帯ではないかも。さりながら、以前であれば平日のマチネといえども本多劇場は満席にもなっていたわけですが、前回の葛飾北斎を取り上げた『夏の盛りの蟬のように』以上に加藤健一事務所らしい翻訳劇であるのに後方席には相当以上の空きがあって、まだまだ客の戻りがよろしくないのであるなあ…と思ったりも。

 

と、そんなことはともかくも、今回の演目は『グッドラック、ハリウッド』というもの。ハリウッドを舞台に老映画監督とその女性助手、そこに新進シナリオライターが絡むという話となれば、どうしたって食指を動かしてしまったのでありますよ。

 

 

かつて名監督の名をほしいままにしたボビー・ラッセル(加藤健一)はここ数年、どうも仕事から干されている様子。新しく書いたシナリオが見劣りするものとは言えないまでも、どうも「今」の時代には些かそぐわない。ボビー・ラッセルといえば「ああ、往年の名監督」と言われてしまうほどに、すでに過去の人になりつつあるのですな。仕事が出来ずに鬱々としていたボビーのところへ、新しく映画会社と契約したばかりという新進脚本家のデニス(関口アナン、竹下景子の息子さんだそうで)が飛び込んでくる…というところから、話は始まります。

 

ボビーは自作のお蔵入り脚本をデニスに読ませ、デニスが気に入ったのをいいことに、この脚本をデニス作とすることで映画会社をくどかせ、監督は自らが行って映画化しようという目論見を抱くのですなあ。話にデニスも乗ってきて、映画会社に持ち込むにあたってはくれぐれも「監督はボビー・ラッセルに!」と言わせますが、会社としては脚本を取り上げはするものの、一貫してボビーの介入は排除したい意向のよう。今さら老監督に出てきてもらいたくないようすがありありです。

 

このあたりのところだけを見ますと、ずいぶんとボビーへの仕打ちは酷いんでないの?と思ったりするわけですが、「これぞ映画!」とボビーの語るところに耳を傾ければ、何十年来の価値観に凝り固まっているようでもあり、致し方なさを感じたりもするのでありますよ。

 

その辺から(この芝居の話から逸れていきますので、ボビーがそうだという言いきるつもりはありませんけれど)世にある「老害」なんつう言葉が思い出されてきましたですねえ。よくあるのは企業のような組織体に置いて、過去の成功者たる社長や重役がいつまでもいつまでも権限を握っているような状態。まあ、政治の世界でもよく見られることでありましょうか。

 

このところ自らを顧みても思うところですが、歳を重ねますとどうしても「昔はよかった」的な思いが強くなるような。変化に付いていけていないと言えばそれまでですが、こと政治家(特に某政権与党の)が失言を繰り返すのも、そういうことなのでしょうなあ。

 

そんなところから考えてみますと、政治の世界にせよ、企業社会にせよ、その道で一所懸命に頑張ってきたという自負があればなおのこと、老いてなおその世界で活躍することをいつまでも想定していたりするわけですが、これには引き際というものがあろうかと。

 

いつの時代も世代交代はあるわけで、過去を知る者が交代後の世の中の、あるいは組織状況のありように「う~む」と思うところがあっても、思いを抱く前提条件が過去の尺度とは異なるものになっていたりもするわけで、思い返せば、今は老人でもかつて若い頃には、さらにその上世代からの世代交代があって生きてきたわけですし、そこらあたりにも思いを馳せるのを忘れてはいけんようにも思うところです。

 

芝居の中では(どういうシチュエーションであるかは端折りますが)「I shall return」とマッカーサーの言葉を引用する場面がありましたですが、それで思い出すのはむしろマッカーサーが退任演説に引用した「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉の方でありましょうか。

 

本来的にはアメリカの軍歌のような歌の一節のようで、生き残った兵士はさらに生き続けるけれども彼らが成したことは忘れ去られていく」といった意味合いがあるということですが、これを(本来とは異なるにもせよ)、確かにそれまでの舞台からは退場するにせよ、「死なず」の部分、その後にまだまだ残る人生があることの方を前向きに捉えたらいいのではなかろうかと思ったものでありますよ。

 

それまで活躍してきた舞台(それが会社生活であってもなんでも)から降りること自体(ましてや不本意に降ろされるような感覚があればなおのこと)に寂しさは付きまとうでしょうけれど、何もかもがそれで終わるわけではないことにこそ目を向けたらいいのではなかろうかと。結局のところ(と、話は芝居に戻りますが)ボビーは長年寄り添ってきた助手のメアリーに背中を押される形で、人生の次のステージを探る旅に出かけることになりますね。世代交代はいいことばかりではないでしょうけれど、いささかホッとする結末ではあったように感じたものでありました。